10忘我と狂気
10忘我と狂気
統制の取れない集団というのは迎え撃つ側にとっては恐ろしくはない。だが予想外の事をする為、非道く遣り難い側面がある。官軍の陣取る西華郊外に到着し陣形を整え終える間もとらずに突進して来た彭脱軍はその典型であった。
今も牽制に放たれた矢衾をくぐり抜けた黄巾兵が官軍本陣の最前列──続々と参着した増援が功を競うかのように分厚い先陣に当たっていた──に殺到していた。この場所に先着し十分に防御陣地を築き、防柵を立て、濠を掘った官軍の前に死者を積み上げていくだけであったが。
にも関わらず黄巾兵達は一直線に突き進んでくる。異常な戦意、いや、狂気であった。そしてその狂気は累々と重なる骸を踏み上げ、遂には濠を超え、防柵を打ち砕き、防御陣地に襲い掛かっていた。
「おい……おい、何だありゃ……。」
曹操は絶句した。無理も無かった、敵は戦いの定石を無視しあまつさえ自軍の損害も無視していたのだから。
「……死兵……。」
隣りで轡を並べる孫堅も苦虫を潰した様な顔で呟いた。
「恐らくは大麻を使ったのでしょう。判りませんかこのにおい、遥か昔には戦にはつきものであったと言う、恐怖を麻痺させ、痛みすら感じなくなると云う禁断の麻薬を。」
孫堅のやや後ろに控える男が冷静に言った。孫堅同様に浅黒い肌だが、より理知的な顔をしている。
「におい?幼台殿、大麻って布地の?そんな事が可能なのか?俺は聞いたことがないが……。」
「静、お前の博識には恐れ入るが、今少しわかりやすく説明してくれ。」
曹操と孫堅、二人の抗議に近い疑念に孫堅の弟、副官として追従している姓名は孫静、字は幼台は面倒くさそうに一つため息をついてくだくだと説明を始める。
「麻薬は、遥かな昔、高祖創業以前には当たり前に使われていたようです。我々がソレを知らないのは恐らく高祖・劉邦がその恐ろしさを項羽との戦いで痛感した為に禁止したのではないかと。大麻自体は麻糸を取る為に栽培されているため、辺鄙な村落では今も万能薬としてほそぼそと使われているようで……。」
「あ、一之陣が食われる……。」
話を聞いているのかいないのか、じっと戦闘を見つめていた夏侯惇が呟いた。
孫堅、曹操二人共ぎょっとして戦場に目を戻す。そして、黄巾兵の攻める、官軍中央の先陣が壊滅・崩壊していく様を目の当たりにした。
「俺、アソコにいるはずだったんだよなぁ……。」
最早、引きつった笑いしか出てこない曹操。
「……静、どうにかならんのか、あれは!!」
「まぁまぁ、兄上、難しく考えることはないのです。敵が狂ったように突き進んで来るなら、押し包んで潰してしまえば良いだけです。両中郎将方も直にお気付きになるでしょう。我等は我等の……。」
孫静は苦笑していつもの冷静さを欠いた兄に応える。開いた左掌に右手中指を押し付け、次いで左手を結び指をギュッと握った。
「「そうか!!」」
孫堅と曹操、同時に自分が為すべき事に気付き思わず叫んで、互いの顔を合わせた。
「あー、えーと後ろから来てる本陣と後詰を牽制?」
夏侯惇が半信半疑で推測した。曹操はそれに応える。
「そうだ。どうせなら向こうの遊撃隊と呼吸を合わせたいな。惇、使い……。」
「いや、向こうにはコレの兄弟子の棗祗殿も私の腹心・公覆もいる、元々の作戦でもあるし大丈夫だ。それよりも静と元譲殿は千ばかり連れて中軍支援に回ってくれ、増援に来た連中は脆すぎる、当てに出来ないかも知れない。」
孫堅は先程までの狼狽えが嘘のように冷静を取り戻した。弟を親指で指し、曹操の部下──棗祗が孫静と同門であると会戦前の顔合わせで判明していた──と、自分の腹心である姓名を黄蓋、字を公覆と云う男達への全幅の信頼を語り、現況への分析と対応策を指示した。
「了解しました!!「はいはい。」」
夏侯惇はそれぞれに信頼する古参の閭長を呼び、駆け出していった。孫静は返事の後に兄に何かを託けてからゆるりと影のように自分を待つ兵達のもとへ駒を進めた。
そして、やや傾いた東西に伸びた・⌒・の両端の点が⊥を象る下側《南側》の線に向けて呼応するかのように動き始める。
「驚いたな……。こちらを差し止める様な事もせず、ただ、死地へと前進するなど……。」
「それが、あの麻薬とか言う物の恐ろしさなのでしょう。弟が言うには、前を見るものには前だけしか見えない。前を見ることを拒絶するものには空ろなものしか見えなくする……。それこそがあの陣形の本質だと。」
既に賊軍本陣は目前である。ここまで官軍中央に一直線に盲進する敵兵の妨害はほぼ無く、速さの違う騎兵と歩兵の歩調を合わせる事に神経を使った程である。
「鳴る程……!!」
曹操はびくりと馬を止めそうになった。至近まで来て目に入ってくる敵兵の顔に驚いてしまったのだ。それは……目の前に迫る曹操達等まるで気にならないとでも言うように、視線がぼんやりと彷徨っていたのだ。ただ突っ立っているだけ、聞かされていたとは言え驚かざるを得ない。
「征けるだけ行ってみましょう!我等はその為に此処まで来たのですから!」
孫堅は賊軍中央に翻る、黄色い旌旗を指差す。その旗を倒す事が彼等の勝利となる筈なのだから。たとえ罠だとしても。
「応さ!もとよりその覚悟!」
「者共!我に続け!!吶喊!!!」
「「「「「ォォォオオオおおおおおおおぉぉぉぉ!!」」」」」
「棗祗殿の言った通りだのう。さすが弟御の師兄弟だけあって知恵者ですなぁ。」
黄蓋は隣を伴走する奇妙な武器を携えた男を賞賛した。棗祗である。
「いやいや、あちらは天才こっちは凡才、並べちゃダメですよ。」
棗祗は照れ隠しなのか手に持った得物を小刻みに振る。
その時、付かず離れず二人の背後を駆けていた韓浩が敵と味方の距離を推し測り、警告した。
「さてそろそろ。ご注意を。」
「応!!」
ギラリ、と戦いの前の高揚に黄蓋の凄みのある笑いが答えた。
孫堅は曹操軍が合流して膨れ上がった麾下の遊撃隊を二手に分けた。八千人を超え遊撃隊としての本領である柔軟性や機動力が失われると感じたからだ。やや縦深に振った鶴翼の両端に布陣したのだ。隔絶した両部隊の連携に懸念があったが、戦いにおいては信頼すべき腹心と言うべき黄蓋を指揮官に据え。曹操もまた、自らの期待を裏切らない棗祗と韓浩を送り込んだのだ。
そして、黄蓋達は信頼と期待を裏切らなかった。
「なんだこれは……。」
しがみついているだけの馬上で目論見から乖離していく状況に、彭脱は憤懣遣る方無い。戦いに於いて作戦や目論見等と言うものは目安でしかない事を理解し得ない、計算の上に成り立つ目論見と夢想の区別が付かない男なのだ。
彭脱は張角の直弟子である。であるが故に納得できなかった、弟子はおろか信者でもない波才等という胡散臭い男を事実上の序列4位──その上には教祖にして大賢良師・天公将軍・張角とその弟達、地公将軍・張宝と人公将軍・張梁しかいない──に据えるなど。だからこそ、波才が決戦を回避し黄巾党勢力の立て直しを言い出した事は許されざる大罪と糺弾し離反した。
彭脱同様に張角の直弟子は南方方面軍に数人居。彼等は波才を大渠帥と認めず自身達の途を選んだ。
「波才が正しかったと言うのか……、禁を犯してまで……。」
彭脱は太平道の禁忌を破った。本来は余程重篤な病人か、死にゆく者の苦痛を和らげる為にしか使用してはいけない大麻を兵達に使わせたのだ。そして兵達の半数以上が望み通りに死兵と化し、官軍に大打撃を与え勝利は目前であると安心しきっていた。
だが、目前に迫る敵に安心など吹き飛び、湧き上がる恐怖。
その恐怖の前に、官軍が反攻に転じ、前に進むだけしか出来ない攻撃部隊を押し包みはじめている事すら見えなくなっていた。
今、自分の周りには大麻に酔って何も出来ない、立っているのがやっとの木偶の坊だけである。戦う事等出来よう筈もない。
「た、退却……。」
その時やっと気付く、逃げるのにも味方が邪魔であり、馬の扱いも覚束ない事に。
「クソッ、邪魔だ!退けぇ!!」
孫堅達は突撃の足を止められていた。ただ突っ立っているだけの敵兵が驚く程邪魔だったのである。身を守ろうとも攻撃しようとも逃げようともしない密集集団に、馬が怯えてたたらを踏む有様である。徒歩の歩兵達の方が動きやすい為、道を作ってもらう始末に、苛立ちが募る。
「左右にかき分けろ!後ろに下がらせるな!邪魔者が増えるぞ!」
曹操もまた、苛立ちながら前進への意思を緩めない。いっそ馬を降りてしまった方が楽かも知れないと思うのだが、指揮官であるが故にそうも行かないのだ。
遊撃隊は牛歩の様にゆっくりと、だが確実に敵陣を押し開いていく。
「ムッ!?」
その時、孫堅の目に敵本陣でただ一人騎乗している男がその身をひるがえして逃亡しようとしているのが見えた。
「逃がすものかよ!」
最早、指呼の間である。孫堅は馬を叱咤して単騎突進した。
「佐軍司馬!危険だ!戻られよ!。」
曹操の制止も間に合わない。
前に立ち塞がる敵兵を跳ね飛ばす様に孫堅は疾駆する。
その時、邪魔だったのであろう、逃亡しようとする騎乗の男が自分の後ろで黄色い旌旗を支えていた兵を斬りつけた。
支え手を失った旗は思わぬ方向、孫堅の真正面に倒れた。
「アッ!」
ドサリと兵が倒れる。周囲の仲間達はぼんやりとそれを眺めているだけだ。いや、見えていないのかも知れない。
「クッセエ!フッ!」
棗祗は敵兵を、石で正確に下顎を狙って叩きつける。ソレだけでもう立っていられなくなりその場に崩れ落ちる。始めは掌底だったが幾人も打って掌が痺れ、転がっていた石を使い始めたのである。
馬は攻撃開始早々に降り、手近にいた部下に預けてしまった。
「手馴れたもんじゃのう……。」
黄蓋は苦笑して感心してしまう。
「教えるんじゃなかった……。」
以前に素手で人を無力化する方法を教えてしまった韓浩は、額に手を当て呆れていた。
「さて……、好し。」後方の本陣両翼が予測通り敵の長蛇陣に襲い掛かっているのを確認し、孫堅の遊撃本隊が同様に黄色い旌旗を目指し進んで来ているのを再確認しよう、と、ふと右手を見た黄蓋は驚いた。「!?なにを!?」
孫堅が単騎で孤立状態になっていた。しかも、そこに旌旗が倒れかかり、驚いた馬が棹立ちになり孫堅を振るい落としたのだ
「殿おぉぉー!!!」
黄蓋は脇目も振れず駆け出した。
孫堅兄弟はインド系と言う設定にしております。
インド系というよりインド洋系(色んな人種がまぜこぜで金髪なんかもあり得ます)ですが。
今回、運営からお叱りを受けないか心配。
ネタがネタだけに……ねぇ。