第18章 君の瞳に恋してる
編入試験に夏期試験。
2012年の七月は、焦げつくような熱気の中を駆け抜けていった。
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夕方。久しぶりの真名美との待ち合わせ。
場所は、有楽町マリオン前。
人の波を眺めながら、俺はチャーリー・コーセイの《ルパン三世エンディング》を口ずさむ。
一時間待っても、真名美は現れない。
携帯も繋がらず、時計の針だけが風車のように回り続ける。
――裏切りは、女のアクセサリーだったか。
苦笑しながら、俺はベンチの背にもたれた。
帰ろうとしたその瞬間、
俺の“スコーピオン感覚”が空気のノイズを拾った。
振り向くと、真名美がホスト風の男に絡まれていた。
芝居がかった笑顔。口だけで喋るタイプの人間。
「君って最高にイケてると思うけど、賛成してくれる?」
――臭い。
思わず呟いた。
「……やれやれだぜ。」
「アモン!」「亜門!?」
同時に響いた二つの声。
そのうち一つには、懐かしい“過去の匂い”が混じっていた。
「よぉ、久しぶりだな。まさかこんな場所で会うとは。」
振り返ると、そこにいたのは吉岡蓮だった。
「ああ。震災特例でこっちにいる。……お前、ホストでも始めたのか?」
「ホストじゃない。早稲田の政経。マスコミ志望だ。」
「その格好でか? 明治じゃなかったのか?」
「法も商も落ちた。政経だけ受かったんだよ。」
「なるほど、結果オーライってやつだな。」
「確かに。お前は? そろそろ編入試験か?」
「――東大、合格だ。」
「マジかよ。」
俺は軽く肩をすくめ、立ちポーズを決めた。
吉岡が即座に突っ込む。
「おい、それジョジョポーズだよ?」
「さあな。ノリってやつだ。」
そして、サソリのバッジをつけたグレーグリーンのM43山岳帽をアミダに被る。
その仕草を合図にしたかのように、
広場で演奏していたバンドが《君の瞳に恋してる》を奏で始めた。
人混みの中から、ダンサーたちが次々に現れる。
吉岡と真名美が呆然とする中、
俺はボーカルからマイクを受け取り、笑った。
「――誕生日おめでとう。」
リフが跳ね、風が舞う。
俺は《恋のから騒ぎ》のヒース・レジャーばりに歌い上げ、真名美の前に跪いた。
まあ、自分で言うのもなんだが――
臭さでなら吉岡より二枚は上。
それがこの俺、萬尾亜門だ。
そう。彼女の誕生日に、フラッシュモブを仕込んでおいたのだ。
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千疋屋の二階。
パフェの上のチェリーが、空調の風にわずかに揺れていた。
「ほんと、焦ったんだから!」
真名美はひまわりみたいに笑った。
レポートを徹夜で仕上げ、そのまま寝落ち。携帯の電源も切れっぱなし。
――真名美あるあるだ。
俺はスプーンをくるくる回しながらおどけて笑う。
「ま、いつも酷い目に遭ってるんだが憎めないんだな。俺、カワイコちゃんに弱いからねぇ。」
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その夜。浅草橋の寿司屋で上寿司を平らげ、
そのままカラオケへ。もちろん奢りは俺だ。
真名美がオペラ調で《キューティーハニー》を歌い、
俺は和田アキ子ばりのこぶしで《タイガー&ドラゴン》を返す。
カラオケルームが一瞬だけ紅白歌合戦になった。
そして――
吉岡が静かにマイクを取った。
選んだ曲は、尾崎豊の《銃声の証明》。
イントロが流れた瞬間、空気が変わった。
軽口ばかり叩く男の瞳に、鋭い光が宿る。
「撃たれる側か、撃つ側か。」
その歌声は震えていた。
報道への夢、正義への憧れ、そして迷い。
すべてが、掠れた声の中でぶつかり合っていた。
採点は90点。
だが――あの夜のスコアは、魂の値だった。
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翌月、合格証が届いた。
英語463/数学452/物理255。合計1170点。
平均九割。
奇しくも、あの夜の吉岡のスコアと同じだった。
俺は笑い、静かに満足した。
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その頃、政権は迷走を始めていた。
父は新しい肩書きを手にしていた。
「日本ユニバーサルサービス株式会社」――通称《JANUS》。
ギリシャ神話の“門の神”の名を冠した会社。
表向きは防犯・リスク管理の専門企業。
だが実態は、公安・海保OBの天下り先。
情報収集、要人警護、海外コンサル――
裏では、“もうひとつの国家”が動いていた。
父の担当は、東京カジノ構想の下地づくり。
その先に見えるのは、日本の新しい“権力の形”。
利権の渦には、アメリカだけでなく、浙江財閥や青幇、親中派の影も蠢いていた。
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八月末。
《Theニンジャ》のアメリカ版《GRAVITY》でラスベガス優勝。
賞金は100万ドル。
だが、俺はまだ二十歳。
カジノには入れない。
だから杏子と一緒に、ミュージカル版《君の瞳に恋してる》を観に行った。
終幕、サビの旋律が途切れる。
杏子はわずかに俺の手を握った。
その指先の熱だけが、現実だった。
――あの瞬間、世界が止まった。
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帰国後、賞金で元麻布のマンションを購入。
渋谷・南平台、新宿・内藤町に次ぐ、三つ目の拠点。
母の希望で見に行ったその街は、中国大使館の近く。
坂が多く、静かな空気に包まれていた。
南東角、ルーフバルコニー付き101平米。
価格は一億五百万円。麻布にしては控えめ。
――そのバランスが気に入った。
母は、地下鉄サリン事件以来、“逃げ場のない場所”を極端に嫌う。
だがその代わり、未来を読むような直感を得た。
リオ五輪を誰よりも早く読み、ブラジル国債で財を築いた。
南平台の物件も、母の発案だ。
「事故物件を破格で買ってリフォームすれば、“事故物件”の表示義務は消えるのよ。」
冷静で抜け目がない。
俺は、その現実主義を嫌いになれなかった。
「次の東京五輪が決まれば、この部屋の資産価値は倍になるわ。」
その読みは、いずれ的中する。
――だが、この時、俺たちはまだ知らなかった。
次に開く“門”が、
世界の重力を、
そして運命そのものを変えることになるとは。




