第2章 The Origin(起源)
――虫は、泣く。
声にならない波で、世界と会話している。
俺には、それが――聞こえた。
子供の頃から、俺はずっとボッチだった。
転校が多く、居場所を作る前に次の土地へ移る。
そんな俺の孤独を慰めてくれたのは、
いつも虫たちだった。
ノートの余白には、
昆虫の脚や羽のスケッチが並んでいた。
人間の顔よりも、
節足動物の構造のほうが
よほど理に適って見えた。
そして――
俺自身の“顔”についても、昔からよく言われてきた。
大藪春彦風にいうなら、
正面から見ると一応は日本人の顔立ち。
だが輪郭はノミで荒削りしたようにシャープで、
横顔になると西洋人の彫りそのものという絶妙なバランス。
さらに二歳のとき。
地下鉄毒ガス事件で母と共に被曝した。
救命措置として投与された治療薬の副作用で、
肌は浅黒く、髪は銀色を帯びた。
物心つく頃には、
その外見が“当たり前”になっていた。
そのせいで、
国籍不明に見られることも少なくない。
落差を和らげるために、
普段はロイド型の伊達眼鏡をかけている。
覚醒後は、四色色覚の暴走を抑えるため
偏光レンズへと変わった。
――
まだ幼い頃。
俺と母は“地下鉄毒ガステロ”に巻き込まれた。
それがきっかけで、父は
海上保安庁のキャリア技官から
対テロ特殊部隊《SST》へ転じた。
映画のような話だが、現実だ。
父が特殊部隊の隊長なんて、
日本の小学生にはまずいない。
いや、いたとしても――普通には生きられない。
――
十一歳の春。
父の任務でマレーシアへ渡った。
現地沿岸警備隊との合同訓練では、
米海軍SEALや英SBSと肩を並べ、
父は “Captain Mao” と呼ばれていた。
夜になると、蛙と虫の声で空気が震えた。
庭には蘭が咲き、
そして――蠍がいた。
「セルケト。呼吸と毒を司る女神よ。」
母が静かに言ったその名を、
俺はいまでも覚えている。
――
やがて、父に勧められてシラットを習い始めた。
宗教、舞踊、殺法が混ざり合う奇妙な武術だ。
蠍の動きを模した技――蠍カラジャン。
低く構え、地を這い、跳ね上がるように刺す。
なぜかそれだけは異様な速さで体に染みついた。
俺の深部の“何か”が反応していたのだと思う。
語学は呼吸のように身についた。
家では日本語、英語、ポルトガル語、イタリア語。
外ではマレー語と訛り英語。
言語は“勉強”ではなく“生活”だった。
母は地下鉄トラウマで、
移動はすべて“紫”で統一された車だった。
ランチア・デルタ HF インテグラーレ EvoII《Viola Pianeta》。
惑星の紫。
夜の街灯で青にも黒にも変わる、深い紫。
タイミングベルト交換さえ
エンジンを降ろさずにできるほど、
俺はこの車を理解していた。
機械の構造を“見る”ほうが、
人間の心よりよほど簡単だった。
十八歳で、ドイツ製 MZ スコーピオン660 を手に入れた。
660cc単気筒の鼓動が、
皮膚の下の鉄分と共鳴する。
タンクには母の一族――
デ・スカルピア家の紋章。
紫の盾に三匹の蠍。
古代ローマ親衛隊から続く
“守護と毒”の血脈だ。
夜の舗装路。
湿気と熱気の混じる風が流れ、
世界は確かに“波”でできていると思った。
光も音も毒も、祈りも――すべてが振動だ。
そしてあの夜。
給油スタンドで、
俺は中学の同級生と再会した。
静かなはずの夜に、
何かが“音を立てて”動き始めた。
悪夢の続きじゃない。
現実の――最初の胎動だった。




