2-8 光と暗雲
その夜、夕飯を終えた駿が風呂に入る準備をしていると、結がどこか落ち着かない様子で声をかけてきた。
「ねえ兄さん」
「なに?」
結は少し迷うように視線を泳がせてから、ぽつりと言う。
「美生姉さん、なんか元気なかったよね」
「……そう?」
「うん。絶対、何かあったと思う」
一瞬、あの時の試合を思い出した。
負けた直後の、美生の背中。
「分からないよ」
そう答えたが、結は納得しなかった。
「兄さん、聞いてきてよ」
「え?」
「良いから!」
何度も否定しても聞いてきてと、言いそうだと察し、仕方なく、帰ろうとする美生のところへと向かう。
「美生、待って!」
「え? 駿君?」
「ちょっと話したくてさ。家まで送るよ」
驚いたように目を瞬かせたあと、美生は小さく笑った。
「駿君が送ってくれるの、久しぶりな気がする」
「そうかも」
「最後に送ってくれたの、二年前かな。不審者が出たって噂の時」
「ああ……あったな」
「結ちゃんが心配だからって、部活サボって来てくれてさ。次の日、顧問に怒られてたよね」
思い出しただけで気恥ずかしい。
中学時代の、忘れたい記憶だ。
「集団下校だったから、正直意味なかったけどな……」
二人で笑う。
懐かしさが、少しだけ空気を和らげた。
やがて、美生の家の近くまで来たところで、足を止める。
「……夕飯の時さ」
「元気なかったけど、何かあった?」
一瞬だけ、美生は驚いた顔をした。
けれどすぐに、力の抜けた表情になる。
「やっぱり、駿君には分かっちゃうか」
少し考えてから、続ける。
「ねえ、あの公園寄ってもいい?」
幼い頃、三人で何度も遊んだ場所だった。
夜の公園は静まり返っていて、ブランコが小さく軋む音だけが響いている。
美生は腰を下ろし、空を見上げたまま話し始めた。
「今日ね、ランキング戦だったの」
「大会メンバーを決めるやつ」
「……結果、ダメだった」
静かに頷く。
「実は、試合見てた」
「黙っててごめん」
「いいよ。見てくれただけで嬉しい」
一拍、間が空く。
「私ね、これを機に部活辞めようと思ってたの」
「……え?」
「将来、パティシエになりたくて」
「そのための勉強もしてるんだけど、結構大変でさ」
淡々と語る声の裏に、悔しさが滲んでいる。
「だから、この試合で結果出なかったら、区切りつけようって決めてた」
少し考えてから口を開く。
「……俺は、反対かな」
「どうして?」
「最後までやり切った経験って、絶対無駄にならないと思う」
「テニスでも、将来の夢でも」
言葉を選びながら、続ける。
「ここで辞めたら、美生が一番後悔する気がしてさ」
「それに……俺は、美生が頑張ってるの、よく分かってるから」
美生は驚いたように目を伏せ、やがて小さく息を吐いた。
「……ありがとう(私って、駿君に支えられてばかりだな…)」
ブランコが、静かに揺れる。
「私、頑張るね」
「うん。悩んだら、また話そう」
公園を後にし、美生の家に着くと、さくらんぼの入った袋を差し出した。
「いっぱい貰っちゃったから、お裾分け」
「結、喜ぶよ」
「よかった。今日は、ありがとうね」
「こっちこそ」
手を振って別れ、一人、帰り道を歩く。
――美生が前を向いたなら。
自分も、逃げてちゃダメだ。
隆二と、ちゃんと話そう。
一日でも早く。
そう決意した瞬間、ぽつり、と頬に冷たいものが落ちた。
雨だった。
予報にはなかったはずの雨は、次第に強くなり、夜を包み込む。
足を速め、濡れながら家へと向かった。
その後、雨はさらに激しさを増し、街は豪雨に沈んでいった。




