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選択の隙間

机の上には、使い切ったクレジットカードの明細が無造作に積み重なっていた。新品の腕時計、高級レストランの領収書、通販で買ったデザイナーズ家具の納品書。それらが紙の束の隙間に、まるで何かの隠し事のように紛れている。


だが、最初から金を無造作に使っていたわけじゃない。異常なまでに慎重だった。毎回、ほんの少しだけ買い物をしては、自分の身体に変化がないかを確かめていた。目の下のクマは増えていないか、疲労感は強くなっていないか、鏡の前で何度も自分を観察した。


「こんな金が使えるなんて、信じられない」


そんな呟きとともに、胸の奥がざわついた。



気づけば、金遣いは生活の隙間を埋めるようになっていた。最初は「様子見」のつもりだった。だが、使っても体に異変は起きない。加齢の兆しもない。それがわかると、あれほど固く構えていた警戒心は、音もなくほどけていった。

“少し高いもの”や“ちょっと良いもの”が、まるで最初からそうだったかのように、日常に馴染んでいく。


作り置きのおかずを作ることもなくなり、そのほとんどが外食に変わった。夜ご飯の残りや余ったおかずだけが詰まった弁当箱は見ることがなくなりキッチンは手を洗うだけの無機質な空間へと変わっていった。出勤前に立ち寄るのは駅前のカフェになった。

ラテアートの揺らぎ、豆の産地の説明、木製カウンターの質感。店員と交わす小さな挨拶さえ、すべてが“選ばれた空間”であることを教えてくれる。

そんな場所にいる自分こそが、“本来の自分”なのだと、そう感じるようになった。



そんな、なんのリスクもないただ金のある生活は、思った以上に早く変わっていった。


昼休み、会社の近くのカフェでランチをしていたとき、隣に座った同期の藤井が目を丸くして俺を見た。


「速水さーなんか最近、羽振りよくね? そのジャケット、どこの?」


「ん? あー、副業だよ副業。ちょっとだけ、波が来ててさ、これは古着!安モンだよ安モン」


曖昧に笑ってごまかす。彼はそれ以上は突っ込んでこなかったけど、どこか引っかかったような目をしていた。以前の俺なら、こんな洒落たカフェに同期と一緒に入ることすら気後れしていたと思う。でも今は、こういう場所が“自分に似合う”とどこかで思っている。


髪は少しだけ整えた。美容師のすすめでワックスも使うようになった。シャツもアイロンがけされたようにピシッとしていて、靴はツヤのある革靴。誰かに言われたわけじゃない。金があると、自然と身なりにも気が回る。今まで見過ごしていた“自分”が、急に輪郭を持ち始めた気がする。


「え、なんか速水さん、かっこよくなりましたね」


後輩の女の子から、そんなことを言われたのは、人生で初めてだった。冗談かと思ったけど、彼女の視線は本気だった。前は会話の端っこにいるだけだった俺に、最近はよく話しかけてくる。ランチに誘われることもある。


「ちょっと話してると落ち着くっていうか……安心するんですよね」


そう言われたとき、自分が“そういうポジション”にいることに戸惑いながらも、悪い気はしなかった。


夜、ひとりで家に帰っても、部屋は整っていて、照明は間接光。通販で買ったアロマディフューザーが静かに香りを立てていた。スピーカーからはジャズが流れ、冷蔵庫には輸入ビール。こんな生活をしている自分を、どこか他人事のように見つめながらも、ふと思う。


「……これ、もともと俺の金だったんじゃないのか?」


銀行の口座には、相変わらずとんでもない額が眠っている。でも、最近はそれを“異常”とは思わなくなってきている。だって、誰にも咎められない。むしろ、金を使うことで自分の人生は回り始めている。前よりも堂々と歩けるし、人と目を合わせるのが怖くない。鏡に映る自分も、前より少しだけ頼もしく見える。


金があるだけで、人は変われる。

世界がやさしくなっていく。


この金は、もともと俺の人生にふさわしかったんじゃないか?

その証拠に、俺はこんなにうまくやれてる。


そんなふうに思い込むには、もう十分すぎる現実だった。



翌朝出社するとオープンスペースからこちらに向かって手招きする白井先輩へ近づく。

「最近調子のいい速水くんじゃーん。

何か飲む?って言おうと思ったんだけど…安物のコーヒーはもう飲めないか」

白井先輩がつぶやいた。

自販機の前で紙コップを振りながら、気だるげに笑う。


「ああ……いえ、そういうわけでは」

自分でも驚くほど、間の抜けた声が出た。


「速水くん知ってる?クリアブラック、定番化したんだってよ。ま、知らないわけないか。」


「…え、あ、あぁ。はい。まぁ。」

言われるまで気が付かなかった。

気づかないほど、変わっていたということだ。

不思議と後ろめたさはなかった。

むしろ「もう戻れないのかもしれない」という感覚が、なぜか心地よかった。



今日はどこで朝活をしようかと考えているとふと昨日の白井先輩の言葉を思い出した。

あの人が悪気なく言った何気ない一言が、じんわりと胸の奥に残っていた。


あの味、あの香り。

長く自分の朝に寄り添っていたコーヒー。限定メニューだったクリアブラックは定番化したらしい。

久しぶりに駅前のコンビニに寄ってみた。


扉を開けた瞬間、ほんの少しだけ空気の質が違うように感じた。明るい蛍光灯の光、ぬるい空調の風、棚の並び。全部、前と同じなのに、どこか記憶の中より「軽い」気がする。

レジに目をやると、いつもいた眠そうな外国人の店員の姿がなかった。

毎朝、ろくに目を開けないまま「アリガトゴザイマス」と言っていた、あの青年だ。


「あれ……」

思わず声が出る。


代わりに立っていたのは、若い日本人の女性店員だった。愛想はいいが、どこかマニュアル通りの笑顔を貼りつけたような印象。この時間帯はワンオペのはずなのに。

いつから変わったんだろう。俺、そんなにここに来てなかったのか。

ふと、自分の生活が“何か”から大きくズレてしまったような感覚がした。


クリアブラックを手に取り、セルフレジで精算した。

飲んでみると、やっぱり味は変わっていなかった。苦くて、冷たくて、慣れたはずの喉越し。

でももう、あの頃みたいに「これで十分」と思えなかった。

これは、「我慢していた頃の味」だ。


飲みきる前に、近くのゴミ箱に捨てた。

思い出にすがるような自分に、ほんの少しだけ嫌気がさした。





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