異変の森1
「実は、憤怒状態になった時の記憶がないんです……」
憤怒状態で手のつけられなかった鬼族の集団を無事おとなしくさせて、ようやく正気を取り戻した彼らに話を聞くと、開口一番、キセンさんはそう言った。
先程激しい戦いを繰り広げた草原から少し移動して、木々の下で雨宿りしながら、私は彼らに治癒魔法を施していた。なんと言っても憤怒状態の彼らの動きを止めるためとは言え、ハクライもミズミも容赦なく攻撃していたから、鬼族の彼らのダメージも相当だったのだ。今話しているキセンさんに至っては、利き腕を骨折しているほどだ。軽い怪我ではないからこそ、ここは私の出番だった。
そんなせわしなく治癒魔法にあたっている私の背後で、そのキセンさんという男性は、ここまでの経緯をミズミ達に話していた。
「この森は以前から行方不明者が出ることで有名でしたが……最近そういった被害情報がやたらと多く……そこで、我ら第八自警団が調査にきていたのです」
「それでこの森にいたのか……。キセン殿が所属しているということは……確かゴウキ殿もいたと思うが……彼は?」
思い出すようにミズミが目を細めると、それを見て鬼の青年ははにかむように微笑んでいた。
「ミズミ様と初めてお会いした時、私は第三自警団に所属していましたが、今は自警団団長として、この第八自警団を任せられている身なんです」
「へえ〜、出世ってヤツだねぇ」
思わずヘラヘラと細身の男が口を挟めば、ミズミもニヤリと微笑んで続けた。
「あの時から実力者だったから、当然といえば当然か」
「ありがとうございます」
やはりまた、はにかむように微笑む男は、照れるように紺色の短髪頭をかいていた。しかしそんな穏やかなやり取りは一瞬だ。すぐにミズミは難しい顔をして口元を押さえ込んでいた。
「……しかし、憤怒状態になったきっかけが分からんとは……。通常鬼族は何か怒らせるような出来事がない限り、そうそう憤怒状態にはならない筈だろう? 場所が場所だけに原因が気になるな……」
そう呟く茶髪の美青年風な人物に、目の前の鬼の青年は俯くようにして口を開いていた。
「私も……自分の仲間達が殺されそうになった時は、憤怒状態に陥りそうになったことがありますが……きっかけが何も思い出せないような状態で憤怒状態になったことはないんです……。あ……ただ……」
と、ふと目を細めるキセンさんに、ミズミが訝しげに視線を向けると、彼は呟くように言葉を漏らしていた。
「森の奥に入って……我々は行方不明者を探していた筈なんです……。その時……やたらと陰の気が強いのを感じて…………ああ、瘴気かも知れないな……なんて思いはあったんですが………………」
そう言って更に目を細め、険しい顔をする男は、必死に何かを思い出すように呟いていた。
「森の開けた所に…………石……いや……石版かな……があって……」
その言葉に私だけでなく、ミズミもハクライも思わず彼の方を向いて目を見開いていた。
「石版……だと……?」
ミズミが身を乗り出すようにして尋ねると、キセンさんははっとしたように顔を上げ、少々困惑気味に頷いた。
「記憶が定かではないんですが……確か、最後に見たのは石版だったと思います……。こんな森の中に石版が……しかも何か書いてあるような人工物があるなんて、女神の神殿みたいなものかと思って気になって……近づこうとしたところまでは……覚えているのですが……」
そう言って再び俯く青年とは裏腹に、ミズミは鋭い目線を従者に向けていた。その視線は強い威圧感を放っていて、見ているだけの私でも怖いと思うほどだ。逆に目線を受けるウリュウは横目で主を見て、観念したように肩をすぼめていた。
「成程な……石版か……。そういうことか……」
何か理解したふうなミズミとは裏腹、ハクライは相棒に顔を近づけて首を傾げていた。
「やっぱりこの森に目的の石版があるんだね」
「の、ようだな」
「……でも……鬼族が憤怒状態になるなんて……一体石版に何が……?」
相棒の問いかけに、ミズミは彼の方を一瞥し、すぐに口元を押さえて呟くように言った。
「恐らくは石版を守る仕組みだろう……。瘴気を放っているのだとしたら、鬼族でなくとも正常な状態を保つのは難しいだろうな」
「それってどうして?」
ミズミの話に思わず気になって、治癒魔法の途中にも関わらず問いかければ、ミズミは私の方もやはり一度だけ見て、すぐに地面を睨むようにして答えた。
「瘴気っていうのは、いうなれば邪悪な陰の気だ。闇族は闇の力を強く持つからこそ、自身が持つ闇の力より過剰に闇の力を与えられれば、その欲や本性を強引に引き起こされると聞く。鬼族なら鬼の本性として持つ怒りの感情を引き起こされ、喰族なら貪食さ、強族なら貪欲さ、姦族なら性欲、と言った具合にな」
その説明は、彼女が首につけるあのガイアサンジスを思わせた。王の証とも言えるこの石は……手にした者に強大な闇の力を与えるし、望めば自分の一族を凶暴にすることもできる。それこそ――自我をなくして愛する人を喰い殺すくらいの貪食さですら――本人の意志を無視して与えることができる「力ある石」だ。彼女の説明に、このガイアサンジスが遺跡の石版に関連しているかも知れないと、ミズミが以前言っていた内容が頭に浮かんでいた。
その間にもミズミの説明は続いていた。
「瘴気はティナのような精霊族なら確実にダメージを受ける。石版に近づくなら注意がいる。……そうだろう、メイカ?」
急な呼びかけに、やはり細目の男は詳しくは答えずに、ため息をついて小さく何度も頷いていた。