4話 セルケトの息子
東京・都心。
ガラス尖塔が林立するビジネス街に紛れるように、
ひっそりと十字架を掲げる白い建物がある。
ミッション系の大学病院。
地下鉄サリン事件のときには、一夜にして野戦病院と化した場所だ。
あの混沌の中で、一度「死亡確認」された少年が、
朝の讃美歌とともに息を吹き返したという。
──蘭は、その少年だった。
⸻
定期検査で訪れるのは一年ぶりだ。
静かな検査室。
白と青の冷たい空間。
消毒液の匂いが、かすかに金属を思わせる。
CTスキャン台に横たわりながら、
俺は天井の無影灯を睨むように見つめていた。
左眼の眼帯はない。
むき出しのまま、機械の光を反射する。
そこへ医師が現れた。
名札にはこうある。
《教授 如月》
柔らかい声。
穏やかな笑み。
どこにでもいそうな、平凡な中年医師──に見える。
如月教授
「素晴らしい活躍でしたね。国の誇りですよ。」
俺は軽く会釈した。
蘭
「ありがとうございます。」
だが胸の奥には、微かなざらつきが引っかかっている。
如月教授
「ご家族もお喜びでしょう。
特に……お母様が。」
眉が僅かに動く。
(なぜ“母”を知っている……?)
如月教授
「彼女は──御子の盾ですから。」
ガリッ。
装置が微かに軋み、紫のノイズが画面を走った。
蘭
「今……何て言いました?」
教授は答えず、静かにカルテを閉じた。
如月教授
「力を抜いてください。……大丈夫。少しお話をしましょう。」
CTの回転音がゆっくりと立ち上がる。
地下のパイプオルガンのような低い響き。
教授は、懺悔室の司祭のように声を落とした。
如月教授
「覚えてはおられないでしょうが──
あなたが“復活”されたときのことです。」
“復活”。
その単語に喉がひくりと動く。
如月教授
「地下鉄サリン事件の朝。
あの日、ここは……戦場でした。
廊下はストレッチャーで埋め尽くされ、
誰もが叫び、祈り、走り回っていた。」
如月教授
「あなたは、その混乱の中で運び込まれた。
心肺停止。瞳孔固定。
記録上、医学的には完全な死亡。」
──だから自分の人生を「四度目」と数えている。
如月教授
「あなたの“再起動ログ”は残っています。
──四回分、すべて。」
背骨を指でなぞられたような悪寒。
蘭
「……ログ?」
如月教授は自然な口調で核心に触れていく。
如月教授
「当時あなたの傍にいた医師や看護師の一部は、
今もあの瞬間を忘れていません。
御子が目覚めたと、本気で思っている者もいる。」
如月教授
「あなたの心電図が再び動き出したのは、
朝の讃美歌が流れた瞬間でした。」
薄い微笑み。
如月教授
「だからこそ、一部ではあなたをこう呼ぶ。
“セルケトの息子”と。」
蘭
「……セルケト?」
如月教授
「古代エジプトの蠍の女神。
毒と死と呼吸を司り、
棺の上で死者の息を守る守護者です。」
教授の視線が、そっと俺の左眼に触れる。
如月教授
「蠍の紋章を継ぐスカルピア家の血。
毒で死に、毒を超えて蘇り、
今もこうして“呼吸”を続けている御子。」
「──セルケトの息子。
悪くない二つ名でしょう?」
冗談めかした調子だが、笑えない。
指先が震え、空気までも冷たく揺れた。
蘭
「……やめろ。そんな大げさな話じゃない。」
如月教授
「いいえ、御子。これは“事実”です。」
声が、わずかに温度を失う。
如月教授
「あなたは確かに一度“死なれた”。
記録も、証人も、祈りもある。
我々はそれを奇跡とは呼びません。……仕様と呼びます。」
仕様──。
それは人間ではなく、システムに対して使う言葉。
沈黙が落ちる。
蘭
「……じゃあ、俺は何なんだ。」
如月教授は、淡々と“答え”を置いた。
如月教授
「世界の外側から、もう一度こちら側に“ログイン”した端末。」
視線が、俺の左眼へ吸い込まれる。
如月教授
「その眼。偶然ではありませんよ。」
俺は左眼に触れた。
死線を視る器官──オービターアイ。
如月教授
「その眼帯は外さないでください。
まだ、力の制御ができていない。」
蘭
「……どうしてそこまで知ってる。」
教授の声が、さらに深く沈んだ。
如月教授
「忘れないでください。
“オービターアイ”とは──」
一拍。
如月教授
「脳内の量子観測領域を強制起動し、
“一分先の未来”を確定視する機能。」
呼吸が止まりかける。
如月教授
「いいえ、“見る”のではない。
“創る”のです。
量子的に、世界線を書き換える。」
薄い笑み。
如月教授
「まさに“神の見えざる手”。
アメリカの紙幣にも刻まれていますね。」
そして──静かにトドメを刺した。
如月教授
「一分の使用につき、三分の“人間化”冷却期間が必要です。
御子は万能ではない。
そこに、ちゃんとバランスがある。」
そこで教授は、俺の周囲に置かれたモニターを指先で示した。
如月教授
「ところで御子……自覚はありますか?
あなたの“電磁領域”の半径が変化していることに。」
息が詰まった。
如月教授
「武漢で覚醒した当初は 2.5メートル。
しかし今は── 3.1メートル。」
教授は指を一本立て、数式を書くように空をなぞった。
如月教授
「3100。
“さそり”の数値です。」
(さ=3 そ=10 り=0)
如月教授
「あなたの細胞はすべて半導体化している。
ミトコンドリアは超小型バッテリー。
それが60兆個、量子的にネットワークされている。」
教授は静かに締めた。
如月教授
「つまり御子は──
“人体サイズの移動式テスラコイル”であり、
“世界線演算を行うスーパーコンピュータ”でもある。」
瞳孔が裂け、紫色の幾何学構造が覗いた。
観察者の目。
如月教授
「その進化値が…… 3.1メートル。
蠍の仕様です。」
◇
背骨を氷に掴まれたような悪寒。
如月教授
「それでも使うのでしょう?
セルケトの息子。」
柔和な笑顔に戻り、扉へ向かう。
如月教授
「お気をつけて、お帰りください。
御子の呼吸が、この世界に長くとどまりますように。」
カチャリ。
扉が閉まった。
残された俺は、硬いスキャン台の上でしばらく動けなかった。
胸の奥で、鼓動だけが暴れている。
⸻
毒を超え、死を跨ぎ、
なお息をしている。
セルケトの息子。
笑い飛ばせるほど、俺は強くない。
ゆっくりと目を閉じた、その瞬間。
——気づいた。
俺は“誰よりも強く、美しい”と信じていた。
だが所詮、
釈迦の掌の上で踊っていた孫悟空だったのだ、と。




