6話 伯爵と呼ばれた男 “世界の中心で愛を叫ぶ”
東大の大学院生と言っても、俺の根城は本郷じゃない。
俺が所属しているのは――
駒場にひっそりと佇む 生産技術研究所(生研) の一室だ。
教養学部のキャンパスと同じ敷地にありながら、
あそこだけ空気の密度が違う。
光よりも静電気のほうが濃い。
そんな研究所だ。
そして俺は院生だが、部活にも顔を出していた。
学部生に混じって練習する院生なんて、東大では珍しくない。
生研の部屋に籠もりっぱなしだと、頭が腐る。
いまの所属はフェンシング部ではなく、自動車部。
週一回のミーティングと二回の練習走行。
このルーティンが、俺にとって最適な気分転換になる。
自動車部の利点は単純――車で通学できることだ。
堂々と駒場の駐車場を使える。
部員はそれぞれ、自分の美学を積んだ車に乗っている。
俺の車は少し古い。だが、譲れない。
ダットサン・フェアレディ2000 SR。
国産主義だった親父が遺した、古いオープンカーだ。
ダイハツ・コペンを一回り大きくしたような可愛い外観に反して、
その実態は凶暴だ。
キーハンターで野際陽子が乗っていた、あの車。
オールドファンなら、それだけで話が通じる。
エンジン、ブレーキ、ミッションは
F1部品を作っていた工房の特注品に換装され、
ボディ補強も入っている。
筑波なら、素人のポルシェくらい朝飯前で抜ける。
数字で説明できる速さがあるし、
――余計な電子制御がない分、
外部からの干渉を受けない。
俺の集中力と直結する、“生の道具”だ。
そして狭い都内の道路事情にも妙に合う。
こういう不器用な実用性が、蠍男である俺らしい。
駒場を出ると、学生たちの視線が背中に刺さる。
だがルームミラーに映る俺の表情は、
ペルソール2730-S の向こう側で誰にも読めない。
旧山手通りを代官山方面へ流し、
蔦屋書店を過ぎると、ヒルサイドテラスが見えてくる。
巨匠・槇文彦のコンクリート打ちっぱなしの建物。
その一室が俺の住まいだ。
安藤忠雄よりも槇文彦の静かな繊細さのほうが、
俺の気分にしっくりくる。
フェアレディをパーキングに入れ、
そのまま蔦屋書店のカフェまで歩く。
ちょうどスピーカーから
大場久美子『大人になったら』 が流れ出した。
ほんの少しだけ、気分が軽くなる。
オープン席で、リズムに合わせて指先で拍子を取っていたのは――
“伯爵”こと 狩尾数統郎。
俺を見つけると、嬉しそうに立ち上がって軽く会釈する。
「久しぶりだな、伯爵。」
「ああ、蘭。元気そうで何よりだ。」
俺はアルミのパイプ椅子に腰を下ろし、無意識に背面を確認する。
古い癖だ。高専時代、人間工学を齧っていた名残でもある。
「相変わらずだな。」
「ああ、習性ってやつだ。」
狩尾は苦笑し、しかしふと目を細めた。
「……なんとなく、君がどんどん遠いところへ行ってしまう気がするよ。」
「抜かせ。遠いのはお前だろう。」
俺は鼻で笑いながら言った。
「ヴァージン・ギャラクティックの宇宙旅行、席を確保したんだろ。
まさに For Away じゃないか。お前の好きな中村裕介の歌のとおりだ。」
「ありがとうよ。実際、いつ行けるかはまだ未定だけどね。」
狩尾は肩を竦める。
「でも、カリブ海のブランソンの別荘でのパーティには参加してきた。」
「クラファンで俺が大口出したやつか。まあ、気にするな。」
俺はコーヒーを一口飲む。
「元々俺の金じゃないしな。」
狩尾の表情が少し陰る。
「……最近、東大に中国人学生が増えすぎている。」
「日本の成果を丸ごと持ち帰って、母国で先端を走る。
下手をすればスパイでもある連中が、
なぜか学費免除や奨学金まで貰っている。」
スポンサーたちが懸念するのも当然だ。
まともな神経をしていれば、小学生でも“おかしい”と気づく。
――まさに “大人になったら” だ。
チョコレートでも食べながら、嫌でも色んなことを考えるようになる。
「ありがとうよ。期待に添えるよう、努力するさ。」
伯爵は静かに答えた。
そして俺がコーヒーに口をつけたときだった。
伯爵がストローで氷をつつきながら、ふと俺を見た。
「……で、蘭。今日はどうしたのさ。
君が“雑談だけ”で俺を呼び出すはずないだろ?」
図星だ。
俺はペルソールのブリッジを指で軽く触れ、
声を落として訊いた。
「……伯爵。
量子観測の“副作用”って、どんな現象が起こる?」
伯爵の指が止まった。
「君らしいね。“副作用”なんて言葉を使うあたり。」
「答えてくれ。」
伯爵はカップを置き、わずかに身を乗り出した。
「観測者が強すぎる場合――
空間の位相が“ずれる”ことがある。
正確に言うと、君の視覚情報と世界の情報の同期が一瞬だけ外れる。」
「同期が外れる?」
「時間の“方向”や“優先順位”が、
個人の脳内で再構成されるんだよ。
簡単に言えば――
見てはいけないフレームが見える。」
俺は眉をひそめた。
伯爵は続ける。
「宇宙量子では、それを オービタル・スリップ と呼ぶ。
観測者の脳が、通常の“地球人類仕様の視覚”を逸脱した状態だ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが冷えて固まった。
――つまり“オーバードライブ”だ。
声には出さない。
ただ理解だけが、静電気のように内側で弾ける。
狩尾が眉をひそめる。
「……今、何か言ったかい?」
「いや、気のせいだ。」
「……もし、それが日常的に起こると?」
伯爵の表情が初めて険しくなった。
「良くないね。
脳が“世界の本来の描写方法”に適応し始めてしまう。
普通の人間なら壊れる。」
沈黙。
伯爵は、わざと軽い声に戻して言った。
「で、蘭。
君、自分がその症状に“少しでも心当たりがある”なんて、
言わないよね?」
俺は短く返した。
「……いや、ただの仮定だ。」
伯爵は肩をすくめた。
「ならいい。
でも忠告しておく。
世界は、観測した瞬間に形を変える。
それが理解できる眼は、祝福じゃなくて――負荷だ。」
その言葉が、妙に胸に残る。
伯爵はアイスコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「さて、そろそろ研究室に戻るよ。
君も――気をつけて帰りたまえ。
“観測者”は世界を変える。」
軽い冗談めかした声とは裏腹に、その瞳だけは静かに光っていた。
伯爵の背が蔦屋のエントランスに消える。
その瞬間、俺の視界が――一瞬だけ“二重”になった。
蔦屋書店のガラス面が、
一コマだけ違う角度で“もう一度”映り込んだように歪む。
(……?)
世界がわずかに揺れた。
地震でも眩暈でもない。
“同期のズレ”だ。
だが、一秒未満で元に戻る。
(……伯爵が言っていた“見てはいけないフレーム”か)
“やれやれだぜ”、まぐれで済ませるには、嫌な残像だ。
蔦屋を出てヒルサイドテラス方面へ歩き始めた瞬間だった。
――パチッ。
耳の奥で、何かが弾けた。
(またか……)
髪の毛がふわりと浮いたような、
冬場の静電気とは種類の違う“引き寄せ”の感覚。
街路樹に並ぶ照明が、
一瞬だけ“呼吸するように”明滅した。
その場を通りかかったカップルは、何も気づいていない。
ただ俺の周囲だけに、
空気の密度が局所的に高まっている。
まるで俺を中心に、
世界の電荷がわずかに偏っていくようだった。
(今日は……少し強いな)
フェアレディの金属ドアに指をかけると、
――バチッ。
明らかに過剰な静電気が走った。
座席に沈み込み、エンジンをかける。
キャブの振動が腹に伝わる。
(伯爵の言葉……まったく、冗談に聞こえなくなってきた)
ペルソール2730-Sをかけると、
視界の輪郭がゆっくりと定まった。
まるでレンズが、
“人間の視覚よりも正確な世界” に勝手に焦点を合わせるように。
「全く……やれやれだぜ。」
フェアレディを旧山手通りへ滑らせながら、
俺は小さく息を吐いた。
「今世界が、俺を中心に“愛を叫び出した”。」




