ペナルティキッス
「ジントニック。」
「かしこまりました。」
カウンターで深々と腰を下ろし、猫背で水槽のアロワナを眺める。
結局今週も来てしまった。最近は週末必ずと言っていいほどこのBARで数杯ひっかける。
そして土曜日の午前中を棒に振るという生活を繰り返しているのだ。
酒は好きじゃない。特に一人で飲む酒は。それに強くもない。
なのに毎週末は決まってこの席に吸い寄せられてしまう。
「お待たせいたしました。」
目の前にバーテンダーが軽く滑らせながら置いたグラスを無言で受け取る。
続けてお通しのおつまみが置かれる。毎回数種類適当に見繕ってくれるが、スモークチーズだけは絶対にそのメンバーの中に入っている。
当店自慢のスモークチーズなのか、僕が頼む酒に合うから毎回出してくるのかは知らないが、僕の好みだ。こういうちょっとした気遣いが行き届いていてこのBARは気に入っている。
ネオンを透かして淡くバラ色に見えるグラスを横目にまずはスモークチーズを一口。
つかさずお酒も一口。相変わらず美味しくはない。
三十路の僕には彼女がいる。付き合って4カ月だ。
もう4カ月というべきか、まだ4カ月というべきかは人の感性によると思うが、僕はもう4カ月なのか。と思う。
これは何も時間的な長さの話ではない。
何も進展していないのに、もう4カ月か。という話だ。
付き合ってから4カ月。最初こそ愛し合っている実感はあったが、それもすぐに冷めた。
最近は手すら繋がない。会う頻度も半分以下に減った。
お互い良い年齢だろうから僕は将来の話なんかもしたいが、相手にはその気がさらさら無いらしい。いつも軽くあしらわれて終わり。
ここで僕がムキになるのも何かおかしい話だと思ってそれ以上は話を続けない。
幸せを望みすぎているだけなのかもしれないが、何か満足できない日々だ。
だからこうして一人、感傷に浸っているのだ。
「カルーアミルク。二つ。」
「かしこまりました。」
悠長にお酒を嗜んでいると、隣に男が座る。
週末といえども、ここのBARは隠れ家的な店でそうそう込み合うことはない。
今日も例外ではなく、客はまばらだ。十分席に空きはあるにも関わらず男は僕の隣に座る。
それに、一人なのにカルーアミルクを2杯。待ち人でもいるのだろうか。
それなら尚更こんな隣にいるだけで負のオーラが移りそうな僕の隣になんか座る理由がない。どうしたのだろうか。
「お待たせいたしました。」
「ありがとうございます。」
礼儀正しく男はお酒を受け取る。
「お隣よろしかったですか?」
「え?あぁ、どうぞ。」
突然話しかけられたことにも驚いたが、一瞬心の中で彼のことを考察していたのがばれたのではないかと驚いた。
当然心の中で思っているだけだから相手に分かる訳もないのだが。
「ありがとうございます。お近づきの印にどうぞ。」
そういってカルーアミルクを僕に差し出す。
タイミングを見計らったかのように、ちょうど僕のグラスは空になっていた。
「あ、ありがとうございます…」
勢いに飲まれて僕は受け取るしかなかった。
そこで僕は初めて彼の姿に意識を向けた。
白の不規則な模様が特徴的な黒基調のゆったりとしたセットアップ。細身で肌は白く、髪型はマッシュ。美青年を通り越して女性のような見た目だ。年齢はBARに来るぐらいだから未成年ではないのだろうが、言われなければ高校生にすら見える。
「ふふふ。」
彼は目尻を垂らして微笑む。
「誰かと待ち合わせではないのですか?」
「どうしてそう思ったのですか?」
彼は目を猫のようにまんまるにして僕を見つめる。
「いや、カルーアミルク2杯頼んでいましたから…」
「そのカルーアミルクをあなたに差し上げたじゃないですか。」
「まぁ…では、最初から僕に渡す気で2杯頼んだのですか?」
「さぁ、どうでしょう。うふふ…」
「あはは…」
僕は愛想笑いすることしか出来なかった。
そして彼がカルーアミルクに口を付けるのにつられて、催眠術のように僕も一口カルーアミルクを飲んだ。
「カルーアミルクって、美味しいですよね。」
特に話題も浮かばない僕は、彼にそう問いかける。
「そうですよね。懐かしい味がします。」
「奇遇ですね。私もこれを飲むと懐かしい気持ちになります。」
「そうですか。それは奇遇ですね。うふふ。」
「でも、失礼ですがあなたはまだお若いでしょう。それでも懐かしさを感じるのですか?」
「感じますよ。それに、はっきりと年齢は言えませんが安心してください。未成年飲酒ではありませんですから。」
「そうですか。」
「それと敬語はよしてください。ため口でいいですよ。うふふ。」
「初対面でため口は気が引けます。」
「お酒の席ですし、多少は気を崩してもいいじゃないですか。」
「そうですね。お言葉に甘えて。」
彼の謎のペースに飲まれていく。普段は初対面の相手に気を許すことなど滅多にないのに、何故か彼には気を許してしまう。それどころか、初対面とは思えない安心感を覚えてしまう。
特に「うふふ。」という笑い方。元交際相手の笑い方にそっくりだ。それに安心感を覚えてしまうのだろうか。
「ところで、何故あなたはカルーアミルクを飲むと懐かしい感じがするのですか?」
「え?あぁ、それはね、」
一瞬、心の扉を開くのを躊躇する。不思議と安心してしまう彼にでもこの扉はそう簡単には開かない。言うなれば、その懐かしさに浸るのは禁忌の行為にあたる。僕にとっては。
…だが、それでもいいか。彼なら僕をその禁忌から解き放ってくれるかもしれない。そして今の僕の現状を変えてくれるかもしれない。何の根拠もないが、そんなことを思った。
「それはね、まだ僕が二十歳だった頃に付き合っていた彼女とよく一緒に飲んだからだよ。」
「ほう。」
「二人ともまだ二十歳になったばかりで、その頃は大人になったつもりでいたけど、まだまだ子どもだったよ。BARなんて怖くて入れなかったし、そもそも二人ともお酒がほとんど飲めなかった。」
「うん。」
「それでも唯一、一緒に美味しく飲むことができたお酒がカルーアミルクだった。」
「なるほど。」
「それでも一杯で二人とも顔を火照らせていたんだけどね。」
「二人ともお酒弱かったんだね。うふふ。」
「あぁ、弱かったさ。だからこそ飲んだんだ。」
「どうして?」
「二人ともお酒の力を借りなければ愛の言葉を交わすことも出来なかった。僕は彼女のことが大好きだったし、きっと彼女も僕のことが好きだったけど、恥ずかしくて普段はあまり態度や言葉に出さなかった。」
「それでお酒の力を借りてたんだ。」
「そうだよ。あまり良くないことだけどね。お酒の力を借りて二人の未来を沢山語っていたよ。二人で幸せになろうなんて。」
「幸せそうだね。」
「あぁ。幸せだった。今でも昨日のことのように思い出す。あの時カルーアミルクを飲んで語っていた未来が明日にでも来るんじゃないかと思ったりもする。でもね…」
「でも…?」
「それは…」
思わず言葉を詰まらせ、うつむく。
「ごめん。聞きすぎたね。今のことは忘れて。」
僕は残りのカルーアミルクを飲み干した。
「その未来は来なかった。これから先も永遠に来ることはない!」
「…うん。」
「だって、だって彼女はもうこの世にはいないから!」
「…そうだね。」
「彼女は二十歳の冬、交通事故で死んだ。もう、一緒にカルーアミルクを飲むことなんて出来ない。」
「…」
「将来を語ることだって出来ない。」
「…もういいよ。」
「顔を見る事すら。」
「分かったから。」
「声を聞く…」
「もういいって!」
そういうと彼は僕の両肩を掴み、その赤く小さな唇でキスをした。
正直気が動転していて意識的には本当にキスをしたのかどうか定かではないが、五感がキスをしたと言っている。
肩から手が離れ、二人の距離が離れ、久しぶりに彼の顔を見てみると、微笑んでいた。泣きながら。
その表情は、まるであの頃の彼女のような…気のせいだろうか。
「ごめんね。楽しかったよ。今の彼女さんを大切にしてね。」
「…え?」
そういうと、彼女は店を出ていった。
「…え?」
状況が全く理解できない。何が起きた。何も分からない。
ただその場には、キスの感触と、少しの酔い。懐かしい香りが残るだけだった。
そんな記憶が僕の頭の片隅から消えようとしているある日。僕は妻が用意してくれた朝ご飯をいつものように胃に流し込み、「行ってらっしゃい!」の声に「行ってきます!」で答えて家を出る。そして最近よく見かける、白の不規則な模様が特徴的な黒猫に、「行ってきます!」そう言うと、またいつもの日常が始まるのだった。