第10章 罪と罰
海が、唸っていた。
ゴゴゴ……という地鳴り。
アスファルトが裂け、空気が歪む。
──地震だ。
朝から続いていた微震が、まるで俺の神経と**同期**するように響いていた。
普通の人間なら立っていられない揺れだが、光一はかろうじてバランスを保っていた。
俺は静かに息を吸い、口の奥に熱を集める。
右の肺から左へ――蠍毒の蒸気が循環する。
「……終わりだ。」
吐息を放つ。
風は関係ない。
静電誘導によって、俺を中心に半径2.5メートルの空気層が毒化領域に変わる。
触れたものはすべて、遅れて痺れ、沈む。
光一の瞳がぶれた。
空中の“何か”を恐れるように拳を振り回す。
幻視――神経毒による錯乱だ。
俺は一歩、踏み込む。
左のリードストレート。顎の骨が変形する感触。
続けざまにショベルフック。
光一の100キロ近い巨体が、40センチ宙に浮いた。
地面に叩きつけられた瞬間、血が逆流する音がした。
内臓破裂。──長くは持つまい。
⸻
背後で雄一が吠える。
「マオォ、てめぇぇッ!」
振り向かず、右腕を首越しにまわす。
小指の先端が紫に光る。
瞬間――毒が射出された。
霧のような毒霧が雄一の目を焼く。
絶叫が夜気を裂き、地面に転げ回る。
──失明は免れない。
残るは一人。
黒いオーラを纏ったサングラスの男。
ベレッタの金属音。
世界がスローに切り替わる。
俺の視界では、弾道の線と筋肉の収縮角度が数式として展開されていた。
足元の小石を拾い、投げる。
反射計算通り、男の右手を弾く。
銃声が遅れて響き、弾丸は空を切った。
一歩で距離を詰め、指先を突き出す。
紫の霧が彼の顔を包んだ。
獣のような悲鳴。
サングラスが落ち、涙に濡れた眼球が紫に染まる。
──鼻腔から吸収される、ジャイアント・デスストーカーの凝縮毒。
即効性は完璧だ。
⸻
四分後、揺れが止んだ。
港の灯がちらつき、遠くでサイレンが鳴っている。
俺はゆっくりと歩き出す。
三人とも、意識はあるが動けない。
毒が神経信号を遮断している。
眼だけが、俺を見ていた。
俺はしゃがみ、静かに彼らの所持品を漁る。
財布から紙幣と免許証。
光一の腕からロレックス・シードゥエラーを外し、
雄一の腕からはオールプラチナのデイトナを抜く。
シリアルを確認――岩野とトレードしたものではない。
わずかに安堵。
携帯は海へ放り投げた。
雄一の上着ポケットから、BMWのキーを取り出す。
ロータリーに停まっている白いX5。
沖の波が、不自然に盛り上がっていた。
津波が来る。
三十分もすれば、この一帯は海に沈む。
だが俺の胸に、迷いはなかった。
⸻
俺の曽祖父は、満州赤十字の医師だった。
敗戦後、引き揚げ船で日本に戻り、北九州の奪胎保養所に勤めた。
“人の形をした地獄”を、毎日のように見たという。
彼はこう言った。
「魂の退化した者ども。」
俺は、その血を引いている。
連中が俺を狙うなら――津波に呑まれるのは、魂の救済だ。
⸻
潮の匂いが、鉄の味に変わっていく。
俺は無言で立ち上がり、海を見た。
水平線が歪み、白波の壁がこちらに迫る。
X5のトランクを開けると、現金の詰まったボストンバッグが見えた。
ずしりと重い。
中の札束をグレゴリーの大型デイパックに移し替える。
グレゴリーがパンパンになった。
“迷惑料”としては、悪くない。
駅前の駐輪場。
アウトドア仕様の自転車のチェーンを素手で引きちぎり、デイパックを背負う。
「知っているか?、最も危険なゲームとは命を賭したゲームだという事を。」
波が三人を飲み込むのを見届けると、静かにマウンテンバイクのペダルを踏み込んだ。
原発はこの先だ。
もし炉心がやられれば、いわきの海は終わる。
八キロ先――自宅の古民家を目指す。
街灯が落ち、信号が消え、
遠くの空が一瞬だけ、紫に光った。
その光の中で、俺は確かに聞いた。
エリックサティ「ジムノペティ」の旋律を
そして蠍の鼓動が、
再び世界の音と**同期**する音を。
ミッション・コンプリート。
第一部 完




