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第19章 薔薇色の序章ー極点


『ハムレット』より

――To be, or not to be. That is the question.


2013年、四月の初め。

本郷の桜は、もう花びらを落としていた。

赤門をくぐると、湿った風が頬を撫でる。

その重さに、思わず背筋を伸ばした。


今日から――東京大学工学部。

編入生としての生活が始まる。



会場には十数人。

全国の高専から集まった連中ばかりだった。

年齢も雰囲気もまちまちだが、

全員が似たような緊張顔をしている。


健康診断があると聞いていたが、

スーツやシャツで決めてきた奴が多い。

俺だけ、洗いざらしのジーンズにダンガリーシャツ。

――ちなみに、リーバイス501を裾上げせずに履けるのが俺のささやかな自慢だ。


「――ハムレット曰く。

 イけてるかイけてないか、それが行動の基準だ。」


壇上では、前年の編入生が淡々と説明している。

精密工学科の田中大我。

丹波哲郎みたいに苦味のあるイケメンだ。


「東大を卒業するには153単位。

 一般大学より30多い。

 まあ、大半は160近く取って卒業してる。」


そんな声を聞きながら、俺は呼吸を整えていた。



編入生は高専の単位を最大43まで換算できる。

だが実際は36〜38単位ほど。

俺はドイツ語があったおかげで最大値の38単位が狙えた。


だが問題はそこじゃない。

進級に必要な専門科目を履修していない俺ら編入組は、

実質「2年からやり直し」になる。


東大で115単位以上を2年で詰めるのは狂気。

留年はむしろ正常。



「高専どこ?」

隣の男が声をかけてきた。


「都立バウハウス。応用生物工学。」

「俺は長野。物理志望。」


名簿を見ると、こう書かれていた。


《狩尾 数統郎》


……どう見てもカリオストロだ。


「……カリオ?」思わず聞く。


男は照れくさそうに答えた。

「カリオ……ヤスオ、って読むんだけどさ。誰もそう呼ばない。」


吹き出しそうになった。

「そりゃそうだ。“カリオストロ”にしか見えねぇ。」


「親父がルパンオタクでさ。逃げ場なしだよ。」


黒縁メガネの奥の目が、妙に静かだった。

理屈と妄想の境目を歩くような目だ。


――伯爵、と呼ぶことにした。


そしてその時、もう一人、名前の呪いで苦労している奴が思い浮かんだ。

そして、健康診断。


チャールズ・ブロンソンを一回り大きくしたような体型。

無駄な肉はないが、絶対に“普通”ではない。


身長180センチ、体重95キロ、胸囲108。

体脂肪10%。

肺活量1万500cc。

心拍数は27——取り直しても28。


医師が俺のカルテを二度見した。


「……すごい身体だな。特殊部隊の隊員でもここまでいないぞ。何やってる?」


「フェンシングを少々。」


医師は一拍置き、もう一度俺の身体を眺めた。


「にしても95キロには見えん。完全に80キロ台の見た目だ。

……まさか“比重のある筋肉”ってやつか?」


冗談めかして笑ったが、本気で驚いていた。


一年後、身体はさらに最適化され、密度は上がった。

そのせいで、ベッドに入ると女の子を押し潰さないよう

体重移動にいつも気を使うことになる。



夜。

渋谷駅南口の居酒屋。


「おお、今年の編入か。よく来たな。」


OBに迎えられ、全員20歳以上なので普通にビールが出る。


「都立高専から来ました。精密の萬尾アモンです。」

「マオウ? 名前がラスボスだな。」


笑いが起きる。悪くない。


精密の“タイガー田中”先輩が言った。


「内部生には語学やオリエンがあるけど、

 俺たち編入は独立部隊だ。

 情報を共有しないと、生き残れない。」


“生き残れない”――この言葉は妙にしっくり来た。



二次会は近くのジャズバー。

紫煙の中、バート・バカラックの旋律。


突然カリオが立ち、ピアノ前の席へ。


《What the World Needs Now Is Love》


柔らかい英語。

誇張せず、ただ音だけが空間に溶けていく。

教授も学生も、全員が黙った。


歌い終え、狩尾はバーボンをひと口。


「……愛を求める世界ってさ。

 物理的に言えば “重力の歪み” だよな。」


「重力?」と俺。


「人は完全じゃない。だから引き寄せ合う。

 完全な球体なら、互いに軌道を持てない。

 歪みがあるから、惹かれ合うんだ。」


物理学で恋愛を語る男を初めて見た。


カリオはグラスを置き、ふっと笑った。


「……まあ、俺にとっての“愛”は、まだ観測できない粒子だけどな。」


その瞬間、

彼がただのオタクじゃないと悟った。


理屈と感性の境界を軽やかに往復する――

それが伯爵の“イケてる”才能だった。

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