第20章 世界は悪意に満ちている
五月。
編入から一か月。講義は駒場、事務は本郷。
この二重生活にも、ようやく身体が馴染んできた。
編入生は、文理を問わず他学部の講義を自由に履修できる。
駒場にいられるのは一年だけ。
――だから、時間の使い方がすべてだった。
第二外国語は、高専で履修していたドイツ語。
第三外国語はスペイン語。
母がブラジル系だから発音には困らない。
スペイン語など、ポルトガル語の親戚のようなものだ。
そのせいか、第二外国語クラスでは俺のことを
「南米あたりから来た留学生」だと思っているらしい。
せっかくだからと外国人たちのコンパにも顔を出した。
不思議と、居心地は悪くなかった。
――たぶん俺も、どこかこの国の人間じゃないのだろう。
特に中国から来た留学生たちは、監視の目がないせいか、
酒が入ると驚くほど饒舌になる。
自国の指導者を、馬鹿だのクズだのと罵り、
「バレたら監獄行きだな」と笑う。
「確かにそうだな。中国の国家機密をばらすのは良くない」
「特に――政府が盗撮マニアの集まりとかさ」
一瞬、空気が止まり、
次の瞬間、爆笑が起きた。
俺も笑った。
だが目の奥では、別の色が灯っていた。
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当然ながら、東大では将来の人脈づくりを目的に
部活へ入る者が多い。
俺は高専からの流れでフェンシング部を選んだ。
そこで気付いた。
なぜか部員の半分以上がサソリ座だった。
理由は分かっている。
笑えないけど、笑った。
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まわりの連中が地獄のようなスケジュールで潰れていく中、
俺だけは“別ルート”を使っていた。
――明晰夢による、時間拡張。
夢の中でカメラアイの映像を再生し、講義内容を整理し、
レポートの構成まで終わらせる。
起きたら、ただ指を動かすだけで良かった。
現実の十五分が、夢の中では十時間。
ドラゴンボールの“精神と時の部屋”は、案外、本気で理に適っている。
これは蠍の神経構造がくれたギフトの中で、
もっとも“経済的”な能力だった。
世界の時間が鈍く見える。
俺だけが別の層で生きている感覚。
――だが、その錯覚は音もなく崩れ去った。
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五月四日、未明。
永田町の交差点。
親父は横断歩道を渡っていた。
直進してきたバイクが、何の前触れもなく突っ込んだ。
即死だった。
運転していたのは、世田谷区在住の無職の男。
「覚えていない」とだけ言い、意味の通らない言葉を繰り返した。
そのまま入院し、三日後に突然発熱して死亡。
体内からは未知のRNAウイルス。
感染経路は不明。
医療スタッフへの二次感染も確認されなかった。
現場の住民たちは口をそろえて言った。
――金属をこするような音がして、空気が震えた。
報道はわずか。
SNSの投稿は、数時間で削除された。
それでも深層では、陰謀論の火種が燻り続けていた。
――いつか、こんな日が来る気がしていた。
母が泣き崩れる横で、俺は妙に冷静だった。
覚悟の一部が、とうに削り取られていたのだろう。
⸻
密葬を終えた数日後。
夢の島マリーナ。
ヨットの前で、所長の 味沢 岳 が
高倉健のような彫刻めいた顔で煙草をくわえていた。
「……惜しい人を亡くした。
数少ない“同士”のひとりだった」
俺は黙っていた。
味沢は海を見ながら、低い声で続けた。
「うちのマリーナ、運営は《JANUS》が請け負ってる。
親父さん、国際会議の警備打ち合わせの帰りだったらしい」
“国際会議”。
ただならぬ響きがあった。
「日本、アメリカ、欧州――
世界の運営方針を裏で決める連中の集まりだ。
あの“B会議”に匹敵する影の運営委員会ってやつさ」
潮風がタバコの煙を千切り、海へ落とす。
「カジノ利権の裏にはアメリカ、中国、
それに浙江財閥――古い青幇の流れがある。
いまや、医療産業複合体に並ぶ、もう一つの帝国だ」
味沢は目を細めた。
「蒋介石と孫文の妻が姉妹って話、知ってるだろ?
どっちも浙江財閥の出だ。
日本の政治家は親中派と親台湾派に分かれちゃいるが、
その両方を繋ぐ連中にとっちゃ国境なんか意味がない。
ノーカントリー――つまり“イマジン”の世界だ」
そして、ぽつりと言った。
「親父さんには、大和財団を通して出馬要請があった。
スパイ防止法を本気で通せる、数少ない人材だった。
あんたの親父は――“ジョーカー”だったんだよ」
波音。
遠くでマストが鳴る。
「……だがな、親父さんは邪魔だった。
東アジアの反日勢力にとっても、
その国際会議に潜む一部の連中にとっても」
味沢の声が潮風に溶ける。
「おそらく、音響兵器だ。
三半規管に干渉して、平衡感覚を奪うタイプ。
海保でも実装が始まってる」
灰を落とし、味沢は俺を見た。
「あの萬尾安針が、シラフでバイクに撥ねられるなんてありえねぇ」
少し間を置いて、静かに告げた。
「……お前も気をつけな。
敵は、案外、顔見知りの中にいる」
⸻
潮の匂い。
船の警笛。
海面の光が、俺の手の甲で揺れる。
その震えが、自分の鼓動と同じリズムだと気づく。
……サイレント・インパクト。
この世界は、どうしようもなく悪意に満ちている。
そしてこの国に対する“静かな侵入”は、
すでに始まっていた。
なぜだか――
あの日、瑠衣の隣に立っていたパイカルの横顔が
ふと脳裏をかすめた。
あの瞳は、確かに未来のどこかを知っていた。




