第6章 動作確認
2011年の節分。
雨音が戻る。
都心の大学病院のロビーを出ると、外は冷たい雨だった。
冬の東京は空気が硬い。街灯が濡れた歩道を銀に染め、吐く息が白く散る。
毎年この時期、俺はここを訪れる。
年に一度の定期検診――二歳のあの日から続く、半生の儀式のようなものだ。
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◆ 地下鉄サリン事件 ― “戻された日”
1995年3月。
母に抱かれ、俺はあの事件の渦中にいた。
呼吸停止。心肺停止。
この病院に運ばれ――奇跡的に蘇生した。
診断書には単に〈自然蘇生〉とある。
だが、俺は知っている。あれは“何か”が手を伸ばして戻したのだと。
その日を境に、身体はどこか“ズレた”。
神経毒への異常な耐性。
体温が高く、疲れが抜けやすい体質。
医者は「特異体質」と呼んだが、俺にはそれが当たり前の“仕様”になっていた。
だが――あれはまだ、眠っている状態に過ぎなかった。
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◆ 蠍を食った夜 ― 内部で何かが“起動”した
蠍を口にした瞬間、
身体中の細胞が一斉に沸騰するように震えた。
後の検査で分かった。
ミトコンドリアが異常活性し、
発生した乳酸を瞬時に燃やす“未知の分解酵素”が働いていた。
医者たちは驚いていた。
普通なら疲労物質である乳酸が、俺の身体では――
エネルギー源に反転していた。
つまり俺の筋肉は、
▶ 乳酸が溜まらない
▶ 疲労が生まれない
▶ 代謝が常時“高地トレーニング状態”
そんな生体構造に書き換わっていた。
心拍数は常人の半分。
酸素効率は常人の三倍。
筋繊維の復元力は……説明不能。
もう“人間の枠”では語れなくなっていた。
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◆ 主治医のつぶやき
「心拍数27……冗談じゃないんだね、君は。」
俺は軽く笑う。
「ええ。止まってる方が自然かもしれません。」
(※いまの俺の身体は、フラクタルボディとして半導体化し、
肺活量一万ccの酸素効率と、乳酸分解酵素による“無疲労構造”で仕上がっている。
赤血球のゼータ電位も最適化状態。
明晰夢による代謝制御が完成すれば――
俺は氷漬けにされても、サソリのように蘇生するだろう。)
医者は笑ったが、俺は冗談のつもりではなかった。
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◆ メール ― “蠍の巣”が動き出す
病院を出ると、携帯にメールが届いた。
件名:【Scorpion’s Nest】配信契約の件
送信者:PLATINUM STUDIO
武漢の“あの夢”から作った自主制作ゲーム――
《Scorpion’s Nest》 に、正式な配信オファーが来た。
毒虫同士が融合し、進化し、王を決めるシミュレーション。
蠱毒の構造をAIに学習させた、“あの世界”の再現だった。
「AI進化の新境地だ!」
プロデューサーは興奮していたが、俺は何も設計していない。
見た光景を、ただコードに変換しただけだ。
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◆ 夜のガード下 ― “動作確認”
会談を終えると雨は上がり、
千駄ヶ谷まで歩くことにした。
冬の東京の硬い空気は心地いい。
体温が高いせいだろう。
新宿御苑の外壁沿い。
線路下のガードに差しかかったとき。
「やめてください!」
女の叫び。
暗がりを覗く。
酔った男が二人、女子学生を壁に押しつけていた。
反射的に足が動いた。
踏み込んだ瞬間、世界が遅くなる。
雨粒の軌跡が静止し、
空気の屈折が見える。
乳酸が“燃料”として処理され、
筋肉は一切の疲労を感じない。
高地トレーニング状態――常時ON。
一人がナイフを抜く。
刃の反射が、スローモーションの線を描いた。
右手を軽く振る。
――シュッ。
目に見えない霧が走り、
男は白目を剥いて倒れた。
(神経毒の微量噴霧。俺の体内で精製された“副産物”だ。)
もう一人が突っ込んでくる。
脳が考えるより先に、身体が“演算”していた。
カウンターのストレートが顎を砕く。
返す動作で一本背負い。
自販機に叩きつけられ、静かに崩れた。
雨音が戻る。
女子学生は逃げ、
俺は手先の微かな熱が消えるのを待つ。
心拍は27のまま、変わらない。
「……動作確認、完了だな。」
濡れた街をそのまま歩き出した。
氷点下でも肺が痛くない。
乳酸が疲労を生まない。
細胞は無限に燃え続ける。
――俺という“機構”は、完全に動いていた。




