15曹操と夏侯惇
15曹操と夏侯惇
洛陽城外からさほども離れていない自邸に辿り着いたのは日入──午後六時──時近く、先着した夏侯惇が旅装を解いて待っていた。
「遅かったじゃないか。話が盛り上がったのか?こっちは先に呑ませて貰ってるぞ。」
早くも寛ぎきって我が物顔で酒盃を掲げる夏侯惇に、曹操は苦笑する。曹操の祖父たる曹騰が購入した、夏侯家の者も含めた宗族で使う事を想定してかなり広壮な邸である。最近までは親族で都詰めの官位に就いているのは夏侯惇だけであった為、半ば主人の様に邸を任されていた。
「まぁな。……おい、着替えてくるまで飲みすぎるなよ?ろれつが回る内に話を聞きたいからな。」
「はいはい。」
「で?何処まで聞けた?あの大量の糧秣に関しては大将軍から聞いたが……。」
「応、聞きたいことは大体聞けたぞ。んじゃ北の黄巾からな……。」
夏侯惇は情報収集の成果を話し始める。子供の頃から常に共に居たが故に曹操の知りたい事は夏侯惇も知りたい事である。最初に曹操が仕官して程無く辞するまでは曹操が光・夏侯惇が影とでも言うべき関係であり、曹操が郷里に引っ込んでからは都での縁故を途切れさせない為に夏侯惇は残ったのだ。
「盧中郎将が大分追い詰めていたんだが、息を吹き返してるらしい。なんでもエラく精強な義勇兵が従っていたとかでソイツ等も、小官等同様厄介払いで盧中郎将に着いて来ちまったんで更に増援をって言ってきてるとさ。」
「手柄を立てた邪魔者……か。」
「で、後任は河東太守の董仲穎氏だとさ。」
「ああ、騎兵を率いさせたら凄いとか言う……。」
「一度会った事があるが気っ風の良いオッサンだったな。ただ、粗野でな~んか卑屈な所もあって好悪は別れるだろうな。」
「フーン、元譲氏は嫌いだと。」
「チッ……元嗣はな。」
声色から嫌悪感を嗅ぎ取った曹操のからかいに、舌打ちした夏侯惇はあえて返事をせずに韓浩の事に話を継いだ。征旅の疲労からかいつもの半分に満たない量で酒が回っている。
「もう解ってるだろうが汝南袁氏の譜第の一族なんだとさ。だが、元嗣は家督を継ぐのを嫌って都で兵隊やってたんだと。」
「闇に潜む影の一族か……袁氏二百年の殷賑の理由だな。」
「あんなのが付いてればよっぽどの馬鹿殿でもなけりゃ、お家は安泰だわな。」
「しかし、なんで家督を放り出したんだ?あれだけデキる奴なら……。」
「そこだ。アイツの家は大分複雑でなぁ。元嗣は長子だが、妾腹でな、弟が正妻の子なんだと。で、弟に家督を譲ったらしいんだが……その弟御が……。」夏侯惇は少し言い澱んで暗い顔をした。「先日、秘密裏で追跡していた波才に殺された……尹府に戻った途端にアイツの号泣を聞いちまった。」
「そうか……。」
曹操は言葉もない。自分達が取り逃がした男が今も跳梁していることに自責の念を感じざるを得ない。
「俺もさ……、アイツとは結構長い付き合いだが、そう言う事は全く話さないから知らんかったけど、無念だろうなぁ。」
夏侯惇はグイッと盃を呷った。
そして、韓浩が家督を継ぐ事になり、多数の配下や又者を率いる為に実家に戻る事になったと言って更に盃を傾ける夏侯惇。
そこで、曹操が気になったのは韓浩の部隊に居た、影のように疾走る男達のことである。彼等も明らかに隠密──袁氏に仕える韓浩の一族の配下──であろう。
「元嗣の部下にも韓家の配下が居ただろう?彼等もか?」
「いや、そっちは元々、本初さんが呼んだ連中なんで約束の期間が終わるまでは大将軍府に編入されるのは変わらないとさ。」
そしてまた一杯。
「おい、明日早いんだから、程々にしとけ。」
「はい、はい、で、俺は何時まで一人ぼっちで窮屈な都詰めで居なけりゃならん?お前が譙に引っ込んでもう六年だぞ。いい加減、子供達に寂しい思いをさせたくないんだが?」
「なら辞めて譙に帰って来れば良いじゃないか?また皆で賑やかに暮らそうぜ。」
「バッキャロー、ご隠居様の言い付けを反故に出来る訳無いだろうが……。」
ご隠居様とは公職を退き、存命の親族中最長老で宗族の長である曹騰を指す。
「お前も此処が嫌いなのは分かってる。水はマジいし、ヤなやつ多いし。」
夏侯惇は言いながらまた一杯傾けて、ゴロリと寝転んだ。
「スマン……。」
曹操も都嫌いを指摘されて謝るしか出来ない
「良いさ、童子の頃からの俺とお前だ。……あぁ、一つ言い忘れ。北中郎将と前河南尹の助命は捗々《はかばか》しく無いってさ。」
伝えるべき事を全て言った安心感からか、夏侯惇は大きなイビキをかいてそのまま寝入ってしまった。
──コレほど悪くなってしまった世の中を、どうすれば良い?自分に出来る事はあるのだろうか?──
酔ってぼんやりとなった頭の中で戸惑いを覚え、纏まらない考えをする内、いつしか曹操も微睡みに落ちた。
「ブェックション!!あ゛ー、ズズー、日出前──午前五時──はやっぱ寒いな。」
帝都洛陽付近は扇状地で気温変化に富むため、朝晩の冷え込みがきつい。まだ夏の残滓があるとはいえ、夏支度の夏侯惇は油断していた為に、季節ならぬ凍えに身震いした。
「この糞寒いなか西邸に日参してる閣員方には同情するな……如何に宮城に近いとはいえ……サムイッ!!馬車にしておくんだった……。」
閣員とは三公を含む最上級の朝廷幹部の事である。参朝の為に同じく夏支度で正装している曹操も他人事ではない。父のお下がりの朝服が汚れるのも止むを得ぬとばかり、弱音を吐いて温かい乗馬に身体を巻き付けるように抱き締めている始末だ。
「オイ、袍が汚れっぞ。バレたら俺が怒られるんだから、シャンとしてくれって!」
「あー、ハイハイ。」
グイッと夏侯惇から襟ぐりを掴まれて引き起こされた。
──……いやまぁ、”爵位”を持つ親族の嫡男に礼を糺すのは良いとしても、鼻水の着いた手で襟ぐりを掴むのはどうなの?つか、汚れると言った手で掴んだ襟ぐりが鼻水でヌルヌルなんだが……──。
いつものじゃれ合いで西離宮に入る閣員・官吏達の長蛇の列がなくなるまでの退屈というか寒さしのぎをしていた曹操の目の端に温かな炎が目に入った。
数百人はいるであろう、どう見てもゴロツキの集団が篝火をたいて夜営していた。
その中に二人、いや三人のひどく、いや、度外れて目立つ男達がいる。ゴロツキの集団に交じるには似合わぬ派手な鎧を纏う男、巨大と言って良い程の長身に鬼気と言って良い佇まいの男、そして太い、ただ、何もかもが太いという表現が似つかわしい男。皆、曹操に背を向けていた為、人相は定かではないがその影が、見る者に恐れを抱かせる程の異形さを象っていた
「……もしや、あれか?北中郎将を輔けたエラく精強な義勇軍って。」
「ゲ、なんじゃあれ?物の怪のたぐい?って言うか帝の安在近くで篝火焚いて夜営って恐ろしい事してんな……。」
その時、西離宮の大門が開き始めた。
また遅れました。
筆が進まぬ苦しさよ。