表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/113

第8章 非常のライセンス


市内の大型カラオケ店。

週末の夜で、店内はほぼ満席だった。


受付を抜け、イベント用の広い部屋へ入ると――岩野がいた。

マイクを握り、野際陽子の《非常のライセンス》を全力でシャウトしている。


あの無駄に渋い選曲を、器用にロック調で歌いこなすあたりが、いかにも岩野らしかった。

曲が終わり、拍手の代わりに俺が椅子に腰を下ろすと、店員がコーラを二つ運んできた。

氷の音がグラスを叩く。


(……フラクタル化してからというもの、妙に高カロリーの飲み物を好むようになった。

必要というより、身体が“燃料”を要求している感覚だ。

岩野は、最近の俺の“変化”を知っていたのかもしれない。)


だが店員は、俺の顔を見た瞬間に固まり、怯えたように視線を逸らして去っていった。


岩野が笑う。

「アモン、お前、それ……ハロウィンでやったらバカウケだぜ。」


「何の話だ?」


訝しみながら、ルームの隅にある鏡を覗く。


……理解した。


ブラックライト。

紫外線に反応して、俺の髪、瞳、歯――すべてが蛍光グリーンに光っていた。

薄い革手袋を外すと、爪まで淡く発光している。


蠍が紫外線を浴びると体表のタンパク質が蛍光を放つ。

その現象が俺の身体でも起きていた。

――皮膚と空気のあいだの境界が、うっすら薄くなる。

A.T.フィールドが透ける、そんな感覚。


「夜間サバゲー用のギミックにしては、少しやり過ぎだな。」


岩野はコーラを飲みながら、にやりと笑った。

「で、本題だ――車、買わないか?」



やつの言う“車”とは、黒のメルセデス・ベンツ G280 CDI Edition 30 PUR。

ゲレンデヴァーゲン30周年記念の特別モデル。

3リッターV6ディーゼル。飾り気のない、軍用車両そのもののフォルム。


思わず息をのむ。

その無骨さが、妙に心を惹いた。


「卒業したら海外行くんでな。留学資金の足しにしたいんだ。」


軽く笑ったが、その奥に“半分の嘘”が混じっている気がした。


だが俺は、乗ってやることにした。

岩野は少ない友人のひとりで、これまでも何かと世話になってきた。


提示額は五百万円。

俺の手持ちは現金で四百万。


「四百万と、これでどうだ。」


左腕のロレックス・シードゥエラーを外して差し出す。

岩野は一瞬だけ黙り、そして小さく頷いて手を差し出した。



三日後。

補習を終えた俺は、現金とロレックスを引き換えに黒いGクラスのキーを受け取った。


ロングボディ、無塗装バンパー。

地味なチェック柄の布シート。

後部ハッチは観音開き。

すべてが俺の性格に合っていた。


名義変更の書類に署名し、固い握手を交わして別れる。


――明日の同窓会には、このベンツで行けそうだ。



会場は市内の洋風居酒屋。

春休みの浮ついた空気が充満していた。


進路が決まった顔。恋愛話。就職内定。

未来を語る声が、そこかしこに飛び交っている。


不思議なことに柔道部の連中は一人もいなかった。

まあ、俺も吉岡に誘われなければ来なかっただろう。

ああいう場は昔から苦手だ。



店内を見回して軽く苦笑する。


俺を除く全員が黒いスーツ。

どうやらドレスコードがあったらしい。


対して俺はパープルの綿ジャケットにTシャツ、ジーンズ。

スニーカーはK–Swissの黒。


(本来ならコンバースかスタンスミスの方がスマートだ。

だがフラクタルボディ化してから、体温が常に高く、熱を逃がす必要がある。

それに体重が二十キロ増えた。

結果、登山靴並みに耐久性のある二重革製のK–Swissが最も快適だと気づいた。

理屈じゃなく、身体がそう“選ぶ”んだ。)


そのとき――


「あのベンツ・ゲレンデって、マオ君の? ずいぶんと金持ちだね。」


芸能人じゃあるまいし、夜だというのにレイバンの《オリンピアン》を掛け、

黒のタートルに逆さ十字のペンダントを下げた、

オールバックの小柄な男がジョジョのようなポーズで立っていた。


レイバンの金属フレームの遥か上に、整えられた眉が公家のごとく鎮座していた。

店のライトが反射し、金属フレームが細い尾を引いた。


アンルイスの歌じゃないが、サングラスを外さなくても充分に吹き出しそうだ。


俺は今回のドレスコードの言い出しっぺがコイツだと直感した。


……名前は思い出せない。

見たことはないが、確か“人の三倍速で振られる”という噂のアニメオタクだった。

女子から見れば、三倍速で視界から消える彗星のような男。


こんなことを言うと嫌な奴に聞こえるかもしれないが、

俺は女の子をデートに誘って断られたことが一度もない。


朝のバスでは、女子高生から弁当をもらうことも珍しくなかった。

こちらが特に何かしたわけでもない。ただ、そういうことが時々あっただけだ。


「金持ちってほどじゃないさ。」

俺は肩をすくめる。

「現実のオタクは、大体いつも金欠だ。

金持ちなのは、漫画の中のヒーローだけ。」


男が鼻で笑う。

「たしかにな。バットマンにしろアイアンマンにしろ、大金持ちばっかりだもんな。」


「そうそう。」

俺はグラスを持ち上げる。

「プール付きのマンション、白いメルセデスだっけか。

あれ全部“オタクの妄想”の裏返しだ。

自分は貧乏だけど、頭の中のヒーローくらいは大富豪にしたいっていう。」


「じゃ、スパイダーマンは?」

近くにいた誰かが口を挟んだ。

「アイツだけ、いつも家賃に追われてるじゃん。」


「そこが面白いところだ。」

俺は少しだけ笑う。

「スパイダーマンって、設定的にはいちばん“理系”なんだよ。

実験中の放射線クモに噛まれて変異した科学者。

クモって昆虫じゃなくて**鋏角亜門(Chelicerata)**っていうグループで、サソリと同じ系統。

触角の代わりに“鋏角”っていうハサミみたいな器官を持ってて、

脚には『感覚毛』っていう細かい毛が生えてる。

あれが空気の振動を“波”として拾って、敵の動きとか気配を先読みする。」


「……スパイダーセンス。」

誰かが小さく呟いた。


「そう。」

俺は頷く。

「耳で“音”を聞くんじゃなくて、身体全体で“揺れ”を感じる。

脳で考える前に身体そのものが思考する構造体になってる。

だからスパイダーセンスって、案外ちゃんと理にかなってるんだ。」


――理屈より先に、身体が世界に触れる。


……誰かに言わなきゃ息が詰まりそうだった。


気づけば、自分のことをスパイダーマンに重ねて、そう話していた。


「出たよ、理系オタク、魔王アモンの理屈、健在だな。」


誰かが笑い、テーブルの空気が少しだけ和んだ。


俺もつられて笑ってみせる。

「まあ、サソリ座の職業病みたいなもんだ。」



「ハハ、ずいぶん毒があるな。」

「赤井も久しぶり。」


背後から声がした。吉岡だ。


そうか、思い出した。

コイツは“赤井彗”。名は体を現す、というか――中二病を体現したような奴だった。

確か、A.T.フィールドが見えるとか、“ダブルゼータ”がどうのこうとか。


俺は改めて思い返す。


その瞬間――


店のスピーカーから、麻倉未稀の《ミスティ・トワイライト》のイントロが流れた。


微かに色づいたサックスの音が、グラスの氷を震わせる。

あの独特の夜気。甘く、滲むような湿度。

音の粒が一つ一つ、時間を溶かしていく。

――80年代ボサノバ歌謡の名曲だ。


視線の先――

一瞬、時間が止まったように感じた。


松田瑠衣。


中学時代、誰にでも分け隔てなく接していたクラス委員。

ボッチだった俺にも普通に声をかけてくれた、数少ない人間。


三年ぶりに見る彼女は、相変わらず儚げだった。

だが身体のラインには女性らしい丸みが加わり、

あの頃の清楚さを残したまま、どこか――夜の匂いのする女になっていた。


薄いグレーのスーツに白のスタンドカラーのブラウス。

襟元のラインが首筋を引き立て、光の角度によって柔らかな影を落とす。

その姿は、春先の光と同じトーンで――静かに眩しかった。


肌は白磁のように滑らかで、

頬にかかる髪がわずかに揺れるたび、視線を奪われる。

あの頃の“優しさ”が、ひとつ上の階層で成熟していた。


――正直、女オタクの俺が「一度お手合わせ願いたい」と思うほどだった。


一瞬だけ、視線が交わる。


瑠衣の瞳の奥に、一瞬、光の揺らぎ。

俺はその中に、自分の“変質した波”が反射しているのを感じた。


瑠衣の唇が、何かを言いかけて止まる。

次の瞬間、店内の照明がわずかに瞬いた。

音が遠のき、蛍光灯のノイズが紫の閃光のように揺れた。


胸の内側で、A.T.フィールドが微かに軋む音がした。

それは――何かが再び“覚醒”を始めた合図のようにも思えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ