第5章 フラクタル構造
翌朝、体温は37.0度。わずかに高い。
だが心拍数は27回/分。
普通なら不整脈、あるいは臨死の数値だ。
それなのに息苦しさも倦怠感もない。
むしろ体の隅々まで酸素が行き渡り、静かに燃えていた。
腕立て伏せを始める。
百、二百、三百――。
汗は出るが、疲労がない。呼吸も乱れず、リズムも崩れない。
千回を超えても筋肉は沈黙を保っていた。
まるで乳酸を中和する“再生装置”が体内に仕込まれているようだった。
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理系オタクの本能が目を覚ました。
未知の変化を、数値で証明したくなった。
科学部実験室に行き、握力計を取り出す。
金属のグリップを握る。
骨格筋が一気に収縮し――針が振り切れた。
壊れたかと思った。
だが感覚的には、まだ半分も出していない。
「……フラクタル構造体、か。」
独りごちる。
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フラクタル――自己相似構造。
分子がサッカーボールのような多面体構造を取り、
その瞬間、強度とエネルギー効率が極限まで最適化される。
人間の筋肉や骨もミクロではフラクタル構造を持つ。
だが、俺の体ではその“パラメータ”が極端に最適化されていた。
力を入れた瞬間、分子間伝達効率が跳ね上がる。
外見は軽いのに、内部は鉛のように詰まっている。
皮膚から骨まで――構造そのものが再構築されていた。
見た目に反して、体重は九十キロ。
筋肉でも脂肪でもない、“密度”そのものが増していた。
俺は、明晰夢という“サナギ”を通過することで、
脱皮を経ずして、古い細胞から換骨奪胎したのだろう。
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ネットから海外製の握力トレーナー――
Captains of Crush(CoC) No.4を取り寄せた。
165kgクラス。
人間には閉じることすら不可能な代物だ。
俺はそれを、15回連続で閉じた。
理性が警告を発する。
「165kgの60%……1RM換算で275kg前後。」
片手で275キロ。笑えなかった。
金属が悲鳴を上げ、皮膚の下で筋繊維が蠢く。
それは筋肉の動きではない。
――構造の呼吸。
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胸を開いて深呼吸する。
肺が膨張し、空気が熱を帯びて流れ込む。
肺活量は一万ccを超えていた。
呼吸のたびに、全身の血流が光を帯びるように感じた。
そして最大の異変。
疲労物質である乳酸を分解する何かが、体内に存在しているのかもしれない。
あるいは――この異常な肺活量がその要因なのか。
どれだけ動いても、疲れが“存在しない”のだ。
試しに――オタクである俺が、いきなりフルマラソンの大会に参加してみた。
結果、大記録で完走。
それなのに呼吸は乱れず、脈も上がらない。
高地トレーニング位じゃこうならない。
最早、筋肉の痛みも、酸欠の苦しみも、ただの「記憶」に過ぎなかった。
その瞬間、確信した。
俺はもはや“生物”ではなく、“構造体”に近い。
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変異の理由は――武漢。
俺は裏サイトを調べ始めた。
コウモリやサソリを使ったウイルス兵器を研究しているという、
「武漢ウイルス研究所」の噂。
実験動物が闇ルートで市場に流れているという都市伝説。
笑えない。《中国あるある》が、現実に重なっていく。
あの薬膳店で食った“蠍”――
やはりあれは、ただの食材じゃなかった。
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サソリを調べるうちに、
自分の“毒息”の仕組みも見えてきた。
舌の下に、微細な二液性の毒腺。
混合比を変えることで、毒の濃度を自在に操れる。
さらに右小指の先には独立した毒腺。
射程3メートル、噴射なら3.5。
毒息より速く、致死性も高い。
どうやら俺の身体は――生体兵器のプロトタイプになっていた。
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夕暮れ。防波堤に立つ。
潮風を吸い込み、紫の空を仰ぐ。
肺の奥が熱を帯びていた。
「呼吸が……世界と同期している。」
吐息が潮の香りを変え、風と波の律動が皮膚を通じて伝わる。
鳥の羽ばたき、遠くのモーター音。
それらが“色”として脳内に立体的に浮かび上がる。
半径40メートル先迄の出来事が、
振動と光のパターンとして流れ込んでくる。
世界が幾何学的な秩序で組まれているのがわかる。
俺の身体もまた、その秩序の一部だった。
潮風が頬を撫で、遠くで船の汽笛が響く。
人間ではない――そう言葉にする必要もない。
定義の外側に立っている、それだけのこと。
不安も恐怖もなかった。
むしろ奇妙な安らぎがあった。
「……悪くない。」
潮の匂いを吸い込み、
俺は世界の呼吸と、自分の呼吸を重ねた。




