花房主水でございます その5
――回想
主水は中学卒業までの八年間を、父の仕事の都合で
カナダ・モントリオールで過ごした。
フランス語圏。
1976年にオリンピックが開かれた街。
石畳と乾いた寒気。
日系企業の拠点も点在している。
カナダの中学は六月に終わる。
主水は一足早く、母と二人で帰国した。
高校入学は翌年四月。
内申はない。
公立では選択肢が限られる。
私立なら、数ヶ月の評価でも受け入れる。
主水は地元の公立中学に編入した。
湿度が高い。
空気が重い。
日本は、少し狭かった。
騒がない。
観察する。
やがて進学先が決まる。
自宅から直線距離で六キロ。
中野区の私大附属男子校。
芸能人が通うことで知られる高校だった。
電車で一時間。
自転車で三十分。
スキー部がある。
それで十分だった。
帰国子女枠はない。
だが多少の下駄は履かせてもらえる。
フランス訛りの英語を流暢に話す主水には、それで足りた。
秋、父も帰国した。
千代田区の本社。
大手メーカーの執行役員・法務部長。
弁護士であり、弁理士。
そして空手の国際指導者。
一見、穏やかな実務家。
だが主水は知っている。
この手の男が、一番やばい。
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主水はライフル射撃部に入った。
スキー部は冬から初春。
それ以外は脚を鍛える。
片道六キロ。
雨の日以外は電車に乗らない。
四十分。
三十五分。
三十分。
やがてリュックに五キロのウェイトを入れた。
湿った東京の朝。
肺が焼ける。
呼吸は一定。
視線は水平。
足音は消す。
でもスニーカーの減りは早い。笑。
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放課後は空手道場。
父の知人が主宰する、少し変わった流派だった。
相手が「来る」と思った瞬間、終わる。
まるでマジックだ。
実は人間の認知には僅かなタイムラグがある。
0.5秒前の出来事を今として感じている。
目で見て認識する、そして動くまで、ほんの一瞬の空白の連続。
この流派は、その隙間を突く。
先の先を支配する。
そして肩甲骨が締まる。
仙骨が固まる。
身体が一塊になる。
ジャブはストレートに。
ストレートはカウンターのように。
一見何でもないような打撃が、やたらと重い。
まるで交通事故のようだ、と言われた。
距離が近すぎても、それは来る。
見えない。
内臓を揺さぶり、深く浸透する。
技の名前など、どうでもいい。
効けばいい。
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ある夏、父に連れられてフィリピンへ行った。
湿った空気。
火薬の匂い。
簡素な屋外射撃場。
父は拳銃を渡した。
「撃て。」
反動が来る。
だが崩れない。
「肩甲骨を使え。」
もう一発。
背中で受ける。
銃口が跳ねない。
父は言った。
「打撃と同じだ。」
それだけだった。
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後になって分かった。
あの空手は、格闘技ではない。
生き残るための最適解。
そして銃を撃つための
サブウェポン。
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親父は会社員だった。
少なくとも、肩書き上は。
だが。
あの背中を思い出すたび、
主水は考える。
本当に、それだけだったのか。
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高校三年。
八割は内部推薦で進む。
二割が外へ挑む。
主水は条件を満たしていた。
だが、外を選ぶ。
毎年、数人が進む北大。
雪がある。
射撃部がある。
スキー部がある。
それで十分だった。
インターハイ。
スキー、射撃ともに都代表。
入賞はしている。
負けてはいない。
工学部の花形、情報エレクトロニクス。
推薦はない。
工学部で最難関。
敢えて、そこを選んだ。
銃も、通信も、電子だ。
挑むなら、一番硬い場所へ。
北へ行けば、空気はもっと澄んでいる気がした。
主水は迷わなかった。




