『錆びついたプロムナード』の血塗られた官僚とソーダ
治安判事ヴァレリウスの執務室の空気は重く澱んでいた。それは気圧のせいではなく、ナイフで切り裂けそうなほどに凝縮された緊張感によるものだ。高級葉巻の紫煙と、部屋の隅で低い唸りをあげる魔導技術製空気清浄機から漂う微かなオゾンの臭いが入り混じっている。
磨き上げられたマホガニーの机の向こうで、ヴァレリウスは無理に作ったようなリラックスした姿勢で座っていた。手入れの行き届いた爪を持つ細長い指がコツコツと机を叩き、その猫のような瞳は、侮蔑の色を含んだ薄い笑みを浮かべながら眼前の書類を見つめている。
黒檀衛兵隊の司令官、サー・ケレンは、揺るぎない鋼鉄の柱のごとく部屋の中央に直立していた。彼のプレートアーマーは陰鬱な街の灯りを鈍く反射し、マントには『錆びた錨』での騒乱の名残である灰の染みがこびりついている。その傍らには、彼の私設秘書である女吸血鬼、ヴェスペラが控えていた。彼女は静寂そのもののように、優雅かつ致死的な気配を纏って立っている。ルビーのような真紅の瞳でヴァレリウスを冷ややかに見据え、胸の下で腕を組み、司令官への無言の支持を示していた。
「思った通りだ」
ケレンの声が沈黙を破った。それは重く、抑えきれない失望に満ちていた。
「あの忌々しいミイラを野放しにするなど、戦術的に愚かな賭けだぞ、ヴァレリウス」
ヴァレリウスは深く長い溜息をつき、唇から青い煙を吐き出した。彼は退屈しきった視線をケレンに向ける。
「そう劇的になるな、ケレン。『中央貯水槽』に関する報告書ならもう読んだよ」
ヴァレリウスは葉巻の灰を指先で弾きながら言った。
「私の目が数字を見間違えていないなら、あのファラオ殿は罰金を支払ったはずだ。それも現金でな。純金だぞ、ケレン。あの排水システムを二回改修してもお釣りがくる額だ。技術的に言えば、この街はむしろ儲かったことになる」
「これは貸借対照表の話ではない!」
ケレンが怒鳴り、その声が部屋に轟いた。
「公安の問題だ! 奴は重要インフラを破壊したんだぞ!」
「そして、その代償は支払われた」ヴァレリウスは冷静に遮った。「この件はクローズだ」
ケレンは唸り声を上げ、身を乗り出した。
「では今夜の件はどうだ? 宿屋『錆びた錨』は跡形もなく消え失せた。数十人の民間人が死亡し、あの区画は火の海だ!」
ヴァレリウスは小さく笑った。乾いた、ユーモアの欠片もない笑い声だった。彼は立ち上がり、夜の街を一望できる大きな窓へと歩み寄る。
「やれやれ、司令官。その罪まで彼に着せようとするのはよせ」
ヴァレリウスは振り返りもせずに言った。
「目撃者の証言によれば――そして君自身の諜報報告によれば――爆発が起きた時、あのファラオは現場にすらいなかった。彼は道端で買い食いをしていたそうだぞ。犯人はあの白衣を着た狂気の女だ。すべて彼女の責任だ」
「甘いぞ、ヴァレリウス!」
ケレンは鉄の手甲を嵌めた拳で机を叩きつけた。
「あの狂った女科学者は観光に来たわけではない! 彼女はあの『白い猫』を狩るために来たんだ。そして、その猫は……あのミイラのペットだ。もしミイラがあんな猛獣をこの街に持ち込まなければ、女科学者が街の区画を吹き飛ばす理由などなかったはずだ!」
ヴェスペラが一歩前に出た。その声は滑らかだが鋭く、ヴァレリウスの弁明を切り裂いた。
「司令官の仰る通りです、判事殿。これは因果の連鎖です。ミイラが餌を持ち込み、その餌が捕食者を我々の居住区のど真ん中に誘き寄せたのです。彼の手は今夜の火薬で汚れていないかもしれませんが、彼こそがこの嵐の中心なのです」
ヴァレリウスは振り返った。その顔からは、もはや余裕のある笑みは消え失せていた。瞳が鋭く細められる。
「いい加減にしろ!」
ヴァレリウスは声を荒げ、ケレンに歩み寄ってその瞳を睨みつけた。
「私がなぜ彼を放置しているか分かるか? リスクを知っているからだ。ケメティア。太陽神だ。もし我々が彼を捕らえ、その機嫌を損ねれば……彼はこのノクターヌスの空に本物の太陽を召喚しかねないんだぞ。単なる移民法を適用したいがために、この街の吸血鬼人口の半分を灰にする責任が、君に取れるのか?」
ケレンは一歩も引かなかった。鋼のような眼差しでヴァレリウスを見返す。
「それは臆病者の妄想だ、ヴァレリウス」
ケレンは低く、危険な声で言った。
「仮に奴が太陽を呼べるとしよう。それがどうした? グルームフェンの主権がそう簡単に崩れ去るとでも思っているのか?」
ケレンは背筋を伸ばし、軍人としての覇気を部屋中に充満させた。
「我々には皇帝がおられる。黄昏評議会がある。そして無敵の黒曜石軍団がついている。もし異国の神が一柱、この街を脅かそうというのなら、中央に報告すればいいだけの話だ。帝国の全軍事力を動員する。たかが一人の太陽の魔術師が、大陸全土の戦力に勝てるわけがない。その光がどれほど眩しかろうとな」
ヴァレリウスは口を半開きにしたまま黙り込んだ。ケレンのあまりの勇敢さ――あるいは愚かさ――に、言葉を失ったのだ。
「君は……本気で神との戦争を始める気か?」ヴァレリウスが囁くように言った。
「私は秩序を守りたいだけだ」
ケレンは断固として答え、剣の帯を直した。
「現刻をもって、黒檀衛兵隊が治安維持の指揮権を掌握する。君の政治ごっこになど付き合っていられない。もしあのファラオ、あるいはその仲間たちが、あと一度でも過ちを犯せば……奴が太陽に祈る暇を与える間もなく、私がこの手で首を刎ねてやる」
ヴァレリウスはしばらくケレンを見つめていたが、やがて疲れたように手を振った。彼は再び豪奢な椅子へと腰を下ろす。
「勝手にしろ。好きにやればいい。だが、もし街が燃え尽きても、忠告しなかったとは言わせないぞ。さあ、出ていけ」
ケレンは鉄靴の踵を鳴らして回れ右をし、赤いマントを翻した。ヴェスペラは最後にもう一度だけ侮蔑の視線をヴァレリウスに投げかけ、司令官の後を追って部屋を出た。
冷たい大理石の廊下を、専用エレベーターに向かって二人は歩く。静寂の中、ケレンの重々しい金属の足音だけが響いていた。
エレベーターの扉が閉まり、箱が下降を始めると、ヴェスペラが動いた。
もはや部下として後ろに控えてはいない。彼女はケレンの横に並び、それから少し前へ回り込んで、扉への視界を遮った。
「随分と張り詰めていらっしゃいますね、サー」
ヴェスペラが囁いた。その声は、ヴァレリウスの前で使っていた事務的なトーンではない。低く、掠れ、背徳的な甘い響きを帯びていた。
「ヴァレリウスは臆病なネズミだ」
ケレンは前方を見据えたまま、顎を強張らせて唸った。
「奴は民の血よりも黄金が大事なんだ」
ヴェスペラは微笑んだ。滑らかな革手袋に包まれた手を持ち上げ、ケレンの硬い胸甲の上に置く。金属越しに、男の力強く怒りに満ちた心音が伝わってくる。彼女の指先は冷たい金属の彫刻をなぞるように、ゆっくりと、誘うように這った。
「ネズミのことなどお忘れなさい」
ヴェスペラはさらに一歩近づき、そのしなやかな体をケレンの鎧に押し付けた。彼女は見上げ、司令官の瞳を覗き込む。
「貴方には“解放”が必要です、ケレン。首の筋がこんなに張っているわ。そんな怒りに満ちた頭では、軍など指揮できませんよ」
ケレンはようやく視線を落とし、ヴェスペラの真紅の瞳を見つめた。彼の呼吸がわずかに止まる。
「ヴェスペラ、我々は任務中だ……」
「貴方のシフトはあと十分で終わります」
ヴェスペラは遮った。彼女の手はケレンの首筋へと這い上がり、冷たい指先が襟の隙間に滑り込み、そこにある温かい肌に触れた。
「私の部屋に……特別な夜のために取っておいたヴィンテージの血液ボトルがありますの。それに、かなり頑丈なソファも」
彼女は唇をケレンの耳元に寄せた。その冷たい吐息に、司令官の背筋が粟立つ。
「今夜は私に世話をさせてください、サー」
彼女は囁いた。その言葉は露骨で大胆だった。
「ファラオのことも、太陽のことも、政治のことも忘れさせてあげます。貴方の体からその緊張をすべて搾り取って……立っていられないようにして差し上げますわ。いかが?」
エレベーターの扉が音を立てて開いた。
ケレンは一瞬ヴェスペラを見つめ、やがて深く息を吐き出すと、傷だらけの顔に薄く、しかし野性味のある笑みを浮かべた。彼はその大きな手でヴェスペラの腰を掴んだ。
「危険な女だ、中尉」
彼は低い声で唸った。
「君の部屋へ行くぞ。今すぐだ」
一方、政治的陰謀や軍事的な緊張とは無縁の場所――サント・ヴェレン門の歓楽街の中心、『錆びついたプロムナード』は、全く別の種類の活気に満ちていた。
紫、ピンク、ライムグリーンの魔導ネオンが濡れた路面を洪水のように照らし、水溜まりに反射して、煌びやかな海底世界のような幻想を作り出している。あるクラブからは骸骨のバンドが奏でるジャズが響き、サキュバスたちの笑い声やカジノから聞こえるグラスの触れ合う音と混じり合っていた。
そして、その喧騒の只中を、世界のことなどどうでもいいといった風情で歩く奇妙な人影があった。
イモータル――あるいは、超自然的な改造を施された人間の姿をとるデヴォンは、盗んだ黒いスーツのズボンのポケットに手を突っ込み、のんびりと歩いていた。彼はつい先ほど、非常に愛想の良いサイクロプスが経営する24時間営業のコンビニを出てきたばかりだ(デヴォンが値切り交渉をしなかったから愛想が良かったのかもしれないが)。
右手には、「マナ・フィズ:ブルーベリー・ヴォイド味」と書かれたネオンブルーのソーダ缶。左手には火をつけたばかりの煙草が挟まれており、紫煙が冷たい夜気の中に抽象的な模様を描いている。そして脇の下には、「イカの激辛姿焼き味」のポテトチップスの袋が挟まれていた。
「ふぅ……」
デヴォンは長く煙を吐き出し、街の霧と混ぜ合わせた。
彼はズボンのポケットを探った。「親切にも服を寄付してくれた」吸血鬼のジャケットに入っていた革財布は、そこそこ厚みがあった。約100黄昏債券。ポケットディメンションに保管していた財産(クリスタルと共にすべて消えてしまったが)には遠く及ばないが、買い食いや煙草代には十分だ。こういう些細なことに小銭を使うのも、悪くない充足感がある。
彼はソーダを啜った。鋭い甘さと、魔力を含んだ炭酸の刺激が舌の上で弾ける。
「悪くないな」
チップスをかじりながら、彼は呟いた。
漆黒と、縦に割れた瞳孔を持つ燃えるような赤――その左右色の違う瞳が、行き交う夜の住人たちをスキャンしていく。痴話喧嘩をする吸血鬼のカップル、歌う酔っ払いゴブリンの集団、立ったまま寝ているガーゴイルの店主。
だが、主要なターゲットの痕跡はない。
「ストームクローは何処へ行った?」
彼は独りごちた。声は平坦だが、脳内では高速で確率の分析が行われている。
「ホテルの廃墟周辺は探した。無し。裏路地も見た。無し。下水道に戻ったか? いや、あの猫はプライドが高すぎる。風呂に入った後にあんな汚い場所へ戻るわけがない」
デヴォンは武器屋のショーウィンドウの前で足を止め、ガラスに映る自分の姿を見つめた。黒いスーツは彼のアスレチックな体格にフィットし、鋭く危険なシルエットを作り出している。頭部の小さな赤い翼が、フラストレーションに反応してピクリと動いた。
「十中八九、レヴンを追っているな」
彼は結論付けた。
「あの猫の執念深さは相当なものだ。そしてレヴン……あの狂った女なら間違いなく痕跡を残しているはずだが、簡単に見つかるほど馬鹿でもない」
彼は空になったソーダ缶を見もせずに放り投げ、近くのゴミ箱へ完璧なスリーポイントシュートを決めた。
「どうやら、もっと深くノクターヌスを探る必要がありそうだ。この街は単なる玄関口に過ぎない。もしレヴンが逃亡したなら、大陸の中心部へ向かったはずだ。禁忌の科学や狂気が、もっと許容される場所へ」
デヴォンはスーツの襟を直し、黒い傘を握り直した。
「手がかりが必要だ。もっと詳細な地図か、あるいは……無理矢理にでも口を割らせることのできる誰かが」
彼はプロムナードの道の先、魔導列車のレールが市外の果てしない闇へと湾曲して伸びている方角を見つめた。
「最寄りの駅に行ってルートを探すとしよう」
彼はそう決めると、吸い殻を水溜まりに落とし、微かな音と共に火を消した。
「次の街へ行ってみるか。そこの空気が、硫黄と裏切りの臭いで満ちていないことを願ってな」




