01この世の地獄
. 01この世の地獄
地獄というものがあるとするなら。これもそうなのではないか?
異様な光景だった。
賊軍とその討伐軍が対峙する戦場に行軍途中、夕餉の為の水と焚物を調達しようと立ち寄った街道脇の小さな村、そこには夥しい”死”があった。馬上で、部下達が生存者がいないか村を探索する様を眺めながら指揮官は思った。目前の光景を何処か頭の中で拒絶している様にぼんやりとする。
近頃、都で天神の教えを説く布教者がいる。遥か遠き地より訪れた彼は云っていた。
「人は死ぬと裁きの橋を渡り、善き者は楽土へ行き、悪しき者は地獄へ落ちる云々」
だが、累々とした死、いや、骸は人の善し悪しを問わず地獄の苦しみの中、家々の軒先で、道端で、井戸の側で、誰に助けられる事も無く死んでいったのであろう。この世こそ地獄ではないか。
骸となってしまった彼等を見ると、体の奥底から何かがこみ上げてくる、叫び出したい気持ちを抑えるのに身悶える。
と、横合いから声を掛けられている事に気付く。
「……いやぁ、駄目です、生きている者は居りません……僭越ですが兵達に水の探索へ切り替えを指図しました、お許し願いたく」
ハッとして声の主に顔を向ける。戦場への援軍を命ぜられ指揮下に編入した幾つかの部隊の内一つを率いる男がのんびりとした様子で報告してきていた。名は確か…。
「棗屯長か、…水? そこに井戸があるではないか、無人の村なら遠慮することはあるまい?」
一瞬で頭を切り換える。やはり全滅か、指揮官は残念だった、何がこの村に起きたか知りたかった。……生きているものがいれば……。一方で衝動──今日の光景は心の片隅に置こうとも思う──を忘れさせてくれたことに感謝しつつ、その事には触れず問い返す。
棗屯長と呼ばれた男は、困ったような顔をして答えた。屯長とは五百人程を率いる部隊長の呼び名である。
「はい。いえ、そうではないのです。騎都尉。井戸の周りに死体が群がっているのは、
彼らが偶々其処で死んだからではないのです。多くの人は死ぬ時に水を欲するのです。そして、まぁ、ああなります。」井戸の側の最後の乾きを満たせなかった者達を指差す。「なかには生きて水桶を井戸に落とす事が出来る者がいるわけです。水桶が井戸の周りに……。」
騎都尉と呼ばれた指揮官は手を上げて制止する。震える手を抑えるのに苦労する。言わんとすることを理解したのだ。だからこそ、その”おぞましい”事を聞きたくない。答えを止めた棗屯長に続けて、簡潔に。
「井戸の中には骸がある。とても口にする事は出来ない。そうだな?」
「ご明察でございます。それと棗祗と呼び捨てにして下さい、”屯長”を付けて呼ばれるのはどうにも……この、むずがゆいものがありますもので。」
「いや、知らなかったら何も考えずに井戸を使って厭なものを見ただろう。感謝するよ。”棗祗”。」
苦笑せざるを得ない。外見は武人というより鋳型にはめたような軍人でありながら、上官の命を勝手に変更する様なゆるさを持つ、曖昧さをはらむ。そうであるがゆえに、棗祗と言う男に興味が湧く。見れば、馬の尻から下がる大仰な荷物も気になる。都を進発する時には無かった筈だ。
「棗祗、君は……。」
「曹騎都尉! 此処に居たか! いや、………居られましたか」
気安い様子で馬を駆って来た男に意識が向く。従兄弟であり、指揮官の副官・目付役として随伴している男である。援軍が大所帯と成った為、本来は指揮官の直率であった部下を指揮代行する事となった。今も、今夜の宿営の為に村の街道側入口付近で、天幕の設置を采配させていたが。終ったのか?
「宿営の報告をしろ。惇……う、夏侯副官」
「は、騎都尉、失礼致しました! 宿営準備終了致しました。只今、兵達に小休止を兼ね、待命させております」
互いに親族である気安さを安易に表明することは、戦闘集団を率いる指揮官にはあまり宜しい事ではない。副官も軍人として経験がある。いや、親族としての阿吽の呼吸でも働いたか、職業軍人としての応答を即座に返してきた。
「わかった。他の部隊も終わる頃合いだろう。日没まではまだ少しある。二人共、水でも飲んで一息入れろ。」そう言うと自分から馬の鞍に備え付けてある水筒を取り出し、一口、口に含む。知らない内に喉がカラカラになっていたようだ。体が更に潤いを求めてくる、更に二口、がぶ飲みしない。「ふうぅ。」
想像以上に緊張していたことを自覚する。無理もない。三千人、こんな大集団を指揮するのは初めて、さらにこんな地獄を見せられては。指揮官は自嘲する。編入部隊を着けられ互いの紹介もそこそこに都を発ったのは午前、強行軍とは言え目的地までは後五日ほどだろう。緊張するなというのが無理な話だ。なにより、こんな所で疲れ果てて部下達に笑われる訳にはいかない。己を奮い立たせる。
少し間を置いて焚物の収集、念の為に行軍進路の先行偵察──盗賊などに襲われては堪ったものではない──といった任務を与えた各屯長達が報告に来た。焚物は十分に集まり、進路上は一応の安心が確保された。当然の如く彼等も兵達に小休止を与えていた。
「ついに京師周辺にもこういう集落が出てきてしまいましたね。」
小休止で雑談が始まる。京師というのは都のことだ。絶え切れないとボソリと、口火を切ったのは焚物を担当した、昇進したばかりらしい郭茂という朴訥そうな、だが頭は良さそうな、軍人というより商家の若旦那と評する方がふさわしい男だ。
「いやぁ、昔からあったよ。ただこんなに街道近くの集落では無かっただけさ。辺鄙な所なんか酷いもんさ。おいらの故郷ももう無いよ」
応じたのは副官と共に宿営準備をしていた、たしか、王栄とか言う屯長だ。賑やか好きらしく各屯長が指揮官の辺りに集まっているのを見てやってきていた。
「そんな……」町育ちなのだろう郭茂は、非情な現実を聞いてうなだれる。「町だって、どんどん人が居なくなってるのに……」
同様に肩を落としかけた指揮官が何かに気づいて聞き返した。
「いや、待て、俺は譙で育ったが、都と陳留、他にも色々行った!様々な所に災異(害)が襲いかかって罪もない民が苦しみ、世情が悪い方向に墜下している事も知っている。だが、全滅してこんなに酷い所は無かった!」
「確かに、小官も見たこと無いな。そんなに酷い所が方方にあるのか?」
副官も思い返したように屯長達に問う。
問われた王栄は、困ったように棗祗を指差す。この人が知っていますよとばかりに。
棗祗は一石を投じたお調子者の屯長をジロリと睨み、舌打ちしつつ説明する。
「はぁ……、辺鄙な所は至る所が廃村になってしまっています。街道上や、州都の様な大都市から馬で一日の行程にあるような村は、以前は存在自体無かったことにされていたのです。破落戸達の塒にされないように、各地のお偉い方々の体面を守るために、です。」騎兵として一人前になる前、命令されるままに為した恥ずべき行為を思い出し、吐き捨てるように言った。「民百姓にとって、もはや、この中原の、いえ、帝国の至る所に、飢餓と恐怖と死があり、
何処にも逃げ場はありません。縋れるものならば藁にでも縋るでしょう。
だから、」
「大乱は起きた。」一人悠然と得物──大小の刀──の手入れをしていた、先行偵察を担当した屯長が引き取るように呟いた。
「棗さん、いかんな、賊軍に情を掛けるような言葉は。吾も同じものを見、同じことをした。恥じてはいない。それが任務だったからだ」
「元嗣!! 事実なのか!? そんな反吐が出そうなことが!!」
副官は激怒した。元来が、熱い男なのだ。呟いた屯長に掴みかからんばかりに怒鳴る。
「吾は事実しか申し上げません。近年は朝廷にも州郡府にもそんな余裕が無くなったようで、汚れ仕事は回って来なくなりましたが、ね。」
得物から視線を上げ、副官に向き直り。目を見て屯長──韓浩は言った。その得物のように鋭い刃のような男だ。
何恥じることは無いと言う韓浩の態度を見て、副官は落ち着きを取り戻した。消え入りそうな声で韓浩に詫びる。
「怒鳴って……すまん……」
韓浩は気にしていないという様に頭を振った。
指揮官は若き日に聞いた幾つかの言葉を思い出す
”世は乱れる””興亡一瞬”更なる懊悩を感じる。同時に思うのだ、棗祗も韓浩もどんな地獄を見てきたのだろうか……。もっと彼等と話したい。戦場である長社まではまだ日がある、もっと信頼を深めよう、と。
水場が見つかったと棗祗の部下が報告してきたのは暫し後である。随分手間取ったものだと皆うだうだ言い合うが、集落から一里程も離れていたのだから無理もなかった。
「また、遠いな」思わず指揮官が愚痴る。だが、日が沈もうとしている、天幕を移す余裕はない。もう、今宵は此処で宿営するしかない。水運びの手間を考え、ふと気づいた。「棗祗、君の部下は小休止をしていない。休ませてやれ、その間に残りの者で夕餉の支度を整える」
「はい、騎都尉、ありがたく頂戴いたします。」
棗祗は部下達に小休止を伝えに行こうとして、馬首を廻らせ立ち止まる。振り返り、申し訳無さそうに言った。
「忘れてました。これ、各隊の輜重番に渡して下さい。」
馬の尻から下がっていた、馬を大きく見せていたであろう、ずた袋を副官と各屯長達に放り投げ、馬を嘶かせて、部下達の集結している水場に駆け出した。
輜重番とは様々な軍需物資──各種武装・矢・天幕・焚物・兵糧──を管理・輸送する当番兵達である。彼等から調理を行う兵達にその度毎の食材が振り分けられる。
「いつもの事ながら大量ですね」
郭茂がホクホク顔で笑う。
「久しぶりに肉の味のするものを食わせてやれる」
韓浩の顔が綻ぶ
「輜重番? なんだ?」副官が袋の中を開ける。血生臭さと獣臭が鼻を突く「うえ!」
獣の死骸が袋の中にあった。
「棗さん、行軍中に色々集めて、皆に分けてくれるんすよ」
お調子者の王栄が自分に渡された袋を開いてみせる。ただの雑草にしか見えない大量の野の草がぎっしりと詰まっていた。郭茂の袋も同様のようだ。
韓浩の袋の中は副官と同じのようだ。
よくよく見ると何処で狩ったのか兎・烏挙句は狸の血抜きした獲物。気色悪さを感じつつも副官はニタリと笑い、皆の沈んだ気持ちを換える為ちょっと悪戯心を起こした。
「なぁ、操、おまえ、これ、食えるか?」
水運びをどのように分担させるか顎をつまんで算段していた、指揮官の目の前に烏だった黒い物体を曝す。いつの間にか子供の時からの呼び名に戻っている。
「夏侯副官、各隊から屈強そうな者を選抜して、水運びを指揮してくれ、沸かし冷ましにしないとならんから急いでくれよ」考えが纏まり副官の方に顔を上げた。目の前の慣れ親しんだ副官はニヤニヤと腕を差し出している。その腕の先に思わず視線を走らせ……「うお!!!」
驚きのあまり身体を仰け反らせ、馬から転げ落ちそうになった。見たこともない……いや、見たことはある、なんでこんなところに? という驚きが思考を停止させる。
「あー、すまん、棗祗が置いて行ったモンを食えるか?と、まぁ……」
酷く気まずそうに、兜の上から痒くもない頭を掻きながら副官が説明した。
周りに居た者も気まずそうにし、唯一人は笑いを堪え、沈黙している。
「ゴホン、副官、命令を復唱して取り掛かるように」失態を取り繕うように再度命じ、続けて。「各隊も夕餉の支度を整えるように、思ったより時間を取られてしまった。喰い逸れたり遅れる者の無いように」
「はっ、急ぎ、各隊より屈強の者を選抜して水運びに当たります」
精悍な顔を引き締めて、指揮官の鞍の上に黒い物体を置き、駆け出した。
「はっ。」「承知致しました。」「了解です!」
各屯長達もそれぞれ承服を表明して散って行った。
忙しい夕暮れ時だった。しかも試されていたような気がする。多数の命を預かる者として、一人の男とし
て、だ。ふと、各部隊を連れて行くよう手配してくれた知己の言った言葉を思い出す
「勝手な上にくえん変人とか、口煩い堅物がいるが、まぁ、重宝する連中だ。宜しくやってくれ」
苦笑とも微笑とも嘲笑とも取れる奇妙な表情だった。
……そして、鞍の上に置かれた黒い物体を見る。
「食わにゃ、ならんだろうなぁ……」
指揮官は嘆いた。
彼の名前は曹操、姓を曹、名を操、字──凡そ成人後付ける名──を孟徳。
オボッチャマ育ちの曹操君、カラスは食べられるでしょうか