第4章 The Instinct(本能)
退院してからの数日、
俺は毎晩のように、同じ夢を見続けていた。
それは、まるでゲームの導入ムービーのようだった。
だが、その映像は現実よりも鮮明で、
音も、匂いも、皮膚の下に響くようだった。
中央に、巨大な水槽。
厚い強化ガラスの中で、無数の毒虫が蠢いている。
蛇がムカデを噛み砕き、ムカデが蜘蛛を裂き、
蜘蛛が蜂の羽を奪う。
それぞれが相手の毒を奪い合い、融合し、そして壊れていく。
光も音も歪んだような、
“現実と非現実の中間”にある世界。
――蠱毒。
古代中国で百匹の毒虫を壺に閉じ、
最後に残った一匹の毒を“王”とする儀式。
俺が見ているのは、その現代版のような地獄だった。
だが、それはただの夢ではない。
まるでチュートリアルのように、同じ映像が繰り返される。
俺の意識はその中心へと吸い込まれていった。
ガラス越しに、研究員らしき影がこちらを見つめる。
唇が動いた。
「恐れるな。融合せよ。」
その声が響いた瞬間、
水槽の中央で蠍が動いた。
黒曜石のような甲殻。
八本の脚と、一対の鋏。
尾の先には、淡く紫に光る針。
蠍がこちらを見上げた。
その視線が、俺の内側に侵入してくる。
心臓が跳ね、同じリズムで脈を打ち始める。
――明晰夢だ。
夢だと自覚しながら見る夢。
意識の全てを支配できる、もう一つの現実。
「――同期。」
そう呟いた瞬間、
蠍と俺の境界が溶けた。
世界が閃光に包まれる。
骨が軋み、筋肉が再構築されていく。
神経が燃え、皮膚が変質していく。
――換骨奪胎。
明晰夢を媒介に、現実とイメージが融合していく。
それは夢ではなく、高位の現実だった。
⸻
朝。
喉の渇きで目が覚めた。
全身が汗に濡れ、呼吸が妙に静かだ。
肺の奥まで、空気が澄みきっている。
なんだか、アンドレイ•タルコフスキーの世界の住人になった様な
奇妙な違和感を感じながら鏡を観る。
瞳の奥が、わずかに紫に光った。
頬のラインが締まり、
筋肉が“設計を組み替えられた”ように変化している。
炭鉱夫上がりのボクサーのような角ばった筋肉。
無駄がなく、背面の隆起が異様に発達していた。
腕を上げると、まるで巨大な蠍がハサミを振り上げたかのように猛々しい。
皮膚は滑らかで、金属を磨いたような微光を帯びている。
試しにクリームなしで髭を剃る。
刃は滑り、カミソリ負けひとつ起きない。
そればかりか、舌や足先、局部までもが
手と同じような精密な感覚に満たされていた。
生物学的に存在しないはずの陰経骨――
神経の束と筋腱を補助する“隠された支柱”が、体内に形成されている。
「……これが、同期の結果か。」
声は、自分のものとは思えなかった。
右手の小指が微かに熱を帯びる。
爪の下から、細い紫の霧が噴き出す。
三メートル先の窓辺で、蜂がピクリとも動かなくなった。
毒――いや、“機能”だ。
指を握る。
関節が強化され、筋肉の密度が明らかに変わっている。
机の上の十円硬貨をつまみ、力を込めた。
――グニャリ。
銅の板が、エスパーのスプーンのように曲がった。
息を吸う。
空気の粒子が、見える。
音、温度、匂い――
すべての情報が“構造”として流れ込んでくる。
世界が静かだ。
それが、何よりも異常だった。
花瓶の中の赤い花が、無数の色の集合体に見える。
俺は、その光景を眺めながら呟いた。
「まるでカフカの『変身』みたいだな。」
だが違う。
あの男は“虫になった自分”を恐れたが、
俺は、恐怖を感じていない。
むしろ、どこか“安堵”していた。
「……人間をやめるって、こういうことか。」
鏡の中の俺も、同じ顔で呟いた。
⸻
そして気づいた。
――“恐怖”が、もうどこにもないことに。
それが、最も人間的な喪失であり、
俺にとっての本能の目覚めだった。




