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第16章 恋の面影

2012年7月、例年通りの梅雨の蒸し暑い朝だった。

駅前の空気は湿り、アスファルトが鈍く光っている。


体型を誤魔化すヒューゴ・ボスのスーツは無難なグレー。

ネクタイは無地のパープル。

左手にはセイコー・キネティックの多眼クロノ。

靴はチャーチのストレートチップ。


電車の中、女性たちの視線のベクトルがレーザーポインターのように痛い。

無言のまま吊り革を握り、呼吸を整える。

鼓動も、試験に向かうプログラムの一部だった。



面接室


紫外線をカットするため、白山眼鏡で特注した偏光レンズ。

ウェリントン型。光の屈折率を利用して、教授たちの輪郭を読む。


教授が三人。質問はすべて英語だった。


「萬尾君、どうして東大を選んだの?」


俺は少し間を置き、まっすぐ答えた。


「ハーバードの水より、東大の水の方が快適だと思ったからです。」


一瞬、静寂。

教授三人が顔を見合わせる。

その沈黙を破るように、中央の教授が小さく笑った。


「水は器に従うと言うが、……なら、さしずめ君は――東大の伊藤英明だな。」


俺は口角を上げ、静かに返す。


「海よりも、構造の中で溺れるタイプです。」


短い笑いが室内に広がる。

その奥で、誰もがわずかに息を呑んだ。


――通ったな、と確信した。



実は杏子のいる千葉大学の編入試験にはすでに受かっていた。

浪人の心配もない。

どうせ落ちても、カーネギーメロンからも

フルスカラシップで誘いがあるので、お気楽なものだ。


だからこそ、俺は“本当の自分”で臨めた。

この場所では、虚勢よりも構造が価値を持つ。


俺にとって、学問は戦場だ。

敗北こそが、次の進化を生む。



午後、江東区の三菱ショールーム。

GWに開催されたTV局のスポーツ特番『ザ・ニンジャ』の優勝賞品――

ランサー・エボリューションXの受け渡し。


お約束の美女モデルとの撮影を済ませ、

フラッシュの中で軽く笑う。


震災の影響で一年ぶりの開催。

八月に行われるアメリカ版《GRAVITY》への出場権を賭けた記念大会で、

完全クリアしたのは俺だけだった。


《GRAVITY》の優勝賞金は100万ドル。

賞金稼ぎを自負する俺として、参加しない理由はない。


――敗北を知りたい。

当時の俺は生意気にもそう考えていた。



夜 ― 夢の島マリーナ


夢の島マリーナに戻ると、父がいた。


「親父にプレゼント。」

俺はランエボⅩのキーを差し出す。


父は無言で受け取り、運転席に腰を下ろした。

エンジンをかける。

2リッター300馬力。乾いた重低音が夜のマリーナを震わせた。


ポルシェ911のデザイナー、アレキサンダー・ポルシェは言う。

「デザインとは、機能とフォルムを美的に統合することだ。」


ランエボⅩの無駄のない造形は、その言葉通りだった。


ランエボ最大のウィークポイントである、

あの不格好この上ない巨大ウィングは

目立たない小さなダックテールスポイラーに変更してもらっている。


「……イケてるな。」

「だろ。」


それで十分だった。


父は最前線で戦ってきた男だ。

工業製品は徹底した国産主義。

スーツもパソコンも車も日本製。


ただ一つの例外がヨット。

居住性の問題でフランス製ベネトウ40CCを選んだが、

エンジンと計器はすべて日本製に換装してある。


――そういう男だ。



週明け ― エアストリーム


講義を終え、フェンシング部の部室へ。

校舎裏の古いエアストリーム。


中では若草色のツナギ姿の花房真名美が

鬼束ちひろをBGMにMacを叩いていた。

“美人の上沼恵美子”の異名を取る、高専一のマドンナだ。


「おかえり。コーヒー淹れたよ。」

「助かる。」


額に軽くキスをして、スマイリーの黄色いマグを受け取る。

コロンビアの香りが静かに漂った。

真名美はコーヒーにうるさい、

今回のもコロンビア豆のウチ上位5%の上質な奴だろう。

コーヒーという名の上質なワインだ。


「いつも嬉しそうにコーヒー飲むよね。」

「ああ、世の中には“決まり”ってものがある。」

「決まり?」

「つまり――鬼束ちひろは耳栓をして聴く。

 美人の淹れたコーヒーは、美味そうに飲む。

 それが黄色いスマイリーのカップだとしても、だ。」


真名美が吹き出した。

「良く分かったわ、“量子美学論”のセンセイ。

  ――それより今からは、“宇宙恋愛方程式”の時間よ。」」

『GANTZ 大阪編』の山咲杏のようにあざとく笑う。


杏子の美は俺を導く光だったが、

真名美の美しさは、ただ静かに“寄り添って”くれた。

どちらが欲しかったかは、もう言うまでもなかった。



……まあ、誤解のないように言っておくが、

別に俺が女運に恵まれているわけじゃない。


(毎年、学校で一番の美女と付き合うのは――

 007じゃないが、“主人公補正”というやつで理解してほしい。)



俺は、迷いの無い手で真名美のツナギのジッパーを下ろした。

“Feel. Don’t think ”

おそらくそれが“宇宙恋愛方程式”の最適解だ。



夜 ― 南平台の風


渋谷区南平台の小規模マンション。

震災補償も片づき、俺たちは築浅の140平米の角部屋に越していた。


当然のように部屋の中は全部パープルだった。

ラベンダー色の壁、パープルのラグ、

エッグチェアとスワンチェアまでパープル。

照明はパントンの美術品のような曲線。

――母の“紫強迫”が、北欧モダンをそのまま礼拝堂にしていた。


部屋に戻ると、父がいた。

リビングのステレオにはマイルス・デイビス《Kind of Blue》が掛かっている。


紫煙のようなブルーの音の中、

父はパープルのマグカップを片手に夜風に当たっていた。


「二次試験、どうだった。」

「何とかなりそう。」

「そうか。」


それだけ言って、父は夜空を見上げた。

アースカラーの壁に街の光が淡く反射している。


沈黙の中、遠くの空で微かな電磁の“ざわめき”が走った。

――蠍の神経網が、どこかで共鳴している。


俺はわずかに眉を動かした。

まだ見ぬ“何か”の呼吸を、夜気の中で感じ取っていた。


静かな夜の底。

光と闇の境界で、蠍の鼓動がゆっくりと熱を帯び始めていた。


――違った空の下で、世界は静かに再び動き始めていた。




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