第12章 バーティカル・リミット
りんかい線が海底トンネルをくぐる。
金属の軋みが低く鳴り、窓の外で光の泡が流れた。
品川湾の光が爆ぜる。潮と鉄の匂い。街の骨格が露わになる。
都立工科芸術高専――通称「バウハウス」。
工学・建築・デザイン・化学が同居する、奇妙に整った坩堝。
制服はないが、襟付きとジャケットが暗黙のドレスコードだ。
震災特例で四年次に編入した俺は、初日から健康診断だった。
⸻
体育館。
白衣、簡易ブース、心電計のビープ音。
言われるまま上着を脱ぐ。
俺の体は細くはない。だが、どこにも無駄がない。
ジムで膨らませた筋肉でも、スイマーのような流線でもない。
ノミで削り出したようなシャープな線が、肩甲骨の可動に合わせて這う。
計測値を確認していた医師の手が止まった。
「……体重、九十? 見た目は七十あるかどうかだぞ。骨に金属でも入ってるのか?」
「似たようなものです。」肩をすくめる。
視力検査。左2.4、右2.4。
心電図。モニターの波形が一瞬だけ迷う。
「二十七回。もう一度。」
心拍カウントを取り直して、二十八。医師が小さく笑う。
「サソリみたいだな。無駄がない。」
その言葉が金属音のように空気を裂いた。
俺は、わずかに口角を上げる。――上出来。
⸻
診断を終えて体育館を出ると、如月 蜜が待っていた。
どこか異国の血を思わせる、エキゾチックな美人だ。
ジャニス・ジョプリンのような丸眼鏡が、そのクールな印象を少し柔らげている。
黒のサブリナ、細長い首を強調するグレーのマオカラーのミリタリー調ショートジャケット。
ヒールの音が、廊下に正確なリズムを刻む。
女オタクの俺の審美眼(evil eye)で測るなら――
身長173センチ、B88・W60・H88。
しなやかな腰から脚にかけてのラインは、まるでアシナガバチの造形だった。
「萬尾くん、研究棟を案内するわ。設備の使用は明日から。今日は安全講習だけ。」
応用化学の専任で、デザイン学科も兼任。フェンシング部の顧問でもある。
道すがら、試作ドローンの骨組みとスチールチェアが同じ視界に並ぶ。
理と美が、何事もなく隣り合っていた。
「女子は多いの。特にデザインは三分の二。だから――フェンシング部がやけに盛ん。」
「勧誘、というやつですか。」
「あなたの脚捌きなら、ね。」
コブラみたいに軽口が出る自分に気づく。
――虫しか友達のなかった俺の、氷が解けていく音がした。
⸻
体育館。
金属の擦れる音と、一定のフットワークの拍。
白い防具の列が、建築図面みたいに正確に動いている。
「中に全国レベルもいるわ。」
「見ればわかります。確かに全国レベルの美人がいますね。」
「へえっ、どうして分かるの?笑」
「希望的観測と言いたいですが、生き物ってのは同じ周波数の中でしか生きられない。
先生が先生なら、教え子もまた全国レベルでしょ。」
視線の先に、光の芯。
彼女は面を外し、軽く首を振った。
亜麻色のショートヘアが柔らかく揺れる。
鳶色の瞳が、まっすぐに俺を捉える。
光を受けた輪郭が、一瞬淡く発光して見えた。
透けるような白い肌。
唇だけが朱を差したように鮮やか。
軽いアルビノに見えるが、
背筋の伸び方が、その体幹の強さを物語っていた。
剣の先が床を叩き、金属音が尾を引いた。
体育館の空気が、一瞬止まる。
“音→無音→重力の落下”。
時間が垂直に落ちていく。
「バーティカルリミットだ。」
俺は如月先生に軽くサムズアップしてみせた。
「要 杏子です。五年。――新入りさん?」
「萬尾です。転入したばかりです。」
杏子の視線が、俺の背線をじっくりとなぞる。
造形を“読む”眼だ。
「背中、見せてもらってもいいでしょうか。」
「それは、俺に前を向くなと言う意味ですか?」
杏子の頬がわずかに熱を帯びる。
それを隠すように蜜へ軽くうなずき、剣を構えた。
前足が、半歩だけ滑る。
俺を試すための“探り”の動き。
世界が、わずかに遅くなった。
呼吸、重心、剣の起点――
杏子の動きが線として見える。
次の瞬間、体が勝手に動いた。
杏子と同じ角度、同じ速度で構えを写す。
重心の置き方も、肩の流れも、剣の傾斜も鏡のように一致していた。
杏子の瞳が揺れる。
フェイントを完全に読まれた者の反応。
「……なるほど。」
面を軽く上げ、呼吸を整えて言う。
「今度、ぜひお手合わせ願えますか。」
「こちらこそ。
……あなたを断れる男はいませんよ。」
蜜が小さく吹き出す。「杏子、威圧しないの。」
「失礼しました。」
だが杏子の瞳は最後まで俺を追っていた。
如月先生が丸眼鏡の奥で興味深そうに笑った。
「萬尾くん、あなたはスタイルとか姿勢じゃないのよ。」
指先で空に、フルーレの軌道を細く描く。
「動けばそれが技になる。」
その言葉だけが、静かに空気を切った。
「この境地に達する学生なんて、本来はいないわ。
……もっとも、例外がひとりだけいたけれど。」
それ以上語らず、如月は視線を戻す。
「やっぱり、あなたはウチに来るべきだわ。
フェンシング部にね。」
⸻
外に出ると潮風。午後の陽が白く滲む。
ポケットの中で指を折り曲げ、可動と反応の角度を確かめる。
数字は、わずかに上がっている。
――バーティカル・リミット。
虚勢じゃない。事実の確認だ。
この女たちが、俺の“生存構造”を書き換える。
そんな予感だけが、やけに鮮明だった




