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異考三国志  作者: サトウタイジ
黄巾の乱
19/24

18忠誠の誓い

見に来て頂きありがとうございます。

本作は今エピソードから津波に関わる記述が入る様になります。

決して東日本大震災の被災者を不快にしようという意図はありません。


以上を踏まえて引き続き本作を楽しんで頂けると有り難いです。

   18忠誠の誓い




 昼前に、帰宅した曹操を待っていた使用人達に済南国相就任を告げると一斉に歓声が上がり、祝意が述べられる。

 皆、曹操が子供の時はおろか、曹騰が宮中に現役出仕していた頃からの古株が大半である為、曹操の幼き日々の思い出話──お襁褓むつを変える時おしっこ掛けられただの、おぶっている時にお漏らしされただの、オネショしてぐずっただの、家中至る処にされた落書きを消すのが大変だっただの、が始まってしまい、涙目の曹操が止めるのも大変である。


 「あのな?じいちゃんにも報告したいから明日、譙に帰る。昔話は良いから、諸々の準備を急いでくれよ?」


 曹操はこれ迄ほぼ祖父・曹騰に育てられたじいちゃん子であった。通常の士人の家族・親族関係に於いて、有り得ない程の親密さをその呼び名にあらわしていた。

 その事を注意する者は此処には誰一人いない。この邸に仕える者は皆、曹騰に救われ仕えて居た者達ばかりだからだ。


 事実上(やしき)を取り仕切る、曹騰以外は誰ひとり頭の上がらない、ばあやが曹操の頼みを聞いてテキパキと仕事を指図し始めた。

 曹操は、帝都から譙までは長い旅程があり、その途上は未だ黄巾賊が跋扈している所もある為、一旦何進に預けた譙から連れて来た兵達の一部──元々もう従軍を切り上げたい者達がそれなりに居た──を引き取る事。ついでに西邸門外にいた劉備達の事と新たな自分の任地を書き添えて、ふみを大将軍府に使い走りさせることにした。




 朝ぼらけ、日輪が頭を覗かせたばかりの早暁。郷里への旅支度を整え終えた曹操へ不寝番の老僕が来客を告げ、真新しい棗祗の画刺を差し出された。


 「ほう、軍候になったか。全員門内に通せ。」


 ニヤリと笑みが浮かんでしまう。無理もない、先日までの棗祗の階級は屯長であり昇進した軍候と言うのは騎兵からの採用とは言え大きな昇進であった。そして、五月蝿うるくてわずわしい棗祗の上司になることを誰もが避けた事まで想像に難くない。どのみち新任務を与えられて地方に行く上、本年一杯で年季が明けるのだから、適当な地位を与えて厄介払いされたと言った所だろう。




 「朝早くから申し訳もなく。殿様に従いて帰郷する者達を連れて参りました。」


 「うん、旅支度は出来ているから良い。だが、何故お前がいる?任された部隊の指揮をする身だろうに。」


 「はっ、今一度、殿様とお話ししたく参りました。」


 「うん?取り敢えず汜水関辺りまでは方向が同じだろう?途中すれ違う所で良かったのではないか?」


 「はっ、兵達に聞かれたくない事もあります故……。その前に済南国国相の事お慶び致します。我が隊は既に郭の若旦那──おっと叙求も殿様のお陰にて仮候に昇格しました──に差配させ鉅鹿きょろくへ出立しました。」


  鉅鹿とは洛陽の北東・冀州にある、黄巾賊・太平道の本拠地である。


 「ま、若旦那、郭叙求なら任せて安心だな。しかし国相はそんなに目出度いかね……、しかも済南はえらく難しい土地だぜ?知らん訳ではあるまい?”海溢れ奔った”せいで被災して逃げてきた民の扱いに窮しているそうじゃないか。この叛乱でどうなっているやら……。」


 ”海溢れ奔った”とは津波の事である。十数年前|(西暦167年)の夏、先帝──桓帝──の頃、帝国の海に面した土地の殆どに襲いかかった災異|(害)は数多の命をのみこみ、さらっていった。

 最も酷い処で海岸線から数十里《20km》に及ぶ被害を受け、そしてそれは始まりに過ぎなかった。

 海水をかぶった土地は塩に侵され、生き残ったそこに住んでいた一握りの民百姓は作物を育てることも、明日のかてにも困窮し、故郷を捨て内陸部へと逃れて来たのである。


 その後もほんの数年の間に二度、規模こそ縮小してはいたが津波が帝国を襲った。この事が故地へ帰ろうとする被災者達の足を竦ませる事になった。。


 「聞かれたくないのは、まさそこ(・・)なのです。我が麾下の兵たちにもかなりの海辺の育ちがおります故。逃げた者達を幾つかの郡に掻き集めて田畑を与え、更にお上のお慈悲が与えられているとは言え、大分ヒドいらしいですからね……。しかし大丈夫、殿様ならきっとそれ(・・)も何とかされるでしょう。」


 エラく信頼されたものである。曹操は苦笑してしまった。




 「全く貴様が羨ましいよ。戦いは単純だ。賭けるのは命だが結果は常に表か裏だ。」


 「はい、殿様、いいえ、私はそうは思いません。生きていく限り、常に命を賭け、表か裏かの審判を受け続けているのです。そして、殿様はその賭けに勝ち続けていくお方であると信じております。」


 「……以前にも同様のことを言ってくれた方がいたが、買い被りすぎだ。だが、勝ち続けられる様に努めよう。出世させられて”面倒臭い仕事”を引き受けた貴様の眼力を信じてな。わざと出世しなかっただろ?貴様。」


 「……屯長という地位は面倒事に巻き込まれないのに非道く都合が良かったことは否定しません……。」


 屯長という地位は帝国雇用の最低階級である。それより下の者達は充員──数合わせ──に過ぎないのだ、評価される事を躊躇う様な棗祗の答えに、曹操は”やはり”という心証を深め、同時に新たな疑惑を感じた。


 「……今、帝国は危機にある。貴様の見識の高さはこの三月みつきでよく解っているつもりだ。もっと出世して役立てようとは思わなかったのか?」


 「私は学・校を出ておりません上、門地も卑賤にございます。軍候に上り詰めた事自体が奇跡に近いと考えております。」


 「そう言えば、言っていたな……読書計算よみかきけいさんは祖父と父母に、天地の事と儒学は師父より修めたと……。」


 学・校とは各地に設置された初等・高等教育を行う学び舎である。更には帝都洛陽に設置された太学──高級官僚への登竜門と云われた──に入校する為に有名・・な教授の私塾へ入門して人脈を築く事が中央官僚として政策立案に於いての必須経歴であり。曹操自身もそれに準じて教育を受けたが太学へは進まずに、衰退していた兵学を学ぶ為に”義侠”と称する儒学を至上とする者達から侮られている人達に師事した為に、太学出身者達からは破落戸の様に云われ、嘲笑された。


 曹操自身も世の多様性を狭量に捉らえていた。自邸に教師を招くことの出来る上位の士人・豪族を除いても、それなりの家産を持つ家庭は学・校に子を入れているものであると曹操は思っていたのだ。


 「はい、なんとかしようにも、私には天子の御元へ我が経綸けいりんを届ける術が見当たりませなんだ。」


 「で、あるが故の無茶か……。」


 曹操は、皇帝に進言し得る、袁紹や何進にこの国の現実を見せて難局を打開しようとした事を理解した。


 「……障壁かべがあるのです。話は聞いて下さる方はまだしも、殆どの方々はもう良い、無理だ、と仰り。その先へ進もうと言ってくれたのは大将軍だけでしたが……。|あの方も結局何もしませんでした《・・・・・・・・・・・・・・・》。」


 ──そう、今なら分かる、あの方々は何もしないだろう……、でも、俺にだってどうにもできない。だって、俺にも彼等・・は動かせなかった……。──


 無慈悲なまでの棗祗の予言は続く。


 「……残念ですが、漢帝国、いえ、劉氏の帝国(・・・・・)はもうたないでしょう。そして、群雄割拠の乱世がすぐソコまで迫っています。」

 曹操にも容易に解った。有能な人材が日和見、宦官が野放図に振る舞い、高級官僚は事勿ことなかれ主義。内部にどうにもならない内圧を抱えた帝国がバラバラになる日が近いのではないか?と。




 「棗軍候、ちょっと良いか?お前の現状分析は良く解った。お前さんが偉い人達に色々していたのは噂で聞いてる、それにお前の予想に俺も同感だ。だが何故、曹家を選んだ?お前のような縁も所縁もない男がウチの若様を殿様と言うのか知りたい。」


 戸惑いを見せる曹操を見かねたのか夏侯惇が棗祗に真意を問うた。少し前まで極当たり前の作法で曹騎都尉と言っていたのに今日になって突然、殿様と奉る事の意味を明かせと夏侯惇は迫った。


 「……殿様の御前ですから、正直に言います。私はお仕えすべき主上を探すために此処に居るのです。いえ、いました。」


 「ちょっと待て、お前、まだ年季が……。」


 「あと五つ月、残っていますが、軍候に昇進するに辺ってこの征旅で満了とする事をのんで頂きました。」


 「無茶をするなぁ、オイ。」


 「私が十八の歳に兵として都に上るにあたって、父に条件が科されました。十二年を越える出仕をするにはその主を決めなければならないのです。」


 それを聞いて曹操は少し安心した。決め打ち期間内の消極的決定であるとしか思えない条件だったのだから。だが、続いての棗祗の誓いは、その安心を埋没してしまうものだった。


 「十二年……。きっとこの中夏を救い、我が智見学殖ちけんがくしょくを活かしていただく方を探し、お待ちしておりました。殿様こそがこの中夏の光明でいらっしゃいます。いずれある危急の刻、旗揚げの際は必ずや馳せ参ずる事をお誓い致します。」




 予定を超えて半刻近く話してしまい時間がない。と棗祗達は連れて来た者達を残して、先行した兵団へ出立した。


 「随分と評価されたもんだな……。こたえてやらなくて良かったのか?」


 「どう応えてやればよかった?」


 どこか他人事のような顔をする曹操に、夏侯惇は顔色を失った。子供の時から本気でどうすれば良いか解らない時の表情だ。


 「もうお前にだって解ってるだろ。棗祗も言ってた様に、この国には後がない。お前も否定しなかっただろう?」


 「……しかし……俺は武人として戦場いくさばを駆けたいだけで、乱世に雄を目指す等……。」


 「ご隠居様も、大殿様もそうだが何故立ちすくむ?昔は乱世の奸雄とか英雄とか評されて喜んでいたじゃないか。現状を正しく認識してくれ。戦場を駆けたいなら覇を目指し、群雄の中の一雄となるのが最短なのだと……。」夏侯惇はじっと曹操の目を見た。「……決心がつかないか?」


 「そんな簡単に出来るものかよ。」


 「もうどうしようもなくなる前に決心してくれ。」



津波なんて嘘だと思われる方達も多いと思います

永康元年=西暦一六七年 六州大水、渤海海溢(後漢書桓帝紀)

皆さんはこれ何が起きたと思いますか?

六州といえば後漢一三州の内、海に面した全てです。筆者には津波としか思えません、

昔、Tunami Mapper(現在は無いです)と言うサイトでつくった地図を付けておきます

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

現代中国の地図が元になっていますが

真ん中付近、上海とか大丈夫なんだろうか……

護岸等で自然海浜は中国ではほぼ存在しないようですが。

因みに三国志の時代、海岸線はかなり内側だったそうです。

土砂の流出、埋立、灌漑で陸地を拡げたようです。


それではお読みなって下さった方達を不快にしていない事を願いつつ。


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