2話 マッキントッシュの男
12月、クリスマスイブの夕方近くなった午後。
夢の島マリーナの駐車場。
その若い男は、BOXYな古いBMWから静かに降りて来た。
クルーカットにノーネクタイのグレースーツ。
ショート丈のゴム引きコートを肩から引っかけているだけだが、冬の海風にもまったく肩をすくめない。
外気温が、彼には薄くしか作用していないようだった。
手足は異様に長く、シルエットだけで“生まれつき選ばれた体躯”と分かる。
顔立ちはどこか西洋の血を思わせ、飄々とした軽さの裏に、
遠い地平を見つめるような乾いた憂いが潜んでいた。
そして右手には、サンタクロースが持つような白い大きな袋。
場違いなはずのそのアイテムが、彼には妙に似合っていた。
潮風で白く乾いた板材が、冬の夢の島の冷気にかすかに鳴る。
その前方で、黒いダウンコートの襟を立てながら
ベンチに腰掛けていた味沢が、煙草を親指で揉み消した。
若い男はショート丈のマッキントッシュのゴム引きコートに器用に袖を通すと
まるで旧友に会うかのように自然な足取りで味沢へ歩み寄る。
味沢は、その歩き方に一瞬だけ“嫌な静けさ”を感じた。
――これは、普通の若者じゃない。
「お久しぶりです、味沢室長。」
味沢が薄く笑った。
「ずいぶんといい音、させてやがるな、M3か?」
「まあ、似た様なもんです。」
「お前とは三年ぶりか。……いや、今はもう海保じゃないんだがな。
どうだった、ロシアは?」
男は肩をすくめ、ひまわりのような明るい笑みを見せる。
「ロシアは最高ですよ。少なくとも――女はね。」
白い袋を片手に持ち替え、
もう片方の手を軽く広げてみせる。
「それに先祖の国だから言うわけじゃないですが、中国女のハニトラに
引っかかるのは、ロシアじゃ“最高にダサい”扱いです。」
明るさの奥に、乾いた皮肉が少し滲む。
「クリミア紛争のおかげで任期が伸びて、三年いましたから。
ロシア語も自然と上達して。
海外手当もつきますし、文句なしです。」
味沢は鼻で短く笑った。
「聞いてるぞ。向こうじゃ“日本のジェイムズ・ボンド”なんて呼ばれてたそうだな。
――お前ほどの男が、なんで海保なんぞに?」
男の答えは、迷いがなかった。
「一言で言えば、コスパです。」
「自衛隊は定年が早いでしょう?
でも海保にいれば、俺の成績でも霞が関キャリアと同じように
海外大学院に行けるし、海外勤務も多い。
“軍事と警察権を両方扱える職場”なんて、ここしかありません。」
味沢が目を細めた。
「――それだけじゃないだろう。」
男は苦笑する。
「まあ……防衛大はモテませんしね。
海保大なら“海猿”でワンチャンあると思ったんです。はは。」
そして照れ隠しのように付け足す。
「実際、広島時代のコンパで“国立大学です”って言うと、
勝手に広島大だと勘違いされて……結構モテましたよ。」
味沢は顎を引き、男をじっと見つめる。
「――お前、俺の前で緊張しないな。
……誰かに似てるんだよ。」
男は視線だけ返す。
「――萬尾亜門。アラクラン、ですか?」
味沢の瞳孔がわずかに開いた。
白い袋を持ち替えた男は、
空いた手でBMW320isのシルバールーフを軽くなぞりながら、静かに言った。
「ええ。七年前――武漢のゲーム大会で、一緒でした。」
冬の夢の島。
海保警備情報課の若きエース。
コサックの末裔。
クリミアの渦中で鍛えられた“乾いた眼”。
静かな波音だけが、二人の間に返事を返した。
そのとき。
「味沢さん。」
鈴を転がすような声が、冬の遊歩道に澄んで落ちた。
二人が振り向くと、
そこにはクリスマスパーティーのサプライズでサンタのコスプレをした要杏子が立っていた。
杏子は、ためらいなくその名を呼んだ。
「アギトさん……あなた、どうしてここに?」
男は後頭部を掻きながら、飄々と肩をすくめて笑った。
「Merry Xmas、杏子サン。」
男は後頭部を掻きながら、
いつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「今日は俺の誕生日でして。
……こういうサプライズも、たまにはいいかなと。」
白い袋を軽く持ち上げる。
「ほら、杏子サン。
――プレゼント。キャビアと、アゼルバイジャンのビオワインです。
コーカサス産はコスパが最高なんです。」
冬の白い光の中。
彼の名が、ついに落ちる。
サソリ・アギト。
(本名:佐反 晄人〈さそり・あぎと〉)
物語に、二人目の“異常者”が静かに姿を現した。




