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第13章― Feel, Don’t Think


放課後の研究棟。

夕陽がガラスを透かし、鉄骨の影が床に長く伸びていた。


校舎の最上階――東京湾を望む実験デッキ。

風が強く、海の匂いがかすかに金属を帯びている。


杏子はチャコールグレーのポロシャツに、細く長い手脚を際立たせるチェックのミニスカート、

グレーのハイソックスで姿を現した。

清楚な顔とはアンバランスなほど、大きな胸が上向きに自己主張している。


残念ながら――やばいくらいに、ドストライクだった。


「ここなら誰も来ないわ。」


声は穏やかだが、どこか試すような響きを帯びていた。

鉄のフェンス越しに、東京湾の光が揺らめく。


「告白には、ちょうどいい場所だね。」


俺が軽く冗談めかすと、杏子は一瞬だけ笑い、

静かに続けた。


「あなたの“構造”を――見てみたいの。」


「それは……ここで俺に服を脱げって意味?」


杏子は目を細め、口元だけで微笑んだ。


「そうね。できれば――心のほうを、ね。」



「“構造”って、あなたにとって何なの?」

杏子が問う。


俺は少し間を置き、視線を海に投げた。


「……現実の、形そのもの。

 俺は多分、普通の人とは違う。

 幼いころ、地下鉄の毒ガステロに巻き込まれた。

 呼吸が止まり、真っ白な光の中に落ちた。

 あの瞬間から、現実が“二枚”に見えるようになった。」


杏子はまばたきもせず、ただ聞いていた。


「音や匂い、光の粒。

 全部が“フィルムの表と裏”みたいに重なって見える。

 だから今もどこかで――

 “仮想現実の中に生きてる”気がするんだ。」


「現実が信じられない、ってこと?」


「信じたい。でも、たまに自分の感覚が嘘っぽい。

 この風も光も、“誰かの再現プログラム”みたいに感じる。

 ……だけど、それを確かめる術がない。」


杏子は微笑む。


「なるほど。あなたの“構造”は、心の防御壁なのね。」


「かもしれない。バーチャルの方が、安全だから。」



「私も似たようなものよ。」


風の音に溶けるほど、杏子の声は静かだった。


「共感覚って知ってる?

 私は人の感情を“色”で感じるの。

 喜びは金色、怒りは赤。不安は青。

 ……あなたの色は、銀と紫。」


「悪くない。」


「ええ、綺麗よ。

 冷たい金属の奥で、何かが燃えてる。

 まるで、蠍みたい。」



「……実は俺にも見えるものがある。」


俺はゆっくりと言った。


「反射神経とか動体視力じゃない。

 相手の“次の一手”が、空気の波でわかる。

 筋肉の張り、呼吸のズレ、皮膚の熱。

 全部がひとつの“振動”になって伝わってくる。」


杏子の瞳がわずかに光る。


「それは感覚じゃない。もう――共鳴よ。」


「共鳴?」


「ええ。

 あなたの波が私に届くと、私の中の波が震える。

 怖いけど、美しい。

 たぶん、私たち似てるのよ。」


指先が空気をなぞる。

触れていないのに、微かな熱が伝わる。


「……この距離でも感じるの。あなたの“振動”。」


俺は息を吐いた。


「それは俺の鼓動か、それとも――幻覚か。」


杏子は微笑む。


「どっちでもいい。

Feel, don’t think。

“感じる”ことが、現実なんだと思う。」



チャイムが鳴った。


「……また“実験”しましょう。次は、夜に。」


白いシャツの裾が風に揺れ、残光の中に溶けていく。



夜。校舎の灯はすべて落ちていた。

だが構内の片隅に、小さな光だけが残っていた。


古い銀色のトレーラー――エアストリーム。


ノックすると、中から柔らかな灯りがこぼれた。


「遅かったわね。」


思ったより広い室内。

壁にはスチールパネル、色彩データのスケッチ。

仮眠用ベッドの一角にはフェンシングの面と白い防具。


そこに、杏子の“現実”と“構造”が同居していた。


「……ここ、卒業生が残した部室なの。

 ここで告白したカップルは別れないって噂、知ってる?」


「信頼できるデータ?」


杏子が笑う。


「ほんと、あなたって理屈っぽい。」


「なら……君の身体で、俺を解放してくれ。」


「……やっぱり、あなたって危険ね。」


杏子はそっと肩を寄せた。

その距離に、世界がわずかに歪んだ。


視線がまっすぐに射抜いてくる。


「――昼間の“波”の続きを見せて。」


「あなたの振動。もっと深く感じたいの。」


空気が震え、肺に杏子の香りが流れ込む。

喉の奥で“毒息”の回路が静かに開いた。


杏子の瞳が金から紅に変わり、

共感覚のスイッチが入る。


「……見える。あなたが“波”でできてる。

 心臓の鼓動まで、色で見える。」


指先が触れた瞬間、

世界の輪郭が崩れ落ちた。


鉄と潮の匂いが遠ざかり、

白い光の粒が宙に漂い始める。


「……これは実験じゃない。ミトコンドリアが――共鳴してるの。」


その言葉が脳に刺さる。


毒と共感覚が、ひとつの周波数で同期した。


杏子の体が震え、銀色の残光がこぼれる。


「あなたの中に、何か……生きてる。」


「それは、“蠍”。多分。」


――生命が生命を、分子レベルで抱きしめた瞬間だった。



夜が明けた。


朝の光がトレーラーの天井を白く染める。


シーツの上で、杏子の髪が静かに波打っていた。

金と灰の中間――夢と現実の境を漂う色。


彼女の呼吸は浅く、穏やかだった。


俺はその肩越しに外を見た。

湾岸の朝霧がゆっくりと解けていく。


――現実が戻ってくる。


だが、何かが違う。


指先に微弱な電流。

あれは体温の名残か、それとも共鳴の後遺波か。


杏子が目を開いた。

鳶色の瞳が光を反射し、淡く揺れる。


「……おはよう。」


「おはよう。」


軽く笑い合う。

その笑みは、どこかぎこちなかった。


杏子はシャツの襟を整えながら、指先を見つめる。


「……まだ、見えるの。」


「何が?」


「もしかして俺の背中が、気に入ったとか?」


杏子は小さく首を振る。


「ううん。それもそうだけど――

 あなたの“色”。消えないの。」


「昨日の夜から、銀と紫がずっと残ってる。

 普通は眠ると消えるのに。」


共感覚――それは感情の残像。

“色”が残るということは、

俺が杏子の中で“消えない構造”になったということ。


「構造が、固定されたのかも。」


「固定?」


「振動が共鳴したまま、止まらなくなってる。」


杏子は小さく笑う。


「つまり……恋ってこと?」


「物理的には、そう解釈できます。」


「……もう、そういう言い方、ずるいのよ。」


時が止まるような長いキス。

その表情は“死”の静けさを纏うほど、美しかった。



杏子はセージグリーンのミニクーパークラブマンへ乗り込み、

エンジンをかけた。白い蒸気が静かに立ちのぼる。


「――また、夜に。」


その一言だけ残して、車は軽やかに走り去った。


排気の匂いが消えたあとも、

俺の中では、あの“波”がまだ続いていた。


「……あんたを断れる男はいない。」


呟いた瞬間、自分でも驚くほど自然に言葉が落ちた。


――共鳴。


その言葉は、潮風よりも静かに空気へ溶けた。





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