2話 ネバーセイネバーアゲイン (改)
2016年2月28日、新宿。
都庁周辺は通行止めとなり、
東京マラソンに参加する二万超のランナーたちで溢れていた。
冷たい風が、群衆が放つ体温をゆっくり攫っていく。
俺は仮設トイレのドアを押し開けた。
その瞬間――
すれ違ったランナーのイヤホンから、微かに音が漏れた。
エルビス・プレスリー《A Little Less Conversation》。
雑音に埋もれるはずの“音の欠片”が、
まるで俺の再起を祝うファンファーレのように聞こえた。
「……悪くない皮肉だな。」
俺はニヤリと笑い、無言で列に滑り込んだ。
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スターターピストルが鳴り、
白い息が砕けた霧のように宙へ散った。
群衆が一斉に前へ押し出される。
地面の振動が脛を這い上がり、
世界がスローモーションで回転を始める。
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スタート直後の混雑を抜け、
気づけば自然とトップ集団にいた。
鼓動は機械より正確。
左右対称に脈打ち、まるでボクサーエンジンのようだ。
肺活量10,500cc。
心拍数27。
乳酸を自家分解する酵素サイクル。
フラクタルボディ。
ドーピングなど必要ない。
世界記録など、“ただの通過点”。
――とはいえ、抑えていた。
カナリアの群れに一羽だけ鳩が紛れ込めば、
それは調和ではなく“暴力”だ。
本気で走れば、競技が成立しない。
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7km地点・飯田橋。
最初の緩い上りで、トップの一人が小さく呻いた。
揺らぎ。
その瞬間、俺は前へ出た。
脚の回転が空気を裂き、
風圧だけが後ろへ剥がれ落ちていく。
背後の足音は完全に消えた。
浅草では独走。
銀座で空気の層が変わり、
品川折り返しでは歓声すら届かない。
抑えていたつもりだが――
結果は誰が見ても明らかだった。
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日本記録。
いや、世界記録で優勝。
サングラスのままインタビューを受けた俺は、淡々と答えた。
「……走る理由はひとつです。
美しいか、美しくないか。それが行動の基準だから。」
「リオ五輪のマラソンには?」
俺は短く答えた。
「出ません。」
ざわめき。
「……消えよ、消えよ、短い蝋燭よ。
人生は歩く影だ。
自分の役が済めば舞台から消える哀れな俳優……
阿呆がわめき散らす物語だ。さっぱり訳が分からん。」
わずか三日前――
日本最大級の 半導体・液晶・太陽光発電 メーカーが、
グローバリスト官僚と台湾の金融マフィアの手で、
詐欺同然に買収されることが決まった。
日本の基幹技術が丸ごと流出するというのに、
誰も事の重大さに気づかず、走り、叫び、SNSに上げて――それで終わり。
「舞台裏で国の未来が売られているとも知らず、
ただ走り去っていく……そんな光景だった。」
“今だけ、金だけ、自分だけ”。
この国の“リーダー層”の縮図だ。
どう転んでも不思議じゃない。
フェリーニ『トビーダミット』で怪演する
テレンス・スタンプのように、
俺はマクベスの台詞を吐き捨て、壇上を降りた。
報道陣の背後に、白いワンピースの“瑠衣”が一瞬見えた。
……ただの記者だった。
俺は何も言わず、視線を逸らした。
賞金総額1億5000万。
副賞のBMW 330eの目録も受け取った。
インタビュー時間まで含めれば、時給約4000万円。
悪くない。
むしろアイビーリーグ留学には十分すぎる。
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大学は卒業見込み。
春から駒場の大学院へ。
丸刈りにオークリーのサングラス。
以前の俺を見る者はもういない。
今の名は――
安樂蘭。スペイン語で“蠍”。
理由は言うまでもない。
地下鉄サリンで一度死に、
武漢で三度目を拾い、
変名して四度目を走っている。
さてさて
曲者揃いの連中に囲まれて、
今度はどんなゲームが“俺のハートを震わせるのやら“
紫の波長。
オーバードライブ。
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同じ頃。
ニューヨーク・クイーンズのアパート。
パイカルはノートPCで中継を見ていた。
画面の中、安樂蘭が独走でフィニッシュする。
「エクセレント。」
その直後――
後方ランナーのイヤホンから漏れた音を、
中継のマイクが拾った。
ラニーホール《Never Say Never Again》。
パイカルは瓶のコロナを弾き、笑った。
「……Never say never again、か。
あいつはもう、“二度と戻らない場所”へ戻ってきた。」
「ようこそ――混沌の中の静寂へ。」
隣には、コロンビア大学フェンシングチーム代表、
カリブ系クレオール美女・リズ・クリストフ。
「彼、五輪はマラソンで出ないの?」
パイカルは当然のように言った。
「俺たちと同じくフェンシングで出るつもりだ。
やろうと思えば、金メダルでオセロくらいはできる男だからな。」
画面の中の“蠍”は、
新しい世界線を静かに歩き始めていた。
「四度目の人生か……悪くない歩き方だ。」




