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狂気の血清と少佐の剣舞

隔離セクター、ブロック26の空気は、もはや無菌室の消毒液のそれではない。漂っているのは、焼け焦げた銅と肉、そして回路がショートした際のオゾンの刺激臭だけだ。


「くそっ! くそったれ! 下がれ! 全ドローン、防衛フォーメーションをとれ!」


サイボーグ士官の怒号は、この世のものとは思えない咆哮にかき消された。広大な鋼鉄のホールの中心で、被検体X001――通称『フレッシュ・ウィーバー(肉を紡ぐ者)』が暴れ回っていた。


その生物は、解剖学的な悪夢そのものだった。巨体は4メートルにまで膨れ上がり、皮を剥がれた赤い筋肉が狂ったように脈動している。自らの肉の繊維を編み上げては引きちぎり、おぞましい再生のサイクルを繰り返していた。周囲を旋回する数十機のセキュリティ・ドローンが赤いレーザーと大口径弾を吐き出したが、サイの皮膚を蚊が刺した程度にも効いていない。


銃弾が肉を切り裂くたびに、黒い筋繊維が瞬時に傷口を縫い合わせ、シューッという音と共に高熱の蒸気を噴き上げるだけだった。


ひび割れたコンクリートの柱の陰で、セラシアン族のサメ女、シャーキー巡査は冷たい壁に背中を押し付けていた。呼吸は荒く、首のえらがパニックで震えている。手にした魔導アサルトライフルが震えているのは、反動のせいではない。純粋な恐怖のせいだ。


その隣で、惨めな胎児のポーズでうずくまっているのは、アリス・ソーン博士だ。医療用サイボーグである彼は膝を抱え、義眼が不安定に点滅していた。


「ドクター……」


シャーキーが低い声で唸った。その声には毒が含まれていた。彼女はアリスの(今は埃まみれの)白衣の襟を掴み上げた。


「もう一度説明してくれ。アタシはさっき、何を頼んだ?」


アリス博士は乾いた、気まずそうな、そしてこの場に全くそぐわない笑い声を漏らした。肉の残る鼻の上で、ずれた眼鏡を直す。


「え、ええと……鎮静剤だよ、シャーキー巡査。象でも眠るような高用量のやつを」アリスの声が震える。


「で、五分前にあの化け物の首に注射したのは何だ?」


アリス博士は顔を背け、天井を見上げた。まるでそこに複雑な数学の答えがあるかのように。「いやぁ……ほら、ここ三日ほどブロック28の実験で寝不足だったし……瓶のラベルが似てて……色も同じ紫で……」


「誤魔化すな!」


シャーキーが怒鳴り、ノコギリのような歯を博士の顔の目の前で見せつけた。


「あ、あれは……実験用変異血清タイプZです。アドレナリン刺激剤と無限細胞再生剤の……」アリスが蚊の鳴くような声で言った。「ごめん?」


「ごめん、だとぉ!?」


ズガァァァン!


爆風が二人を吹き飛ばし、地面に叩きつけた。シャーキーは素早く戦場へと視線を向けた。


そこには絶望的な光景が広がっていた。


歩く戦車のように頑強なサメのサイボーグ、マコ巡査が、X001の巨大な腕に払いのけられたところだった。マコの金属の体はボロ人形のように宙を舞い、耳をつんざくような破壊音と共に鋼鉄の壁に激突した。肩の関節から火花が散り、彼は動かなくなった。


「マコ!」シャーキーが叫ぶ。


「シールド! ヴォイド・シールド展開!」


ジャックス・セロン中尉が飛び出した。普段は冷静なS型サイボーグも、今は必死の形相だ。左腕のシールドジェネレーターを起動すると、目の前に青く透明な六角形のエネルギー壁が出現し、X001の突進を止めようとした。


だが、X001は止まらなかった。数千の魂を繋ぎ合わせたような叫び声をあげる。


グチャリ。バキッ。


X001の体から湿った音が響いた。右手が自らの胸を突き破り、肋骨をへし折って、背骨を掴んだのだ。


吐き気を催すような破砕音と共に、怪物は黒い血とマグマにまみれた長い骨を引きずり出した。骨は圧縮され、伸び、鋭利になり、巨大な骨の大剣グレートソードへと変貌した。煮えたぎる血――黒いマグマが刃を伝い、床に滴り落ちて鋼鉄を溶かしていく。


「嘘だろ……」ジャックスが目を見開いて呟く。


X001が骨の剣を振り下ろした。


ドォォォォン!


その一撃は、ジャックスのエネルギーシールドを薄いガラスのように一瞬で粉砕した。衝撃波がジャックスを後方へ吹き飛ばす。エリートサイボーグの体は床を引きずられ、装甲が深く削れ、背中がドアの制御パネルに激しく叩きつけられた。


「ジャックス!」


今や、怪物とシャーキーたちの隠れ場所の間を遮るものは何もなかった。


X001の頭部が、不自然な動きでギギギと回転した。赤く輝く複眼が標的を捉える。シャーキーとアリス博士だ。


「グゥルルルアアアアア!」


怪物が跳躍した。20メートルの距離を一飛びで食らい尽くす。黒いマグマを滴らせる骨の大剣が高々と振り上げられた。柱も、シャーキーも、アリスもろとも、黒焦げの両断死体に変えるために。


シャーキーは頭を抱えた。アリス博士は固く目を閉じ、最期の化学式を口の中で唱えた。


(これで終わりか……)


シャーキーは心の中で呟いた。漆黒の瞳の端に、悔し涙が浮かぶ。


時間がスローモーションになったように感じた。マグマの熱気が、もう顔の皮膚を焦がしそうだった。


カァァァン!


その音は、肉が裂ける音ではなかった。純粋な鋼鉄同士が激突する音だ。


突風がシャーキーの顔を打ち、彼女は無理やり目を開けた。


彼らの目の前に、揺るぎない姿勢で立つ長身の男がいた。吹き荒れるエネルギーの嵐の中で、長い純白のコートがはためいている。その広い背中が、彼らと死を隔てる壁となっていた。


ヴェイレン・ヴァンス少佐。


彼は、何トンもの重量があるはずの骨の大剣を、銀色に輝く直刀一本、それも片手だけで受け止めていた。足は1ミリたりとも動いていない。足元の床は衝撃で蜘蛛の巣状にひび割れているが、ヴェイレンその人は、凍った湖面のように静まり返っていた。


「到着が遅れてすまない」


ヴェイレンの声は平坦で、礼儀正しく、そしてこの混沌の中で異様なほどの威厳に満ちていた。彼はわずかに振り返り、生身の目とサイバネティックな目で、冷ややかにシャーキーとアリスを見下ろした。


「二人とも、随分と無様な姿だな」


「しょ、少佐……」シャーキーは息を吐き出し、一気に膝の力が抜けた。「たぶん……アタシ、今なら安心して気絶できそうです」


「許可する」ヴェイレンが短く答えた。


ドサッ。


シャーキーとアリス博士は同時に意識を手放し、過度の安堵から折り重なるように倒れた。


ヴェイレンの前で、X001は攻撃を止められたことに激怒し、咆哮した。怪物は骨の剣をさらに強く押し込み、黒いマグマを噴出させてヴェイレンの刀を溶かそうとする。怪物の腕の筋肉が二倍に膨張し、黒い血管が破裂しそうなほど脈打った。


「感心する膂力りょりょくだ」ヴェイレンはまるで絵画を品定めするように言った。「だが、技術はゼロだな」


ヒュン。


ヴェイレンが消えた。


テレポートではない。純粋な速度だ。常人の網膜が処理できる速度を超えて動いたのだ。


骨の剣にかかっていた圧力が唐突に消え、X001はバランスを崩して前につんのめった。


怪物が体勢を立て直すよりも早く、ヴェイレンはすでに怪物の背後、空中に逆さまの状態で出現していた。


「ヴォイド流剣術:分子切断」


ザンッ。ザンッ。ザンッ。ザンッ。


四つの銀色の閃光が、空中に完璧な正方形を描いた。


X001が吠えたが、今度は混乱の叫びだった。両の巨大な腕が突然肩から外れ、綺麗にサイコロ状の肉片となって、ボトボトと湿った音を立てて床に落ちた。


ヴェイレンは優雅に床に着地し、刀を一振りして付着した黒い血を払った。


だが、怪物はまだ終わっていなかった。


「キシャァァァァァ!」


切断された肩の断面から、赤い肉が発泡スチロールのように急速に膨張して爆ぜた。瞬きする間に新しい腕が生えてくる――今度は手ではなく、ねじれた骨と筋肉でできた鋭利なカマだ。血清の過剰投与による即時再生。


「厄介だな」とヴェイレンが呟く。


X001が旋回し、新しい鎌で水平に薙ぎ払った。近くのコンクリートの柱が、まるでバターのように切断される。


ヴェイレンは後方へ跳んだ。水面を舞うような軽い足取りだ。彼は意図的に、気絶しているシャーキーとアリスから怪物を引き離した。


「こっちだ、失敗作」ヴェイレンが冷たく挑発する。


怪物が突進した。左の鎌が首を狙い、右の鎌が心臓を突く。ヴェイレンは鞘で左の斬撃を受け流し、刀身で右の突きを弾いた。青い火花と黒いマグマが二人の間で飛び散る。


ヴェイレンの動きは、効率性のシンフォニーだった。無駄な動きが一切ない。すべての防御が、反撃への布石となっている。


ジンッ!


再び、ヴェイレンが怪物とすれ違う。X001の両鎌がまたも切断された。


だが、X001は学習していた。あるいは、血清の本能が進化したのか。


腕を再生する代わりに、X001の背中が突然膨れ上がった。皮膚が裂け、蜂の巣のような無数のおぞましい穴が脈動する。


「離れろ!」部屋の隅で意識を取り戻したジャックスが叫んだ。


シュパパパパパッ!


怪物の背中から、黒いマグマを帯びた何百もの骨のとげが、有機的なガトリングガンのように発射された。死の雨がヴェイレンを襲い、回避可能なエリアをすべて埋め尽くす。


ヴェイレンは走らなかった。彼は立ち止まり、一度だけ効率的な酸素循環サイクルで息を吸った。そして、両手で刀を構えた。


「絶対防御:鉄の巡礼」


ヴェイレンの手が霞んだ。刀があまりにも速く動き、彼の周囲に銀色のドームを作り出した。


キン! ガン! キン! カァァン!


迫りくる骨の弾丸はすべて弾かれ、切り落とされ、あるいは反射された。白いコートには一片たりとも触れていない。ヴェイレンの周囲の床は骨とマグマの残骸で粉々になったが、彼はその小さなクレーターの中心に、無傷で立っていた。


X001が骨の弾薬を撃ち尽くし、連射が止まったその瞬間……。


「今だ、リコ!」


ヴェイレンは振り返りもせずに叫んだ。


2階の監視バルコニーでは、リコ・“バズ”・ソーン軍曹が満面の笑みで待ち構えていた。肩には携帯型エネルギーキャノン『ヘル・バスター』を担ぎ、その砲身はすでに回転し、高熱の唸りを上げている。


「食らいな、この挽き肉野郎!」


ズドン! ズドン! ズドン!


高出力の青いエネルギー弾が、X001の胸部に次々と着弾した。爆発が怪物の分厚い筋肉層を食い破り、再生能力を焼き尽くし、胸部に風穴を開けた。


「グオオオオオ!」X001はよろめき、苦痛に咆哮した。


破壊され煙を上げる胸の中心に、明るい紫に脈打つ何かが見えた。変異したコア(心臓核)だ。


ヴェイレンのサイバー・アイが標的をロックした。


「終わりだ」


ヴェイレンは身を低くし、サイボーグの脚部筋肉にパワーを充填した。


バン!


彼は銀の弾丸となって疾走した。爆発を抜け、煙を抜け、怪物の咆哮さえも置き去りにして。


一閃。混じりけのない、水平の斬撃。


閃光。


世界が二つに分たれたかのようだった。


ヴェイレンはX001の背後に着地し、ゆっくりと刀を鞘に納めた。カチリ。


背後で、X001の体が凍りついた。紫のコアが正確に両断されていた。怪物の目の光が消える。


そして……巨体は崩れ落ち、ただの死肉と黒い塵の山へと変わった。


ブロック26に静寂が戻った。


「ブハハハハハ!」


バルコニーからリコの笑い声が響いた。彼は煙を上げるキャノンをポンポンと叩いた。


「見たか! これがチームワークってもんだ!」リコは身を乗り出し、折れた肋骨を押さえながら辛うじて立ち上がろうとしているジャックスを見下ろした。「おい、ジャックス中尉! 見たかよ? 化け物ってのはこうやって料理すんだよ! ピンポン玉みたいに壁に投げつけられるんじゃなくてな! ギャハハ、お前のシールドは安物のクラッカーで出来てんのか?」


ジャックスは不愉快そうに鼻を鳴らし、口元の血を拭った。「黙れ、軍曹。安全なバルコニーからの狙撃手じゃなく、暴れる怪物の前に立ってみてから言え」


「それを戦略って言うんだよ、中尉。せ・ん・りゃ・く!」リコはまだ笑っている。


戦いの埃が落ち着き始めたその時、ブロックの端にあるメインの防爆ドアが爆発し、吹き飛んだ。


ドゴォォォォン!


煙が立ち込める。その向こうから、背中のジェットスラスターを噴射させた『深淵のヴィオラク』が現れた。その後ろにはシンドラ・マルファス大尉と、重武装したメカ部隊が続いている。


ヴィオラクはドラマチックなスーパーヒーローのポーズで着地し、巨大な鉄拳を床に叩きつけた。敵を粉砕する準備は万端だ。


「恐れるな! 私が来たぞ!」ヴィオラクが吠えた。目は紫色に輝き、敵を探して部屋中をスキャンする。「どこだ!? あのクソったれなX001はどこだ!? その頭蓋骨を粉々にしてくれる!」


ヴィオラクは動きを止めた。周囲を見渡す。


床で溶け始めている死肉の山を見た。優雅にコートの埃を払っているヴェイレンを見た。バルコニーで葉巻に火をつけているリコを見た。


沈黙。


ヴィオラクはゆっくりと直立し、肩をがっくりと落とした。鰓から失望の蒸気が漏れる。


「もう……終わったのか?」ヴィオラクはとても、とても悲しそうな声で尋ねた。


「副所長、3分40秒の遅刻だ」ヴェイレンは振り返りもせず、腕時計を確認して言った。「見せ場は終わった。だが、この粘液の掃除なら手伝ってもいいぞ」


シンドラ大尉は額に手を当て、拗ねている上司を見て深い溜息をついた。「総員、エリアを確保せよ。被害者のために医療チームを呼べ」


戦後の混乱の中、ヴェイレンはただ静かに立ち、冷徹な分析眼でX001の肉塊を見つめていた。その背景では、またしても殴るチャンスを逃したヴィオラクが、欲求不満で小石を蹴飛ばしていた。



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