花房主水でございます。その10
「花房さん、どうぞ」
名を呼ばれ、主水は静かに立ち上がった。
立花に紹介された銀座のサロン。
「一度、体験しておくといい」
そう言われただけだった。
待合のソファから一歩踏み出す。
奥の部屋から男が出てくる。
満足げな表情。
いや――違う。
あれは、確認した顔だ。
目が合う。
男はわずかに顎を引く。
主水も同じだけ応じる。
言葉はない。
だが理解している。
この場所は、単なる瞑想サロンではない。
男は静かに去っていく。
背中は軽い。
――帰還者。
既視感。
武漢。
銀髪の少年。
萬尾。
……いや。
今は、安樂蘭か。
一瞬、視線が交差する。
わずかに顎が動く。
それだけ。
主水は奥へ進んだ。
部屋は、神社を思わせる静寂に包まれている。
紫の光を宿す巨大なアメジストドーム。
人が一人、すっぽり入れるほどの大きさ。
その前に置かれた奇妙な椅子。
Z字断面。
座面だけが結晶内部へ差し込まれている。
「フェードイン」
古いロボットアニメを思い出しながら、主水は呟く。
腰を下ろす。
上半身が紫の結晶に包まれる。
ヘッドフォンが渡される。
左右から入った音が、
やがて頭蓋の奥で一つになる。
GAAFAの幹部が行うという瞑想。
パフォーマンス最適化。
脳波安定。
感情ノイズの除去。
その延長に過ぎない。
――そう思っていた。
紫の光が、ゆっくりと暗転する。
立花の父。
まほろば。
日米合同委員会。
そして、父。
点は、すでに線になっている。
「まあ、いいさ」
音の波の中で主水は呟く。
俺は、俺の意思で戦う。
それが弔いになるなら、それでいい。
紫が完全に消える。
次の瞬間。
意識が肉体を離れた。
天井から見下ろす。
結晶の中で座る男。
迷いはない。
花房主水。
もう誰の駒でもない。
静かに意識が戻る。
目を開く。
世界は何も変わっていない。
だが、
確かに何かが始まっている。
選んだのは俺だ。
それでいい。
花房主水。
静かに、世界の側へ立つ。




