静かな歪み
悪夢を見たわけでも、とりわけ暑かったわけでもない。ただ、その夜、やけに喉が渇いたことだけは妙に覚えている。
寝起きだし、昨夜は少し深酒したから、まぁそんなもんかと、ベッドサイドのメガネを手探りで探し冷蔵庫へ向かった。
500mlの水は、数口で空になった。
窓の外がほんのり明るい。もう夜明けが近いのかもしれない。スマホを見たら目が冴えそうで、時間の確認はやめた。どうせアラームが鳴るまでに、また眠れるだろう。
2度目の喉の渇きで目が覚めた。
あれからどれくらい経っただろうか。
アラームは鳴っていない。気になってスマホに手を伸ばす。表示された時刻は「0:00」。
――あれ?さっき、外が少し明るかった気がしたんだけど。
喉の乾きとぼんやりした明るさだけが記憶に残っていた。スマホを見てもよくわからない。酔ってたし、まぁ勘違いだったんだろう。そう思うことにしまた目を閉じた。
アラームが鳴る。8:00。
顔を洗い、歯を磨き、髪を整えて、職場に向かう。
これが俺のだいたいのルーティンだ。今日は限定のコーヒーが出るというらしいのでいつもより早めに家を出、コンビニへと早足で向かう。
どれどれ、まだあるよな、クリアブラック
眠そうなカタコト店員から商品を受け取る
よしこれは着いてから飲もう
会社に着くと、隣のデスクの白井先輩がいつも通り声をかけてきた。「おはよう、速水くん。あれ?今日はいつもより遅いね」
「え?…おはようございます。あぁ、これ買うために早く家を出ましたからね」
自分の口から出た言葉に、どこか違和感を覚えた。
会話を尻目に時計をみる。秒針は15分を指していた
。いつも始業開始8:30ギリギリの俺にとっては早い時間だ。
「速水くんってほんとそのコーヒー好きだよね〜」
「え?いや、コーヒーは好きですけどこれは今日から発売された限定品ですよ」
「えぇ?昨日も同じようなこと言ってたよ?
あーなんだったっけクリアなんとか?」
「…クリアブラックですか?」
「あーそう!クリアブラック!なんか涼し気な名前だねって話してなかった?」
そんな記憶はない。どこか微妙に違和感がある。間違いなく新作のコーヒーだし、まるで、自分と話すことに慣れていない誰かが、白井先輩のふりをしているような、そんな違和感。白井先輩ってこんな声だったっけ?いや、単に俺があまり話を聞いてないだけ?妙に噛み合わない感覚も業務の話題に変わると少しずつ薄れていった。
駅から自宅までの帰り道、街灯の明かりがやけに眩しく感じた。明るすぎるのか、俺の目が疲れてるのか。判断できない。
しばらくしてコンビニの前を通りかかると、あの店員がまたいた。眠たそうな目は相変わらずで、表情は読めない。こっちを見た気がしたが、たぶん気のせいだ。
自宅のドアを開ける。暗闇が迎える。靴を脱いで、洗面所に直行し、顔を洗ってから冷蔵庫の水を一口。いつものルーティン。
でも――何か、引っかかる。
この数日、時間の流れがどこか変だ。
時計は正確だし、他人の態度も「たぶん」変わっていない。けれど自分の中だけ、時差のようなずれを感じる。
ソファに座り、スマホを手に取った。
充電は十分。通知は数件。
LINE、ニュース、スパム――
特に大事なものはなかったが、なぜか手がネットバンキングのアプリに伸びていた。
本当に、ただの確認のつもりだった
「……は?」
数字を見た瞬間、思考が止まった。
見慣れない大きな数字
バグだろうと思った。
アプリを再起動しても、ログインし直しても、金額は変わらない。何度も目をこすって見直したが、そこには確かに“俺の名義の口座に、億を超える金がある”と表示されていた。
振込履歴を開いても、送金主の名前も、メッセージもない。むしろ最初から“この金が存在していたかのような”記録が、過去数年分しっかり残っている。
なにかがおかしい。時刻は19時を過ぎていた。もう銀行は空いていないし、問い合わせしようにも時間がかかりそうだ。こんな時間だし窓口は空いていないだろう。、翌日の昼休憩を使い銀行に問い合わせることにした。
翌日、昼休みに会社を抜け出し、最寄りの支店に駆け込んだ。
あの金額が本当に“俺のもの”だなんて、信じられなかった。ミスだと思いたかった。
窓口で番号札を取り、順番を待つあいだも、手のひらがじんわり汗ばんでいた。
呼ばれて、カウンター席に座る。
案内してくれたのは、五十代くらいの女性行員。丁寧な口調だが、マニュアルの匂いがした。
「本日はどうなさいましたか?」
「ネットバンキングで……残高が、ものすごい額になってたんです。億単位で。心当たりがなくて」
「あ、そうですか……。では、ご本人確認させていただきますね」
免許証を提示し、本人確認を済ませると、行員は手元の端末を見ながらタイピングを始めた。
「ええと……はい。確かに、残高は……6億5080万円ですね」
「ですよね? それ、明らかにおかしくないですか? 俺、そんな大金持ってるわけないんですよ」
「……はぁ」
女の表情が一瞬止まり、苦笑いのようなものが口元に浮かんだ。
「お客様、こちら記録では以前からの資産として確認されておりますので……特に問題は見当たりませんね」
「いやいや、でも! 俺、給与口座にしてるだけで、毎月手取り二十数万とかですよ? 数年前の明細も見てください、そんなの一切ないはずなんです」
「……ご自分でご確認いただけますか? 端末のご利用がご不安であれば、操作のご案内もできますけど……」
もう、完全に“よくわからないことを言ってる客”を見る目だった。
「じゃあ、たとえばこの金が仮に誰かのミスで入ったとか、そういう調査はしてもらえないんですか?」
「……お客様、そうした対応は“着金履歴”や“通知情報”など、具体的な異常があった場合に限りますので……。今回は特に該当するものがございません」
「だから、その“以前からあった”ってのが、おかしいんだって」
「……あの」
女の声が、一段柔らかくなった。
ゆっくり、まるで説明に困っている保育士のようなトーンだった。
「過去の記録に誤りがあるとお考えであれば……一度ご家族に確認されるとか、会計士さんにご相談なさってもいいかもしれませんね」
完全に“そっち系”の人扱いだ。
警備員を呼ばれなかっただけマシかもしれない。
「……わかりました」
そう言って、席を立った。背中に、目が突き刺さるような気がした。
あれから三日が経った。
ネットバンキングで残高を確認してみたが、やはり変わっていない。
あの“異常な数字”は、夢でもバグでもなく、現実としてそこにあり続けていた。
画面越しに見るたび、吐き気に似た緊張が腹の奥からこみ上げてくる。
単なる表示ミスの可能性も捨てきれず、試しに100万円だけ出金してみた。
機械が唸り、札束が吐き出された瞬間、全身の毛穴が開くような感覚がした。
金は、出た。普通に。あっけないほどスムーズに。
間違いなく、俺の口座に“存在している”金だった。
その足で銀行に戻り、即座に全額を振り込んで元に戻した。
手元に置いておくのが、どうしても怖かった。
金が減ることに対する恐怖じゃない。
むしろ、俺がそれに“慣れてしまいそうなこと”への、得体の知れない危機感だった。
それからというもの、空き時間があればSNSを漁るようになった。
“俺以外にも、こんな体験をしている人間がいるかもしれない”──その希望にすがるように。
「口座 増えてる」「お金 急に」「銀行 確認できない」
キーワードを変えて、時間をかけて、慎重に検索していく。
大半は情報商材や詐欺まがいの投稿ばかりで、真偽の判断もつかないようなものばかりだったが、
そんな中に、ひとつだけ――奇妙に引っかかる投稿があった。
「※真面目な話です※
突然、口座の残高が増えている。
4000万ほど。記録を見る限り、最初からあったことになっているが、心当たりは一切ない。
銀行に確認しても『以前からのお客様の資産』としか返ってこない。
誰か、同じような経験をした人はいないだろうか。
自分だけなのか、気がおかしくなりそうだ。」
投稿日は2週間前。
いいねはほとんどついていないが、返信欄に「自分も似たようなことが…」というリプがいくつか付いている。
ただ、その返信のいくつかは途中でアカウントごと削除されていた。
「……なんだこれ」
背筋がじわりと冷える。
しかも、そのアカウントの過去の投稿をさかのぼっていくと、
「持病の検査結果」「娘とのやりとり」「カローラの車検」など、
どう見ても作り物じゃない、日常の記録が綴られていた。
――嘘じゃない。というか、嘘をつく理由がない。
見ず知らずの中年男性が、突然大金を得た。
そして、それに困っている。
それが、自分と同じ“現象”のように思えて仕方がなかった。