如月一族 その3
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「貴方は知りすぎた様だ。」
そう言った僕に、相澤所長は微笑んだ。
「そして貴方はMI6のQなんかじゃない。おそらくMだ。
海保内に秘密情報部があるという気はしていました。
表向きの警備装備課の情報チーム、あれはカモフラージュですね。」
「どうしてそう思う?」
「僕は“制御できる危険”が好きで、海保に入りました。
自衛隊や警察の古い管理体制は合わない。
だが海保は警察であり、同時に準軍事組織でもある。
意識管理は米軍やNATOに近い。
そこに陸軍中野学校の系譜を組み込む方が合理的だ――
そういうプロファイリングです。」
所長は小さく息を吐いた。
「見事だ。如月君。君は100点満点のテストで150点を取る男だよ。」
「200点を取ってしまう男がいますけどね。」
「……アギトか。」
「ええ。」
「先月の制圧術大会で一本取られたそうだな?」
「完敗でした。
僕のフォーカスが、開始三十秒で落ちた。」
所長は眉を動かさない。
「彼は、奪わない。」
「何をだ?」
「フォーカス――意識のシフトです。
守りもしない。
支配もしない。
ただ、空間のノイズを消す。」
所長の目がわずかに細くなる。
「……ほう。」
「僕が崩れたのは、技ではありません。
自分の判断が一瞬、鈍っただけです。」
「それを三十秒で作れる男か。」
「ええ。
彼は“最短距離”しか選ばない。」
静寂。
「彼は日本のジェームズボンドだ。
そして君はまだ若い。
四鬼とはいえ――さしずめスパイゲームのビショップか。」
「……ビショップですか。」
「盤上で最も自由に動ける駒だ。」
僕は黙った。
だが、分かっている。
アギトは――
盤の外から見ている男でもある。
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所長は静かに言った。
「ただ、彼については分からないことも多い。」
「……」
「七年前だ。武漢でのゲーム大会の後からだという話もある。」
僕は何も言わない。
「帰国後、まるで別人になったと。」
窓の外を眺めながら
「ボンドというより――アンチェインだ。」
「アンチェイン……」
「鎖に繋がれていない。
国家にも、組織にも、理屈にもな。」
所長は淡々と続けた。
「北海道での対獣制圧訓練。
映像が残っている。」
「……」
「ヒグマが倒れていた。
ナイフを片手に彼は無傷だった。」
それだけだった。
「最早、人間であるかどうか、それさえ分からん。
超越者だ。」
「ゾッとしますね。」
「ああ。
もしカナリアの群れに、一羽だけ違う鳥が紛れていたら――
そんな印象だ。」
生物兵器。
その言葉が胸の奥で反響する。
だが、口には出さない。
その日は、
色んな意味で、はじまりの日だった。
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「とぼけた顔して、ババンバーン」
帰りの車内。
FMから、やけに軽い旋律が流れてくる。
フロントガラスに映る自分の顔が、
ほんの少しだけ他人に見えた。
信号が赤に変わる。
ブレーキ。
――チリ。
微かな振動。
エンジンではない。
道路でもない。
空間の奥で、何かが擦れる。
視界の端が、刹那、わずかに歪む。
気のせいだ。
深呼吸。
鼓動は正常。
体温も、平常。
だが――
信号が青に変わる、0.3秒前。
俺の足は、すでにアクセルを踏んでいた。
「……」
偶然だ。
そう思うことにする。
FMはまだ陽気だ。
「とぼけた顔して、ババンバーン――」
スパイダーズは嫌いじゃない。
夜の街が流れていく。
その日を境に、
世界のノイズは、
ほんの少しだけ静かになった。




