第8章 非常のライセンス
市内の大型カラオケ店。
週末の夜で、店内はほぼ満席だった。
受付を抜け、イベント用の広い部屋へ入ると――岩野がいた。
マイクを握り、野際陽子の《非常のライセンス》を全力でシャウトしている。
あの無駄に渋い選曲を、器用にロック調で歌いこなすあたりが、いかにも岩野らしかった。
曲が終わり、拍手の代わりに俺が椅子に腰を下ろすと、店員がコーラを二つ運んできた。
氷の音がグラスを叩く。
(……フラクタル化してからというもの、妙に高カロリーの飲み物を好むようになった。
必要というより、身体が“燃料”を要求している感覚だ。
岩野は、最近の俺の“変化”を知っていたのかもしれない。)
だが店員は、俺の顔を見た瞬間に固まり、怯えたように視線を逸らして去っていった。
岩野が笑う。
「アモン、お前、それ……ハロウィンでやったらバカウケだぜ。」
「何の話だ?」
訝しみながら、ルームの隅にある鏡を覗く。
……理解した。
ブラックライト。
紫外線に反応して、俺の髪、瞳、歯――すべてが蛍光グリーンに光っていた。
薄い革手袋を外すと、爪まで淡く発光している。
蠍が紫外線を浴びると体表のタンパク質が蛍光を放つ。
その現象が俺の身体でも起きていた。
――皮膚と空気のあいだの境界が、うっすら薄くなる。
A.T.フィールドが透ける、そんな感覚。
「夜間サバゲー用のギミックにしては、少しやり過ぎだな。」
岩野はコーラを飲みながら、にやりと笑った。
「で、本題だ――車、買わないか?」
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やつの言う“車”とは、黒のメルセデス・ベンツ G280 CDI Edition 30 PUR。
ゲレンデヴァーゲン30周年記念の特別モデル。
3リッターV6ディーゼル。飾り気のない、軍用車両そのもののフォルム。
思わず息をのむ。
その無骨さが、妙に心を惹いた。
「卒業したら海外行くんでな。留学資金の足しにしたいんだ。」
軽く笑ったが、その奥に“半分の嘘”が混じっている気がした。
だが俺は、乗ってやることにした。
岩野は少ない友人のひとりで、これまでも何かと世話になってきた。
提示額は五百万円。
俺の手持ちは現金で四百万。
「四百万と、これでどうだ。」
左腕のロレックス・シードゥエラーを外して差し出す。
岩野は一瞬だけ黙り、そして小さく頷いて手を差し出した。
⸻
三日後。
補習を終えた俺は、現金とロレックスを引き換えに黒いGクラスのキーを受け取った。
ロングボディ、無塗装バンパー。
地味なチェック柄の布シート。
後部ハッチは観音開き。
すべてが俺の性格に合っていた。
名義変更の書類に署名し、固い握手を交わして別れる。
――明日の同窓会には、このベンツで行けそうだ。
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会場は市内の洋風居酒屋。
春休みの浮ついた空気が充満していた。
進路が決まった顔。恋愛話。就職内定。
未来を語る声が、そこかしこに飛び交っている。
不思議なことに柔道部の連中は一人もいなかった。
まあ、俺も吉岡に誘われなければ来なかっただろう。
ああいう場は昔から苦手だ。
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店内を見回して軽く苦笑する。
俺を除く全員が黒いスーツ。
どうやらドレスコードがあったらしい。
対して俺はパープルの綿ジャケットにTシャツ、ジーンズ。
スニーカーはK–Swissの黒。
(本来ならコンバースかスタンスミスの方がスマートだ。
だがフラクタルボディ化してから、体温が常に高く、熱を逃がす必要がある。
それに体重が二十キロ増えた。
結果、登山靴並みに耐久性のある二重革製のK–Swissが最も快適だと気づいた。
理屈じゃなく、身体がそう“選ぶ”んだ。)
そのとき――
「あのベンツ・ゲレンデって、マオ君の? ずいぶんと金持ちだね。」
芸能人じゃあるまいし、夜だというのにレイバンの《オリンピアン》を掛け、
黒のタートルに逆さ十字のペンダントを下げた、
オールバックの小柄な男がジョジョのようなポーズで立っていた。
レイバンの金属フレームの遥か上に、整えられた眉が公家のごとく鎮座していた。
店のライトが反射し、金属フレームが細い尾を引いた。
アンルイスの歌じゃないが、サングラスを外さなくても充分に吹き出しそうだ。
俺は今回のドレスコードの言い出しっぺがコイツだと直感した。
……名前は思い出せない。
見たことはないが、確か“人の三倍速で振られる”という噂のアニメオタクだった。
女子から見れば、三倍速で視界から消える彗星のような男。
こんなことを言うと嫌な奴に聞こえるかもしれないが、
俺は女の子をデートに誘って断られたことが一度もない。
朝のバスでは、女子高生から弁当をもらうことも珍しくなかった。
こちらが特に何かしたわけでもない。ただ、そういうことが時々あっただけだ。
「金持ちってほどじゃないさ。」
俺は肩をすくめる。
「現実のオタクは、大体いつも金欠だ。
金持ちなのは、漫画の中のヒーローだけ。」
男が鼻で笑う。
「たしかにな。バットマンにしろアイアンマンにしろ、大金持ちばっかりだもんな。」
「そうそう。」
俺はグラスを持ち上げる。
「プール付きのマンション、白いメルセデスだっけか。
あれ全部“オタクの妄想”の裏返しだ。
自分は貧乏だけど、頭の中のヒーローくらいは大富豪にしたいっていう。」
「じゃ、スパイダーマンは?」
近くにいた誰かが口を挟んだ。
「アイツだけ、いつも家賃に追われてるじゃん。」
「そこが面白いところだ。」
俺は少しだけ笑う。
「スパイダーマンって、設定的にはいちばん“理系”なんだよ。
実験中の放射線クモに噛まれて変異した科学者。
クモって昆虫じゃなくて**鋏角亜門(Chelicerata)**っていうグループで、サソリと同じ系統。
触角の代わりに“鋏角”っていうハサミみたいな器官を持ってて、
脚には『感覚毛』っていう細かい毛が生えてる。
あれが空気の振動を“波”として拾って、敵の動きとか気配を先読みする。」
「……スパイダーセンス。」
誰かが小さく呟いた。
「そう。」
俺は頷く。
「耳で“音”を聞くんじゃなくて、身体全体で“揺れ”を感じる。
脳で考える前に身体そのものが思考する構造体になってる。
だからスパイダーセンスって、案外ちゃんと理にかなってるんだ。」
――理屈より先に、身体が世界に触れる。
……誰かに言わなきゃ息が詰まりそうだった。
気づけば、自分のことをスパイダーマンに重ねて、そう話していた。
「出たよ、理系オタク、魔王アモンの理屈、健在だな。」
誰かが笑い、テーブルの空気が少しだけ和んだ。
俺もつられて笑ってみせる。
「まあ、サソリ座の職業病みたいなもんだ。」
⸻
「ハハ、ずいぶん毒があるな。」
「赤井も久しぶり。」
背後から声がした。吉岡だ。
そうか、思い出した。
コイツは“赤井彗”。名は体を現す、というか――中二病を体現したような奴だった。
確か、A.T.フィールドが見えるとか、“ダブルゼータ”がどうのこうとか。
俺は改めて思い返す。
その瞬間――
店のスピーカーから、麻倉未稀の《ミスティ・トワイライト》のイントロが流れた。
微かに色づいたサックスの音が、グラスの氷を震わせる。
あの独特の夜気。甘く、滲むような湿度。
音の粒が一つ一つ、時間を溶かしていく。
――80年代ボサノバ歌謡の名曲だ。
視線の先――
一瞬、時間が止まったように感じた。
松田瑠衣。
中学時代、誰にでも分け隔てなく接していたクラス委員。
ボッチだった俺にも普通に声をかけてくれた、数少ない人間。
三年ぶりに見る彼女は、相変わらず儚げだった。
だが身体のラインには女性らしい丸みが加わり、
あの頃の清楚さを残したまま、どこか――夜の匂いのする女になっていた。
薄いグレーのスーツに白のスタンドカラーのブラウス。
襟元のラインが首筋を引き立て、光の角度によって柔らかな影を落とす。
その姿は、春先の光と同じトーンで――静かに眩しかった。
肌は白磁のように滑らかで、
頬にかかる髪がわずかに揺れるたび、視線を奪われる。
あの頃の“優しさ”が、ひとつ上の階層で成熟していた。
――正直、女オタクの俺が「一度お手合わせ願いたい」と思うほどだった。
一瞬だけ、視線が交わる。
瑠衣の瞳の奥に、一瞬、光の揺らぎ。
俺はその中に、自分の“変質した波”が反射しているのを感じた。
瑠衣の唇が、何かを言いかけて止まる。
次の瞬間、店内の照明がわずかに瞬いた。
音が遠のき、蛍光灯のノイズが紫の閃光のように揺れた。
胸の内側で、A.T.フィールドが微かに軋む音がした。
それは――何かが再び“覚醒”を始めた合図のようにも思えた。




