エピローグ― ガラスの墓標
夜の雨が上がったばかりだった。
湾岸の空はまだ薄明を残し、濡れたアスファルトが街灯を鈍く返している。
黒い引越し業者のバンが、交差点で横転していた。
スライドドアが開き、煙とともに男たちが這い出す。
黒服、無線、銃。短く怒号が交わされた――その瞬間。
乾いた閃光。
音は、なかった。
三人の身体が、糸を切られたように散らばるガラス片の中に崩れ落ちる。
その中には、真白 凱の姿もあった。
元イ・ムジチ楽団のバイオリニスト、リンダ・デ・スカルピアとは面識があった。
そのリンダが従兄弟の大司教に助けを求めたことも掴んでいた。
だからこそ、失敗のないようにと久しぶりに自ら陣頭指揮を取った――
だが、裏目に出た。
薄れゆく意識の中で、真白 凱はそう悟った。
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遠く離れたビルの屋上で、味沢 岳はスコープをたたみ、濡れた手袋を外した。
空には、わずかに赤みを帯びた雲。
その向こうで、一瞬だけ星が滲んだ。
アンタレス――蠍座の心臓。
味沢は無言で歩き出す。
濡れた階段を降り、監視カメラを巧みに避けながら、
ビルの前に近づいてきた大使館ナンバーのベンツの後部ドアが開く。
味沢は上着と銃ケースを渡すと、淡々と背を向けた。
1キロ先の地下駐車場。
そこには、一台の車がとまっていた。
グレーのランサー・エボリューションⅩ。
リアには控えめなダックテール。ナンバーは擬装。
光の下で、雨粒がボディラインを滑り落ちていく。
味沢はドアを開け、無言で運転席に座る。
キーをひねると、エンジンが低く唸った。
テールランプの赤が、雨上がりの空気に滲み、
やがて都市の闇に溶けていった。
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同時刻。
目黒区の高台にあるプール付きマンション。
ガラス越しに、水面のライトが青白く揺れている。
白いヘッドライトが静かに滑り込み、
**ランチア・デルタ HF インテグラーレ EvoⅡ《Viola Pianeta》**が停まった。
パープルのボディに、夜の水滴が散っていた。
助手席のドアが開き、パイカルが降り立つ。
続いて、如月 蜜。
二人ともセントジェームズのボーダーにショートパンツという軽装。
蜜の脚の曲線に、パイカルの視線が一瞬止まる。
「珍しい車が手に入ったと言っていたが……まさかな。」
蜜は微笑む。
「ええ。リンダが残したデルタ。――ようやく動くようになったの。」
パイカルの瞳がわずかに光る。
「……あの女の魂が、まだ走ってるわけか。」
「そうだったわね。――彼、行ったのね。」
「……ああ、行った。」
二人はエントランスを抜け、自販機で瓶入りのウィルキンソンを買う。
炭酸の音が夜に弾け、瓶の首から白い霧が立ち上る。
プールサイドのビーチチェアに腰を下ろし、蜜が微笑んだ。
「……さすが、至れり尽くせりね。」
パイカルは瓶の口に指をかけ、軽く笑う。
「酒は置いてないがな。」
「ええ。――白乾児以外のね。」
小さく、乾いた笑い。
氷のような空気に、ふたりの声だけが溶けていく。
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「どう思う?」
蜜が、水面に映る自分の顔を見つめながら尋ねた。
「“あいつ”と“俺”は、同じカードの表と裏だ。」
パイカルの声には抑揚がない。
ただ、真実の比喩として響いた。
「そうね。
“人生の目的”を問う人は多いけど、
この世界を“現実”だと思い込んでる時点で、
もうゲームの中の駒なのかもしれない。」
「つまり――神が書いたスクリプト通りに動いている、ということか。」
「ええ。けれど、ある瞬間、
自分が“駒”ではなく、“プレイヤー”だと気づく人がいる。
そして最終的には、ゲームそのものを――“デザインする存在”になる。」
パイカルは瓶を傾け、残った泡を指先でなぞった。
「アインシュタインは言った。
“過去も未来も存在せず、今しかない”。
だから、“今”をどれだけ意識的に生きるかで、
人生の位相が変わる。」
「……つまり、“高位現実”ね。」
「そうだ。――俺たちはもう、システムの外側に立っている。」
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そのとき、どこからともなく古いメロディが風に乗って届いた。
「♪ 雨に打たれて このまま死ねたら……」
パイカルはわずかに目を細めた。
「――“長崎は今日も雨だった”、か。」
蜜が微笑む。
「湿った世界には、湿った音楽が似合うわね。」
パイカルは短く頷いた。
「……だが、湿気もまた“生命の証”だ。」
二人の笑い声が、夜のプールサイドに溶けていく。
雲が流れ、遠くの空で赤い星が瞬いた。
アンタレス――蠍座の心臓。
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静かな夜の底。
赤い星の光だけが、ふたりの沈黙を照らしていた。
それは、まるでガラスの墓標のように――
透明で、冷たく、壊れやすい永遠だった。




