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及川の見合い

「いやね、及川くん。本当にいい子なんだよ。紗栄子(さえこ)はとても良い娘だから、ね?」


 応接間に閉じ込められて、かれこれ二時間が経過している。

 目の前には上司の森谷(もりや)さんとその妻、森谷夫人が顔面に笑顔を貼り付けて必死に娘の良さを語っていた。

 昼休みを終えて、少し話そうかと応接間に連れて行かれた時は、ひやりとさせられた。

 私が何か重大な失敗をし、それを叱責されるのではないかと思ったからだ。

 現にこの応接間は、社員たちから「説教部屋」という不名誉な渾名(あだな)を付けられている。初めて入る応接間が、来客のためでなく説教を食らうためなど洒落にならない。

 しかし入ってみれば、何故か森谷さんの奥方が控えていた。何事かと戸惑っていると……夫妻の口から出てきた言葉は「見合いの件なんだけど」だった。


 そんなこんなで、二時間だ。二時間も私はここにいる。

 もはや応接間は「説教部屋」ではなく「拷問部屋」だ。


「紗栄子ちゃんはね、本当に素敵な子なの。お料理も上手だし、お裁縫もそこそこできるわ。質素で控え目で、健康的な子よ」

「な?及川くん。絶対に気に入るから。保証するよ。本当にいい子だから」


 これが二時間続いている。

 私は「はあ」とか「えぇ」とか、そんな気の利かない返事を繰り返すばかりだった。革貼りのソファーにずっと座っているので、尻も足も腰も痛い。こんな悪い座り心地のものを応接間に置いているなんて、とんでもない会社だ。

 森谷夫妻は人の良さそうな笑顔を私に向けて、必死に娘の良さを語っているが、正直私の精神は見合いができるほどの余裕はない。


 あの朝刊の一面を飾った記事が、頭から離れないのだ。


 美人中国人占い師猟奇殺人事件。それは人々の関心をさらって行った。

 詳細は伏せられていたが、残虐非道な悪漢によって、あの妖艶で知的な美女は惨たらしい死体にされてしまった。

 会ったばかりで大して親しくもない人物の死は、悲しみより衝撃が(まさ)った。

 私の心には、彼女の死への悲しみより、一人の若者の状態が気になって仕方がなかった。


 佐原は……大丈夫だろうか。


 本来なら彼女と親しい万智さんも心配すべきだろうが、彼女は精神的に成熟した烈女だ。それよりもまだ佐原の精神の方が不安定になっているはずだ。

 初恋の女性を、こんな形で亡くしたのだ。その痛みは計り知れない。

 どうしているだろうと心配は募るばかりだが、何の連絡もできないでいた。

 そんな打ちひしがれた若者に何を言っていいのか分からないし、私の慰めなど空虚なものだろう。

 それに私自身も、目の前にぶら下がる厄介な問題……見合いという問題に直面し、そっちで手一杯になっていた。


「いや、よく分かります。お嬢さんは森谷さんご夫妻から愛情をたっぷり注がれた素晴らしい娘さんというのは、よく理解できました」


 可も不可もない曖昧な言葉で逃げてばかりだ。

 私の言葉を受けて、夫妻は大きく頷いた。


「そうだろう、そうだろう。紗栄子は器量良しだ。ほらほら、美人だろう?」


 見せられた写真は、椅子に掛けた若い女性がこちらを向いて微笑んでいるものだった。何度見たかも分からない写真だ。

 長く豊かな髪をすっきりとまとめ上げ、健康そうなふっくらとした頬が可愛らしい女性だった。美人というより、あどけなさの残る可愛らしい人だ。


「一回でいい、一回でいいわ。及川さん。紗栄子ちゃんと会ってみてくれないかしら?」

「はあ……しかし、私は紗栄子さんより大分歳上です。聞けば紗栄子さんは、まだ二十代と言うじゃあないですか。それなら、私より若く有望な男が相応しいかと……」

「何を言うんだね、及川くん。若者にはない落ち着きが君にはあるんだよ。質素倹約、真面目で誠実。そこを見込んで君に大事な娘と……養女だけど、紗栄子と見合いをして欲しいと言っているんだ」


 ちょっも待って欲しい。今、とてつもなく重大なことを小声で言ってはいなかったか?

 私は戸惑いを隠せず、思わず身を乗り出した。


「ちょっと待ってください。よ、養女?紗栄子さんは、養女なんですか?初耳ですが」

「あら、あなた。言ってなかったんですか?」

「いやあ、忘れていたなあ。これも紗栄子があまりに良い娘で、もうすっかり私の娘になっているからだな」

「まあまあ、あなたったら。そうですね、私たちはすっかり家族ですもの」

「いや、微笑ましいところ本当に申し訳ないんですが、そこ結構重要なところですよ。紗栄子さんの生みのご両親は……」


 森谷夫妻は、養女の紗栄子について語り出した。


 紗栄子は元々、森谷さんの学友の娘さんだった。山形県のとある小さな村の出身だった紗栄子の父親は、なかなか優秀な男で、仙台の学校に進学し宮城県出身の森谷さんと出会った。

 卒業後、森谷さんは東京に出たが彼は家庭の事情があり山形に戻り、そこで家業を継いで結婚し娘をもうけた。

 しかし、紗栄子の父と母は病に倒れこの世を去った。この時、紗栄子はもう大きくなっていたがまだ保護者が必要な年齢だった。

 本来なら紗栄子の祖父母が保護者となるべきだが、高齢でそうするわけにもいかず、森谷夫妻が紗栄子を養女として迎えたのだという。


「私たちはね、紗栄子ちゃんを本当の娘のように可愛がって育てて来たの。私は子供を生めなかったから、娘を持てたことが本当に嬉しいわ。だからこそ、及川さんのような真面目な方に嫁がせたいの」


 森谷夫人の語気が強くなる。私はたじろいでしまった。彼女の隣に座る上司は笑顔で頷いている。その丸い顔が忌々しかった。


「一度よ? たった一度、一度でいいわ。本当に一度でいいから! 会ってみて頂戴」


 人差し指をピンと突き立てて私に迫る夫人の鬼気迫る空気に、私は負けてしまった。


「分かりました……紗栄子さんと見合いをします」


 色恋とは無縁な朴念人が、おばちゃんの押しの強さに負けた瞬間だった。



 それから数日後の週末。私は森谷さんの自宅にお邪魔していた。

 爽やかな秋晴れに恵まれた、心地好い日和であったが、私の心は些かざわめいていた。

 古い平屋の客間で、私は若い女性と上司夫妻と対面していた。

 出された茶を啜る余裕もない。出征し満州で任務に当たった時より、私は緊張していた。

 しかし、目の前に座る森谷夫妻の養女は、写真で見るよりずっと可愛らしく見えた。


 写真ではまとめ上げていたが、今は髪を下ろし緩やかな三つ編みにしている。白いブラウスに赤い毛糸のカーディガンを羽織り、薄化粧を施した顔を恥ずかしそうに俯かせていた。


 清楚な空気をまとった若い女性に、私は年甲斐もなくどぎまぎし、気の利いた台詞の一つも言えないでいた。


「お、及川……誠と申します」

「森谷紗栄子です……」


 彼女の声は小さく、程よい高さの柔らかい声だった。

 自己紹介をして、すぐ会話は途切れた。

 私たちの様子を満足そうに眺めていた森谷夫妻は、二人同時に立ち上がり弾む声で言い放った。


「では、あとは若い人たちで」

「私と妻は別室で寛がせてもらうよ。及川くん、どうぞゆっくりして行ってくれたまえ」


 そう言って部屋を出ていってしまった。見合いとは名ばかりの、ただの放置である。

 初対面の女性と二人きりにさせられて、どうすれば良いのか。私が戸惑っていると、紗栄子は小さく溜め息をついた。


「ごめんなさい、義父が無理を言って……」

「いや、そんなことは……」

「義父は、結構調子が良くて、グイグイと押しが強いんです。義母もそんな感じで……」

「似た者夫婦というやつでしょうか」

「あ、そんな感じ。やっぱり、そう思います?」


 ふわり、と紗栄子が笑い、私もつられて笑ってしまった。

 

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