3-11 2人の門出
次の日の朝。
果奈は目覚ましが鳴る五分前に、ふっと目を開けた。
天井を見つめたまま、小さく息を吐く。
眠れなかったわけではない。ただ、深くもなかった。
胸の奥に、まだ薄い膜のような不安が残っている。
それでも――今日は行く。
布団から体を起こし、制服に袖を通す。指先は少しだけ冷たいが、震えてはいなかった。
リビングへ向かうと、お母さんの早川郁代が朝食を並べていた。
「今日は学校、行けそうなの?」
手がほんの少しだけ止まっている。
「うん。大丈夫」
そう答えると、お母さんは柔らかく微笑んだ。
「無理はしないのよ」
その一言が、胸の奥にじんわりと広がる。
“行かなきゃ”じゃなくて、“行ってもいい”と言われた気がした。
そこへ、眠そうな弟の早川翔太が現れる。
「ふぁ〜……お姉ちゃん、おはよ。今日は学校?」
「心配してくれてありがとう。うん、行くよ」
そう言うと、翔太は安心したように笑った。
たったそれだけで、果奈の心の奥にあった薄い膜が、少しだけ軽くなる。
玄関で靴を履きながら、深呼吸を一つ。
「行ってきます」
扉を開けると、澄みきった青空が広がっていた。
朝の光がまっすぐ降り注ぎ、思わず目を細める。
眩しい。
でも、今日は目を逸らさなかった。
学校へ向かう途中、いつも駿と別れる場所に差しかかる。
その手前に、人影が立っているのが見えた。
心臓が、一拍だけ強く跳ねる。
近づくにつれ、その姿がはっきりする。
「……駿?」
「おはよう」
少しだけぎこちない笑顔。
「家の前まで行こうかと思ったけど……迷惑かもって思って。ここで待ってた」
「どのくらい?」
「……そんなに」
視線が泳ぐ。
「本当に?」
「二十分くらい」
思わず、笑ってしまう。
「もう、そこまでしなくていいのに」
けれど胸の奥が、温かくなる。
待っていてくれた事実が、何よりも心強い。
「ありがとう」
その言葉に、駿は小さくうなずいた。
⸻学校が近づくにつれ、生徒の数が増えていく。
自然と果奈との間に、少し距離ができる。
駿は何も話さなければ、状況は変わらないと思い、科学の小テストの話を持ち出す。
「そういえば、今日の三時間目、科学の小テストあるけど」
「えっ?」
果奈は目を丸くする。
「聞いてない」
表情が固まる。
その瞬間、果奈が休んでいたことを思い出す。
「大丈夫。難しくないし」
「全然大丈夫じゃない」
果奈は慌ててしまうが、ほっとしたように息を吐く。
いつもの果奈だ。
緊張が、少し溶ける。
教室に入ると、一瞬だけ視線が集まった。
心臓が、どくん、と鳴る。
――来るかもしれない。
問い詰められるかもしれない。
けれど、何も起きなかった。
「果奈〜!」
果奈の友達が駆け寄ってくる。
「会いたかったよ」
「ごめんね、心配かけて」
何も変わっていない。
でも、少しだけ変わった自分が、ここにいる。
自分の席に着くと、直己がにやりと笑い、近づいてくる。
「完全復活だな」
「まぁな」
「先週のお前、世界の終わりみたいな顔してたぞ」
「そんなに?」
「そんなに」
「でも、また元気になって学校来れたし、早川さんと元通りの関係に戻れたから良いじゃん」
「まぁ、そうだな」
教室を見渡す。
果奈が、笑っている。
それだけで、胸の奥の重さが、少し軽くなる。
三時間目、科学の小テスト。
ペンを走らせながら、ふと気になって横目で見る。
果奈は真剣な顔で問題を解いている。
焦る様子はない。
――大丈夫だ。
その姿を見た瞬間、胸の奥がすっと軽くなる。
何かが特別に変わったわけじゃない。
でも、
並んで歩いて、
同じ教室で、
同じテストを受けている。
それだけで十分だった。
窓の外には、朝よりも高く昇った太陽。
影は短くなっている。
完全に元通りではない。
まだ少し、怖さは残っている。
それでも。
今日も隣にいる。
それだけで、前に進める気がした。




