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何故、私だけが生き残ったのか

作者: 入多麗夜

実験的に書いた作品です

 あの日、空は晴れていた。


 風はやや強かったが、雨の気配はなく、空は薄く霞がかかったように青い。季節は夏の終わりを迎え、リヴィーナ侯爵家の領地にも早くも秋の気配が滲み始めていた。

 


 侯爵家の屋敷では、昼過ぎから舞踏会の準備が進められていた。

 社交界でも名の知れた名門・ローデリア公爵家主催の夜会――だが今夜の催しには、もうひとつの意味があった。


 それは、エレノア・リヴィーナの婚約記念の場でもあるということ。

 相手は同じく貴族階級に連なる由緒ある伯爵家の嫡男で、侯爵家とは古くからの付き合いがあった。


 このたび両家の婚約が正式に結ばれ、そのお披露目を兼ねて、夜会の一幕として紹介されることになっていた。


 リヴィーナ侯とその夫人、長男エドウィン、そしてエレノアの四人が出席する予定だった舞踏会に向け、屋敷では昼過ぎから準備が進められていた。使用人たちは次々と廊下を行き交い、礼装や贈答品、馬車の手配に至るまで、ひとときも手を止めることがなかった。


 だが、実際に馬車へ乗り込んだのは三人だけだった。


 エレノアは屋敷に残された。


 前夜から体調を崩し、わずかに熱があったのだ。彼女は、母の勧めに従って屋敷に残ることとなった。医師を呼ぶほどではないが、着飾って長時間の移動と夜更けまでの舞踏には耐えられない――そう判断されたのだ。


 午後四時、出発の時刻。家族はエレノアの部屋を訪れ、短い別れの挨拶を交わした。


「夕方には涼しくなるでしょう。喉が渇いたら、温かい紅茶を」


 エレノアはベッドの上から小さく頷いた。


「うん。ごめんね、私だけ行けなくて……」


「いいのよ。身体の方が大事なんだから」


 母はそう言って、枕元の毛布を軽く整えると立ち上がった。隣には父と兄のエドウィンが控えており、それぞれが短い言葉をかけていく。


「留守は任せたぞ、エレノア」


 そう言って軽く手を上げた兄の背には、旅装の黒い上着が揺れていた。


「何かあれば使用人達に遠慮なく言いなさい。夜には戻るつもりだが、気になることがあれば報せてくれ」


 父の声はいつも通り落ち着いていたが、ほんのわずかに鼻声だった。きっと、季節の変わり目で冷えたのだろうと彼女は思った。


 扉が静かに閉まる音がして、館の廊下が静寂に包まれる。エレノアは天井を見つめたまま、薄い毛布を握りしめた。


 窓の外では、蝉の声が細く続いていた。風に揺れる木々の葉が、ざわざわと音を立てている。


 遠くで馬車の車輪が石畳を叩く音がして、やがてそれも消えた。


 夕食の時刻にはまだ早かったが、彼女はしばらくそのまま横になっていた。夢を見たわけでもなく、ただ静かに目を閉じて、過ぎていく時間を待っていた。


  廊下の先では、使用人たちの足音が時折聞こえていた。銀器の支度をする音、暖炉の火をくべる音。どれも日常の延長にある平穏な暮らしだった。


 その音に包まれながら、エレノアはゆっくりと目を閉じた。


 何かを考えるわけでもなかった。ただ、ぼんやりと意識が薄れ、まぶたの裏に淡い光がちらつく。気がつけば、時間の感覚も周囲の音も遠のいていた。


 彼女は、いつの間にか眠っていた。




 ◇




 目を開けると、部屋の空気が微かに変わっていた。


 外はもう、すっかり夜になっていた。窓の外には細く尖った月が浮かび、風に揺れる木の影が、床の上にゆらゆらと伸びている。


 時計を見ようとして、手が止まった。胸の奥に、引っかかるような感覚が残っていた。妙に冷たい空気。静かな館。虫の音が、耳にまとわりつくように響いてくる。


 そのときだった。


 廊下の向こうで、叫び声が上がった。


 何かを呼ぶような女の声。それに重なるように、誰かが慌ただしく階段を駆け降りていく足音。扉が開く音、閉まる音、何かが倒れるような音――。


 扉の外で何人もの声が重なり始める。使用人たちのものらしい、低く、焦りを隠しきれない声


「本当なのか……?」

「橋が……信じられない……」

「使いを出して……すぐに、誰か、馬を――」


 耳に入ってきた単語が、ひとつ、またひとつ、脳裏に引っかかった。


 家族が出かけた先には、谷を越える橋がある。そのことを思い出した瞬間、背筋を冷たいものが這い上がってくるような感覚に包まれた。


 エレノアは、寝台の縁に指をかけたまま、動けずにいた。身体は震えていなかった。けれど、内側から何かがじわじわと崩れていくような不安が、言葉にならないかたちで膨らんでいく。


 やがて、ノックの音がした。


 小さく三回。間を置いて、一度。


 それは、執事が訪ねてくるときの、決まった合図だった。


  扉の向こうに気配を感じながら、エレノアはゆっくりと立ち上がった。床を踏む足先がひどく冷たい。


 取っ手に手をかけ、扉を引く。きぃ、と小さな音を立てて開いた先に立っていたのは、執事のバルドだった。


 年配の男で、いつもは厳格な表情を崩さない彼の顔が、そのときばかりはひどく青ざめていた。言葉を選んでいるのか、それとも心の整理がついていないのか、ほんの短い間があった。


「……お嬢様、恐れながら、緊急の報せがございます」


 声は平静を装っていたが、わずかに震えていた。


「侯爵様方の馬車が……谷の橋で事故に遭われたとの連絡が、先ほど街道の警備隊より届けられました。現在、詳細は確認中ですが……橋が、崩れたと」


 橋が――崩れた。


 その言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。


 崩れた橋、落ちた馬車、事故。言葉としては理解できる。けれど、それが何を意味するのか、実感が追いつかない。


 エレノアは、扉の前に立ったまま、何も言わなかった。目を逸らすことも、頷くこともせず、ただバルドの顔を見つめていた。


「ご家族が乗っておられた馬車と確認されております。今のところ、現場は騎士隊が封鎖しており、救助隊が向かっているとのことです。ただ――」


 バルドは、ほんの一瞬、視線を落とした。


「事故が起きたのは、深い谷の中腹です。橋の崩落と同時に車体が転落し……火の手も上がったと。現場からは、まだ……遺体の収容は」


 そこまで聞いて、エレノアはふらりと一歩、後ずさった。


 身体に力が入らなかった。支えがなければ、今にもその場に崩れ落ちそうだった。


 家族が乗っていた馬車の黒い車体。兄の上着。母の声。父の鼻声。すべてが、数時間前の穏やかな情景として脳裏に焼きついていた。


 もうこの世にはいない。


 そんな事が理解できるはずがなかった。


 バルドは、そんな彼女を案じし、深く頭を下げた。


「お嬢様、お辛いとは存じますが、これより当館でも対応の準備を進めます。詳細が入り次第、すぐにお伝えいたします。……どうか、少しお休みください」


 彼の言葉に、エレノアはゆっくりと首を横に振った。


 眠れるはずがない。


 橋が崩れた。馬車が落ちた。家族が――。


 頭の中で繰り返すその言葉に、現実味はなかった。どれだけ繰り返しても、実感というものが降りてこない。ただ、その言葉だけが空っぽな心の中で何度も響いていた。


 扉が閉まる音が聞こえ、部屋には静けさが戻る。


 エレノアは、何も言わずにベッドの端に腰を下ろした。両手は膝の上に乗せたまま、視線は床に落ちたまま動かない。


 何も考えていないわけではなかった。けれど、考えても意味がなかった。言葉にできることなど一つもなかった。


 耳に届くのは、かすかな風のすれ違う音と、どこか遠くから聞こえる足音の気配だけだった。


 何も変わらない部屋の中に、家族の存在だけがぽっかりと欠けている。


 誰かが今にも扉を開けて、「ただいま」と言いながら入ってきそうな気がして――それが決して起きないのだと理解するたび、胸の奥がじくじくと痛んだ。


 こみ上げるものを堪えようとしても、声にならない息が漏れた。


「……なんで」


 ぽつりと、言葉が落ちた。誰に向けたわけでもない。ただ、空間に漏れた小さな音。


「なんで……私だけ」


 目元が熱くなった。瞬きをした瞬間、涙が一粒、頬を伝って落ちていく。


 それを皮切りに、次から次へと押し寄せる感情が、堰を切ったようにあふれ出した。


 声は出なかった。けれど、肩が震え、喉が詰まり、ただ静かに、静かに泣いた。 


 床に落ちた涙のしずくが、小さな跡を残して広がっていく。


 誰もいない部屋の中で、エレノアは一人、崩れるように膝を抱えた。


 それは、夢から醒めた後の淡い喪失感とは違う、失ったものの重さに押し潰されるような、圧倒的な孤独だった。




 ◇




 翌朝、屋敷は重苦しい沈黙に包まれていた。


 朝食の用意はされたが、食卓には誰の姿もなかった。


 使用人たちは皆、無言のまま黙々と業務をこなしていた。目を赤くした者、何度も礼を言っては頭を下げる者。だが誰一人として、昨夜の出来事を口に出そうとはしなかった。


 エレノアはその様子を、階段の踊り場から見下ろしていた。


 足元にはまだ、夜も明けぬうちに使者が届けた報せの文が残っている。封蝋は崩れ、手紙の端は震える指のせいでわずかに歪んでいた。


「橋の補修記録には不備があった模様」

「定期点検の報告書が見当たらず」


 読み慣れた書式の中に、理解したくない言葉が散りばめられていた。


 昼過ぎになって、侯爵家と縁のある貴族数家から見舞いの使者が到着した。


 彼らは形式的な言葉を並べながらも、どこか遠巻きにエレノアを見る目をしていた。


「残されたご令嬢には……お気の毒に」


「この先のご処遇については、しかるべき手配がなされることと……」


 失礼ではないが、温度のない声。慰めの言葉が、まるで他人事のように聞こえた。


 ――気の毒な令嬢。


 その目に宿るものが、エレノアにははっきりと分かった。


「ありがとうございます。お気遣い、感謝します」


 そう口にしながらも、胸の奥に膨らんでいくのは、どこにもぶつけようのない無気力感だけだった。


 かつて、彼女の父を「盟友」と呼び、母の主催する茶会に皆勤していた人々が、今日は“残された令嬢”に「お気の毒に」と告げて去っていく。


 侯爵家という後ろ盾が消えた今、彼女の立場は、風の前の灯火だった。


 そしてその事実を、彼らは誰よりもよく知っていた。


 見送った扉が静かに閉まり、エレノアはゆっくりと居間の椅子に腰を下ろした。

 机の上に置かれた手紙に目を落とす。


 差出人は、婚約者の家――フォルデン伯爵家。


 封を切らずとも内容は分かっていた。


 《正式な婚約解消の通知》


 その文面だけが目に浮かぶ。


「処遇、ね……」


 静まり返った部屋に、その言葉だけが取り残される。


 エレノアは指先で封の縁をなぞった。


 破棄される。それは避けようのない結末だった。

 家を支えていた父も、縁を繋いでいた母も、跡を継ぐはずだった兄も、もうこの世にはいない。

 自分だけが残され、たったひとつの家族の証として、この広すぎる館に生きていた。




 ◇



 数日後、午後の陽が西に傾き始めた頃。


 エレノアは、館の奥にある小さな温室へと足を運んでいた。花々の世話は母の習慣だったが、今は誰も手をつけておらず、薄桃色の薔薇が枝先で静かに揺れている。


 その中に、ひとりの女性の姿があった。


「……クラリス?」


 振り返ったその人影は、長い栗色の髪を緩く結い、落ち着いた深緑のドレスを身にまとっていた。彼女の名を呼んだ瞬間、胸の奥が痛んだ。


「……来てくれたのね」


 クラリスは微笑もうとしたが、それはどこか形の崩れたものだった。


「当然でしょう、エレノア。あなたに会いたかった。……それに、私だって、エドワードの婚約者だったのよ。こんなことで何も言わずにいるなんて、できるはずないわ」


 その名を聞いた瞬間、エレノアは視線を落とした。


 エドワード。兄の名を誰かの口から聞いたのは、あの夜以来だった。


「……ごめんなさい。来てくれるのは、嬉しい。でも……どう話せばいいか、わからないの」


「無理に話さなくていいの。何も言わなくても、私はここにいるから……」


 クラリスは、そっと彼女の隣に腰を下ろし、何も言わずに寄り添った。


 部屋の空気は静まり返っていた。窓から射し込む初秋の陽光が、淡く色褪せたカーテン越しに差し込み、床に柔らかな影を落としている。


「……みんな、あんなに元気だったのに。朝には、普通に笑って……」


 言葉はすぐには続かなかった。けれど、それでも何かを伝えようとするように、彼女はかすかに唇を震わせた。


 クラリスは、ゆっくりとエレノアの手を取った。指先は冷たく、力がこもっていなかった。


「……まだ、信じられないのよ。私も」


 言葉を選ぶように間を置きながら、彼女は続けた。


「エドワードが、いなくなったなんて。あなたのお父様も、お母様も……侯爵家が、もう戻らない場所になってしまったなんて」


 そこまで言って、クラリスは少しだけ顔を伏せた。


「私、あなたと同じくらい、この家が好きだったの。エドワードと将来の話をしたとき、この家であなたと一緒に過ごせるのが嬉しいって、何度も思ってた」


 握った手を、少しだけ強くする。


「だから……あなたが今、どんなに苦しいか、全部は分からなくても……そばにはいたいって、そう思ったの。許してくれる?」


 そこには、長く友人として過ごしてきた者の、真っ直ぐな思いだけがそこにあった。


 エレノアは、わずかに目を伏せたまま、かすかに頷いた。


「……ありがとう、クラリス」


 クラリスは、なにも言わずにうなずいた。ただ、そっと握った手を緩めずにいた。


 外では、風が揺れた枝葉をすり抜け、微かな音を連れてくる。夏の名残と秋の気配が交じり合う静かな午後、誰もいない温室の中で、ふたりはただ、寄り添うように座っていた。





 ◇




 夕刻、クラリスが屋敷を後にしてからも、エレノアは温室の中に残っていた。


 閉じかけた薔薇の蕾を指先でそっとなぞりながら、彼女は静かに目を閉じた。


 ――私だけが生き残った。


  その思いが、じわりと胸に滲んだ。


 けれど、心の内に渦巻いていたのは悲しみだけではない。


 失ったものの重さに潰されそうになりながらも、心の底に、澱のように沈んでいたもの――それは、理不尽さだった。


 どうして、あのとき自分だけが屋敷に残されたのか。


 どうして、家族全員があの夜、同じ馬車に乗ったのか。


 そして、なぜ橋は崩れたのか。


 誰かの過失か、あるいは不運だったのか。それとも――


 考えても答えの出ない問いが、ひとつ、またひとつと胸に突き刺さっていく。


 ただの事故だったと、信じたい気持ちもある。

 けれど、それ以上に心のどこかが告げていた。

 ――違う、と。


  予感に似たざわめきが彼女の内側で広がっていく。

 偶然とは思えない何かがあったのではないか、と。


 それでも、まだ確かな証拠があるわけではない。あるのは、いくつかの違和感と、拭えない疑問だけ。


 ならば、自分の目で確かめるしかない――。

 真実がどんなものであれ、向き合わなければならない。


 そうでなければ、家族を失った理由に、永遠に届かない気がした。




 ◇

 



 リヴィーナ侯爵家の事故から三週間が経った頃、ローデリア公爵家の御者頭が、町の安宿で首を吊って死んでいた。


 遺された遺書には、こう記されていた。


 《あの橋は崩れるよう仕組まれていた。当主の命令だった。今でも申し訳ないと思っている。どうか許してほしい》


 そして、その署名の横には――フォルデン伯爵家の執事、ハロルド・エインズワースの名が記されていた。


 この一枚の遺書が、すべての糸口となった。


 遺書は、警備隊から王都の記録局へと即時送付されたが、その動きを最も早く察知したのは、リヴィーナ侯爵家の執事のバルドだった。


「……これは、偶然ではないですな」


 深夜の執務室、蝋燭の灯の下で書状を読み終えた彼は、エレノアの前でそう言い切った。


「お嬢様。ご当主方の事故を、“橋の老朽化”で片付けようとした者たちがいます。だが、御者頭の遺書は――確実に、意図的なものだったことを裏付けています」


 バルドの誠実さと沈着さは家中の誰もが認めていたが、このときばかりは、その瞳に燃えるような闘志が宿っていた。


「……私にお任せいただけますか。徹底的に追います。亡きご当主方の無念、決して無駄には致しません」


 エレノアは、静かに頷いた。


「お願い、バルド。私は……家族を奪った者を、許したくはない」


 そこからの数日は、まさに執念だった。


 使用人や従者の証言は、ひとつずつ丁寧に集められた。事故の直前、なぜか点検担当が変更されていた記録。馬車の整備を請け負った職人の帳簿。橋の補修を請け負った技師が突然姿を消していた事実――。


 そして、浮かび上がってきた中心人物は――


 フォルデン伯爵家の当主、ギルベルト・フォルデンその人だった。


 彼の筆跡による文書が、王都の書記局に保管されていた商業契約の控えから見つかった。橋の修繕に関わる予算変更の指示、整備工の派遣取り消し、事故当日の馬車運行スケジュールの変更命令――それらすべてに、彼の署名があった。


 しかも、その直後に提出された「婚約破棄の正式通達」。事故が起こる前日の日付で発送され、当日に届くような段取りになっていた。それはまるで――家族の死を予期していたかのような、異常なまでに不自然な段取りだった。


 執事バルドは、震える指でその書類の束を閉じると、静かに言った。


「これは……そういう事です。お嬢様」


「ええ。――確定ね」


 エレノアは、冷たく答えた。


「ギルベルト・フォルデン。私の家族を殺したのは、あの男よ」


 それからは早かった。


 王城に正式な告発が提出され、監察院が動き、王直属の騎士団が捜査に乗り出した。


 ギルベルト伯爵は貴族議会での影響力を盾に反論を試みたが、遺書、帳簿、複数の証言、そして婚約破棄文書の日付という決定的な証拠により、完全に追い詰められた。


 そして、審問の場で詰め寄られたとき、ついに――


「……侯爵家は、あまりに大きくなりすぎた。どのみち、あの娘にあの地は継げなかったのだ」


 その一言が、全てを終わらせた。


 審問官の一人が静かに告げる。


「つまり、領地を奪うために、一家を“排除”したと。そう理解してよろしいのですな?」


 ギルベルトの顔が、凍りついた。


 その後、王命が下された。


「フォルデン伯爵家、これをもって爵位を剥奪、全資産の没収、領地は王領とする。当主ギルベルトは反逆罪により幽閉。関与した家臣は全員、断罪せよ」


 王命が読み上げられたその瞬間、傍聴席がどよめいた。


 だが、ただ一人、エレノアだけは動じなかった。


 静かに立ち上がり、玉座の間の中央で一礼する。


「……罪なき者の命を奪い、誇りある家を踏み躙り、未来を奪った者に、哀れみを向ける理由はありません。私は、侯爵家の名において、あなたを――絶対に許さない」


声は震えていた。涙が頬をつたってこぼれ落ちても、彼女は言葉を止めなかった。


目元は赤く染まり、唇はかすかに歪んでいた。それでも、真っ直ぐに前を見据えるその瞳には、深い悲しみと、消えることのない憎しみが宿っていた。


こうして、罪は裁かれ、復讐は果たされたのだった。







 王都での審問から数日が経ち、エレノアは一時的にリヴィーナの屋敷へ戻っていた。


 事件は終わった。けれど、心のなかで何かが終わったわけではなかった。


 空は澄んでいた。秋の風が、白いカーテンを静かに揺らしていた。


 その日、久しぶりに屋敷を訪ねてきた人影があった。


「……クラリス」


 扉を開けた先にいたのは、深緑の外套に身を包んだクラリスだった。

 以前と変わらない穏やかな眼差しで、けれどどこか、以前よりも少しだけ強くなったような、そんな印象を与えた。


「やっと……やっと会えたわね、エレノア」


 その声に、エレノアの張りつめていた心の糸が緩む。


 二人は廊下を抜け、温室の奥の長椅子へと並んで腰を下ろした。


 外では風が梢を揺らし、薄桃色の薔薇が静かに揺れていた。温室の中は、外気よりもわずかに暖かく、しんとした静寂に満ちている。


 クラリスの家――ヴァンブレッド侯爵家は、フォルデン伯爵家の逮捕において、大きな働きを見せた。

 政治的な駆け引き、証拠の精査、議会派閥への根回し。王命に従いながらも、あくまで独立した立場から調査に協力し、複数の貴族が沈黙するなかで唯一、名を出して証言に加わった。


 彼らの協力がなければ、真実は闇に葬られていただろう。


 クラリスの家が動いたからこそ、王都の審問は成立し、フォルデン伯爵家の罪は法のもとに引きずり出された。


 外では風が梢を揺らし、ガラス越しの薔薇がまたひとつ、静かに揺れた。

 その柔らかな葉の動きに目をやりながら、クラリスがそっと口を開いた。


「ねえ、これからどうするの?」


 すべてを終えた今、何を選び、どこへ向かうのか――


 エレノアは、しばらく何も言わなかった。

 指先で蕾に触れながら、視線を遠くに向ける。


「……まだ、決めてないわ。でも――」


 指先に残る蕾の感触を確かめるように、エレノアは言葉を継いだ。


「このまま終わらせたくないの。家族のことも、この家のことも。何かを残したいと思ってる」


 クラリスは小さく頷いた。


「……それでいいと思う。あなたがいる限り、この家は続いていくわ」


「それで……あなたはどうするのよ、クラリス」

 


 クラリスは、少しだけ視線を落とした。

 答えを探しているというよりも、すでに胸の内にあったものを、どう言葉にすべきか迷っているようだった。


「……私は、戻るわ。父のもとへ。ヴァンブレッド家も、これから立場が問われる。審問で動いた分の代償は、必ず来るから」


 そう言って、彼女はエレノアの手を取った。


「でも、必要ならまた来る。遠くにいても、私はあなたの味方よ。それだけは、忘れないで」


 言葉では言い尽くせないものが、そこにはあった。

 過去を背負いながら、それでも前へ進もうとする者たちの、揺るがない絆が。


 やがて、クラリスは立ち上がった。

 背筋を伸ばし、迷いのない足取りで温室をあとにする。


 扉が静かに閉まり、再び訪れた静けさの中に、わずかな余熱のようなものが残った。


 エレノアは、ひとりベンチに座ったまま、揺れる薔薇を見つめていた。


 手入れの途絶えた温室で、それでも咲こうとする花が、風にかすかに揺れている。


 崩れたものは戻らない。けれど、残されたものは確かにここにある。


 エレノアは、そっと立ち上がった。

 歩き出す先に、微かに光が差していた。

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