花房主水でございます。その11
主水が帰宅すると、
応接室から母の笑い声が聞こえてきた。
母が「ダイヤモンド・プリンセス」から戻って以来、
初めての来客だった。
——珍しいな。
擦り寄ってきた猫の頭を軽く撫でると、
主水はキッチンで玉露を淹れる。
湯を冷まし、茶葉を開かせる。
二人分。
湯呑みを盆に乗せ、
応接室の内線を軽く押した。
返事はない。
主水はそのまま扉を開けた。
二十畳ほどの応接室。
母の向かいに、
見覚えのある女が座っていた。
長い黒髪。
細くしなやかな身体。
着痩せするタイプだろう。
黒のワンピースに、
小さなアメジストの首飾り。
紫の石が胸元で静かに光っている。
主水の脳裏に、
銀座のサロンの光景が浮かんだ。
地下の静かな部屋。
中央に据えられた巨大なアメジストドーム。
あの紫の洞窟の中で、
モンドは瞑想していた。
——偶然か。
それとも。
主水は何も言わず、
玉露を差し出した。
女はベンチから静かに立ち上がる。
「お邪魔しておりますわ」
鈴を転がすような声で、
優雅に会釈した。
主水は盆をテーブルに置く。
母が楽しそうに言う。
「紹介するわ。
橘律子さん。
ダイヤモンド・プリンセスで知り合ったの」
少し間を置き、
「そしてこちらが、
主水。不肖の息子です」
主水は軽く会釈する。
「花房主水です」
玉露を差し出す。
その動作は、
どこか儀式のように無駄がない。
母が首を傾げた。
「あら。
二人は知り合いなのかしら?」
律子が微笑む。
「ええ。
先日、銀座のサロンにお越しになって」
主水は小さく頷いた。
「立花一さんの関係者ですか?」
律子はくすりと笑う。
「うちは柑橘の“橘”ですので」
「立花とは“タチバナ違い”ですわ」
少しだけ目を細める。
「もっとも——
遠い縁戚ではありますけれど」
母が嬉しそうに言った。
「律子さんは経営コンサルタントなの。
パリ大学でしたわよね?」
「ええ。心理学専攻でした」
主水は苦笑する。
「何だか、お見合いみたいですね」
母はあっさり言った。
「ええ。
サプライズだけど、そのつもり」
三人それぞれの調子で笑みがこぼれた。
相変わらず自由人というか——
我が母ながら食えない御仁だ。
「確か律子さんのお父様は、神社関係のお仕事をされていたのかしら」
「ええ。
私だけ、一族の中でも跳ねっ返りでして。
好き勝手しておりますの」
「うちの“ビッグキャット”もそうですよ」
主水が言うと、
ドアの隙間から猫のランスロットが顔を覗かせた。
「ミャア」
まるで会話に加わるように鳴いた。
律子は静かに湯呑みを持ち上げた。
主水は小さく息をついた。
——どうやら、
まだ話は続くらしい。
花房主水でございます(完)




