表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/19

雷鳴の戦車と成層圏からの密航者

南方海域の上空は、翼を持たぬ者にとって優雅な場所ではない。


成層圏を吹き抜ける風は、骨から肉を削ぎ落とすほどの獰猛さで唸りを上げている。希薄で冷たい空気は、息を吸うたびに肺を凍てつかせる。目がくらむような青の広がりと、遠目には綿の山脈のように見える積乱雲の只中――三つの小さな点が、重力の法則に逆らい、終端速度で自由落下していた。


「キャアアアアアアアア!」


ミッドナイト・ローズの悲鳴は風の轟音に飲み込まれた。三メートル近い巨体が空中で回転し、ボロボロの漆黒のマントが折れたカラスの翼のように狂った軌道を描く。その腕の中では、二匹の小さなウサギ――ピンクと白の毛玉たち――が、厚い前髪に覆われた顔を母親の胸に埋めていた。彼らの柔らかな毛は、静電気と純粋な恐怖で逆立っている。


「このデカミミズがあっ!夫に言いつけてやるんだから!」


ローズは虚空に向かって悪態をついたが、その声は誰にも届かない。


先ほどのヨルムンガンドのブレスによる爆風の勢いは凄まじく、数秒で彼らを雲の層の彼方へと弾き飛ばしていた。ローズは自身の影を操作してブレーキをかけようと試みたが、この高度、そして直射日光の下では、影を投影できる固形物が存在しない。今の彼女は、ただ衝突を待つだけの黒い飛翔体でしかなかった。


だが、視界がぐるぐると回る混沌の中で、帽子の影に隠れたローズの目が何かを捉えた。


異常な存在アノマリー


遥か眼下、雲海を狂気じみた速度で水平に切り裂く物体があった。魔導飛空艇ではない。ドラゴンでもない。


それは、戦車チャリオットだった。


荒削りだが堅牢に鍛えられた暗色の金属で作られたその戦車を、雄牛ほどの大きさがある二頭の巨大な雄ヤギが引いている。ヤギたちは空気をあたかも大地であるかのように踏みしめ、蹄が空を打つたびに青い稲妻が火花のように激しく散った。


「タングリスニル!タングニョースト!もっと速くだ!」


重厚で威厳のある声が風の轟きを切り裂いた。戦車の上には、周囲の大気を震わせるほどのオーラを纏った一人の男が立っている。


トール。雷神である。


彼は定命の者たちが描く絵画にあるような、輝く黄金の鎧も、劇的にたなびく赤いマントも身につけてはいなかった。否、その姿はずっと原始的プライマルで、より……機能的だった。


トールとは、岩山から削り出された「男らしさ」の定義そのものだ。身長は二メートルを超え、鋼鉄のケーブルのように浮き出た血管と高密度の筋肉が全身を覆っている。肌は太陽と嵐に焼かれて褐色に染まっていた。身につけているのは粗末な革のズボンと、腰と肩に巻かれたシンプルな布切れのみ。厚い胸板と硬く引き締まった腹筋は、自然の猛威にさらけ出されている。


長く伸びた荒々しい赤髪が後方へとなびき、強靭な顎を縁取る短い赤髭と一体化していた。その顔立ちは整っているが、王子のような繊細な美しさではない。数千の戦場を生き抜いた歴戦の戦士だけが持つ、野性的な美貌だ。そしてその目……瞳孔はなく、代わりに二つの黄色い光球が激しく輝き、抑えきれない雷撃のエネルギーがバチバチと音を立てていた。


エレクトリック・イエローの瞳は真っ直ぐ前を見据えている。彼は長い間放置されていた神々の領域の境界線を巡回していたのだ。それは義務というよりは、むしろ郷愁に近い任務だった。


彼の座席の横には、一つの武器が転がっていた。ミョルニルだ。


しかし、その戦鎚は古臭い鉄塊には見えなかった。デザインが進化しているのだ。柄はマットブラックの複合素材で作られ、幾何学的なラインがネオンブルーに発光している。四角く巨大なハンマーヘッドの金属内部にはエネルギー回路が埋め込まれており、近未来的な印象を与えている――アスガルドの古代魔法と先端技術の融合。それは時代と共に進化した神の武器だった。トールの巨躯に合わせて調整されたそのサイズは、惑星破壊兵器のようにも見えた。


突然、トールの耳がピクリと動いた。神の直感が大気の乱れを感知したのだ。


彼は岩のような立ち姿を崩さず、視線だけを上空に向けた。黄色い瞳が細まり、自分に向かって急降下してくる黒い物体に焦点を合わせる。


「あ?」


遠雷のように低い声で彼は呟いた。


「ミサイルか?」


頭上では、ミッドナイト・ローズが好機を見出していた。生存本能が思考を乗っ取る。


「あれよ!タダ乗りできるじゃない!」


ローズは右手を突き出した。掌から放たれたのは肉体ではなく、実体化した影だった。漆黒の鎖が槍のように鋭く伸び、瞬きの間に数十メートルを駆け抜け、眼下を疾走する戦車を追う。


ガアアアンッ!


影の鎖の先端が、恐ろしいほどの精密さでトールの戦車の手すりに巻き付いた。


「捕まえた!」ローズが叫ぶ。


一気に自分を引き寄せる。落下エネルギーが無理やり水平方向のスイングへと変換され、物理法則が悲鳴を上げた。ローズと腕の中の二匹のウサギは空中で弧を描き、猛スピードで戦車へと迫る。


トールは動かなかった。避けもしなければ、攻撃もしない。ただ招かれざる客の到来によって生じた風に赤髪をなびかせながら、静止していた。何が起こるのか見極めようとしていたのだ。


ズスン。


ローズはトールのすぐ隣の座席に、重く、しかし優雅に着地した。突然の重量増に戦車が激しく揺れ、片側に傾き、魔法のサスペンションが軋みを上げる。


「ほっ!」


衝撃でローズの腕から二匹のウサギが放り出された。彼らは一瞬宙に浮き、愛らしい音を立てて着地した。


戦車の床ではない。あろうことか、ミョルニルのハンマーヘッドの上に着地したのだ。


一瞬の静寂。聞こえるのは風の音と、ヤギたちが発する電気のスパーク音だけ。


ミッドナイト・ローズは体を起こした。275センチという彼女の身長は、並んで座ると「たかが」225センチのトールを少し小さく見せた。つば広の帽子を被ったローズのミステリアスな黒いシルエットは、トールの発する黄金と赤のオーラと鮮やかな対比をなしていた。


ローズは顔を向け、帽子の影にある虚無のような「顔」で雷神を見つめた。片手を上げ、乱れた赤いスカーフの位置を直す。


「えへへへ……」


ローズの笑い声は気まずそうでありながらも旋律的で、希薄な空気に響いた。


「ごめんなさいね、ハンサムな神様。少し乗せてもらってもいいかしら? 外は……ちょっと風が強くて」


トールはすぐには答えなかった。彼はゆっくりと首を回し、強烈な眼差しでローズを見つめた。燃える黄色い瞳が黒い姿を上から下へとスキャンし、脅威度を、そして力を測る。彼はこの女から濃厚な死の気配を感じ取っていた――高位の存在に匹敵する気配を。


「人間ではないな」トールの口から出た言葉は重く、無駄がなかった。「それに、重い。」


「あら、レディの体重に文句をつけるなんて失礼ね」ローズはくすりと笑い、長い脚をゆったりと組んだ。「私の名前はローズ。ミッドナイト・ローズよ。そして、あなたのそのオモチャのハンマーの上に乗っている毛玉たちは、私の子供たち。」


トールは視線を下げた。


ミョルニルの上で、白ウサギとピンクウサギが、厚い前髪の隙間から大きな目でトールを見上げていた。ピンクウサギは無邪気な好奇心で、ミョルニルの近未来的な表面を小さな足でペチペチと叩いている。


「空から落ちてきたな」トールは視線を前に戻し、ヤギの手綱を握り直して言った。「なぜだ?」


「ああ、それはね……」ローズは深いため息をついた。その口調は、疲れ切った主婦の苛立ちと疲労が入り混じったものに変わった。「長くて腹が立つ話なんだけど。私、夫を探しているのよ、知ってる? 彼、どこかへ行っちゃって。それで海の真ん中まで来て、死んだクジラの上でピクニックを楽しんでいたのに……突然よ。」


ローズは手で爆発のジェスチャーをした。


「……ドカーン! 海の中からサイズを間違えた巨大ミミズが出てきたの。そいつがくしゃみ――叫んだのかもしれないけど――をして、私たちをここまで吹き飛ばしたのよ。失礼しちゃうわよね?」


手綱を握るトールの手が凍りついた。


戦車を取り巻く空気が劇的に変化した。晴れ渡っていた空が急激に陰る。周囲の積乱雲は数秒で暗灰色に変わり、牽引する二頭のヤギの角の間で雷光が激しく明滅し始めた。


トールはゆっくりとローズの方を向いた。ハンサムな顔は険しく強張り、顎は首の血管が浮き出るほど硬く噛み締められている。黄色い瞳は、今にも爆発しそうな二つの小さな太陽のように、恐ろしいほどの光度で燃え上がっていた。


「巨大な……ミミズだと?」


トールが呻いた。その声は太古の怒りを抑え込み、震えている。


「ええ」ローズは空気の変化に気づかず、無邪気に答えた。「すごく大きかったわ。苔みたいな緑色で、目は金色。息は賞味期限切れの硫黄の臭いがしたわ。」


「ヨルムンガンド。」


その名は、呪いのようにトールの口から吐き出された。


ガラララララッ!


主の怒りに呼応し、空で雷鳴が炸裂した。トールが戦車の縁を握りしめると、指の下で金属がひしゃげた。腕の筋肉が膨張し、目に痛いほどの青い電流が走る。数千年の怨念、保留されたラグナロクの運命、そして世界蛇に対する純粋な憎悪が、彼の血を沸騰させていた。


「奴め……目覚めていたのか……」トールは唸った。「あのクソ蛇め……俺が定期パトロール中の時に限って顔を出すとは!」


ローズは首を傾げ、バーサーカーモードに入りかけているトールを見つめた。「あら? 知り合いなの? 昔の友達?」


ローズの素っ頓狂な質問は、トールの怒りの炎に冷水を浴びせるようなものだった。雷神はハッとして、深く息を吸い込んだ。一瞬目を閉じ、感情の波を制御する。真の戦士は、見知らぬ他者の前で怒りに支配されてはならない。


空が徐々に明るさを取り戻し、雷が収まっていく。トールが目を開けたとき、そこには警戒色は残るものの、静けさが戻っていた。


「友人ではない」トールは短く答え、声は平坦に戻った。「宿敵だ。奴を殺すのが俺の運命であり、俺を殺すのが奴の運命だ。複雑な関係でな。」


トールは再びローズを見たが、今度は僅かな敬意が含まれていた。「奴のブレスを生き延びたのか。それは……稀有な偉業だ。大抵の生き物は塵と化す。」


「私、ちょっと肌が厚いのよ」ローズは肩をすくめた。「それに、逃げるのは得意だから。」


「俺の名はトール」神は短い頷きと共に名乗った。「オーディンの子。そして、残されたエーテルガルドの守護者だ。」


「お近づきになれて光栄だわ、トール様」ローズは丁寧に返した。「それで……あなた、この辺りの道には詳しい? 私、どうしても夫を見つけなきゃいけないの。名前はデヴォン。ハンサムで、髪型はこの子たち(ウサギ)に似てて、オッドアイで……たぶんトラブルに巻き込まれてる。」


トールは少しの間沈黙し、情報を処理した。「南方海域の真ん中で夫を探すなど愚行だ。下には水と怪物しかいない。」


突然、小さな「クリッ」という音が彼らの注意を引いた。


二人は視線を落とした。


白ウサギとピンクウサギが、不可能なことに挑戦していた。少なくとも、挑戦しようとしていた。


白ウサギが小さな両手でミョルニルの柄を握り、足を踏ん張り、全力で引っ張っているのだ。顔を真っ赤にし(少なくとも毛の下で力んでいるように見え)、可愛らしい牙を剥き出しにして唸っている。


「ぬぬぬぬぬぬっ!」


ピンクウサギは反対側からハンマーヘッドを押して加勢している。


「ふんぬっ! ふんぬっ!」


当然、伝説の戦鎚は一ミリたりとも動かない。ミョルニルの重さは単なる物理的な質量ではない。「資格」の重さであり、死にゆく星の重さであり、遺伝子ロックの呪文そのものだ。


だが、トールは笑わなかった。彼は片眉を上げ、二匹の小さな生き物を見つめた。


「こいつら……」トールの声には、呆れと感心が混ざったような響きがあった。「ミョルニルを持ち上げようとしているのか? 命知らずな。」


「うちの子たちは野心家なのよ」ローズは誇らしげに言った。「ほら、頑張って! もっと強く引くのよ! 後でママが人参を買ってあげるから!」


トールは鼻を鳴らし、口の端を微かに持ち上げて男らしい笑みを浮かべた。「そのハンマーには生体認証ロックと神レベルの重力魔法がかかっている。巨人ですら動かせん。だが……その気概は悪くない。」


トールは前を向き直し、ヤギの手綱を引いた。戦車は北へ向けて鋭く旋回し、ヨルムンガンドが潜む海域を背にした。


「こんな風に闇雲に飛んでいても夫は見つからんぞ、ローズ」風の音に負けない声でトールが言った。「それに、あの蛇が目覚めたのなら、この海は戦場になる。子供たちには危険だ。」


トールは水平線を真っ直ぐに見据える。


「送ってやる」トールは決めた。「俺には知人がいる。あらゆる場所に目と耳を持つ『観測者』だ。もしお前の夫がこの世界で生きているなら、奴が知っているはずだ。」


ローズは帽子の影の下で微笑んだ。「コワモテの神様にしては、随分と親切なのね、トール様。」


「俺は親切な神ではない」トールは否定し、黄色い瞳を輝かせた。「ただ、蛇を憎む神だ。そして、敵の敵は……俺の戦車に乗る資格がある。掴まっていろ。」


バリバリバリッ!


雷鳴と共に、戦車は空を切り裂いて加速した。煙と電流の軌跡を残し、影の妻とその子供たちを次の手がかりへと運んでいく。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ