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妖艶なる中国人美女

 スルメから放たれる香ばしい匂いが充満した部屋に、似つかわしくない美女だった。


 ふっくらと厚い唇に、纏め上げられた艶やかな黒髪。濃く長い睫毛に縁取られたやや垂れがちの双眸は、知的で神秘的な輝きを放つ宝石のようだった。色気のある整いすぎた顔立ちなのに、どこか柔らかな印象を与えるのは、笑顔でくっきりと浮かんだ頬があまりにも優しげで魅力的だからだ。

 真っ青な旗袍(チイパオ)のスリットから覗く形の良い膝とふくらはぎが、男心を掻き乱す。


 片手に炙ったスルメを持っていても、何故か絵になる。彼女に咀嚼されるスルメが羨ましくなるほどだった。


「あれえ!?紅英(ホンイン)さん、来てたんですか?お久し振りです」


 佐原の明るい声で、私は現実に引き戻された。彼はソファーに手を付いて、子犬のようにはしゃいでいた。

 私がどぎまぎしていると、佐原は私の方へと顔を向けにこにこと笑いながら彼女を紹介した。


「あ、すみません。及川さん。この方は母の友人で、横浜で占い師をやってらっしゃる楊紅英(ヤンホンイン)さんです」

晩上好(ワンシャンハオ)。あなたが及川さんね。万智(まち)から色々聞いてるわよ。電電公社のエリートさんなんですってね」


 中国人らしきこの美女は、私たち日本人と同じくらい流暢に日本語を紡いでいた。

 万智さんが彼女に何を話したか知らないが、よく話すような親しい間柄であることは理解できた。紅英さんと万智さんは十歳は離れているだろう。佐原の母親である万智さんは四十代だ。ということは、紅英さんは大体三十代くらいだろうか。

 それだけ年齢が離れていても親しくできるのは、お互いが占い師という特殊な職業だからなのかもしれない。


「ほら、突っ立ってないで座んな」


 万智さんに促され、私は紅英さんの隣にお邪魔した。いつから飲んでいたのか知らないが、二人は酔っているように見えない。

 佐原も万智さんの隣に座ろうとしたが、紅英さんが呼び止めた。


「ほらほら、薫くん。まずはすることがあるでしょう?」


 そう言って彼女は、手を伸ばした。佐原は照れたような顔をしつつも、美女の細く長い指を取り、体を曲げて露出した手の甲にそっと口付けをした。

 その光景に、私は驚きを隠せなかった。

 少年のような明るい佐原が、このような紳士的な行為をしている姿は、普段の彼を知っている身からすると不思議な光景に見えたのだ。

 佐原薫という青年は、父性や母性を掻き立てる愛嬌のある男だが、黙っていればなかなか良い男だ。

 すっきりとした輪郭は爽やかな印象を与え、母親に似た切れ長の目は伏せれば色気が漂う。すっと通った鼻筋は、男らしいと言うより凛としたものがある。

 黙っていれば良い男なのだ、黙っていれば。

 それなりの良い男が美女の手に口付けをする様は、確かに絵になる。


「いやあ、これは何度やっても慣れませんよう。なんだか恥ずかしいですって」


 へらりと笑って、美女から手を離して母の隣に腰を下ろした。先程までの光景が嘘だったかのようだ。


「あら、いつまでも恥ずかしがってちゃあいけないわ。こういうことを自然とできるようにならなくちゃ。良い女を隣に置きたいならね。練習は大事だわ」

「そうさ、美人に触れる機会なんてあんたはそうそうないんだから、今のうちに仕込まれときな」


 ご機嫌に笑いながら万智さんは煙草を美味そうに吸った。

 照れる若者とニヤニヤしている母親を眺めながらスルメをかじり、手酌で湯呑みに酒を注ぐ中国人美女……なかなか異様な様相である。


「来客があるとご連絡して下されば、日を改めたのですが……」

「気にしなさんな。アタシはそんな細かいこたあ気にしないよ」


 いや、私が気にするのだが。それにしても万智さんは上機嫌だ。いつの間にか佐原が用意した新しい灰皿に、短くなった煙草を押し付け、湯呑みに注がれた酒をぐいと飲み干した。


「さて、及川さんよ。アタシに何を相談することがあるってんだい?今日のアタシは機嫌がいいんだ。なんならタダで占ってやっても構わないよ」

「いや、職業占い師に金も払わず占って頂くのは……」

「あら……控え目なのね。なら、私があなたの相談事とやらを当てて差し上げても良くってよ」


 深みのある品のある声で、紅英さんが囁いた。佐原に指を伸ばすと、彼はそれが何を意味しているのか即座に察し、机の上に置かれた細い煙草を差し出した。

 それを口に咥えると、佐原の擦ったマッチで火をつける。

 ふう……と宙に吐き出すその仕草には、悪女のような艶がある。


「そうねえ……あなた、結婚についてお悩みなんじゃあないかしら?一方的に縁談でも持ち掛けられて、どうして良いのか分からないのでしょう。何故ならそれが、あなたにとって断りづらい相手だから……違うかしら?」


 当たりだ。そう、大当たりだ。

 私の体は、おかしいくらい固まっていた。

 この中国人美女の言う通り、私はある人物から秋の始めに見合い話を持ち掛けられた。私も良い歳だ。いつかはそんな話しが来るだろうと思ってはいたが、まさかあんなに濃い夏を過ごした直後に来るとは予想外だった。

 今までのらりくらりと曖昧な返事をして逃げていたが、さすがに限界だ。


「え?及川さん、お見合いするんですか!」

「い、いや……まだ決まっていないよ。上司の娘さんで、写真しか見たことがない」

「なんだい、そんな話しかい。つまんないねえ。そんなもん、とりあえずハイハイ言って受けてみて、気に入らなきゃ適当に理由つけて断りゃいいのさ。気に入りゃ、とっとと結婚してわんさか子供をこさえりゃいい。大団円だ」


 なんとも投げ槍な回答をして、万智さんは新聞紙の包みからスルメを取り出し、七輪の上に放り投げた。独特の臭いが室内に漂い、佐原は然り気無く席を立って窓を開けた。


「そんな投げ槍に言っちゃあ及川さんが可哀想だよ。それにしても、紅英さん。よく分かりましたね」

「私も驚きました。さすが占い師。神通力とでも言ったら良いのか……やはりそういったものですか?」


 私の言葉に、紅英さんは煙草を挟んだ指をひらひら横に振っておかしそうに笑った。


「そんなものじゃあないわよ。勘というやつかしら。私には分かるのよ、結婚を前に悩む人が。私も結婚するのだから、よく分かる。それだけのことよ」


 私は偶然にも窓の側に立つ佐原の顔が目に入った。

 この瞬間、私は彼の気持ちを察してしまった。


 笑顔だった佐原の表情は、紅英さんの言葉を聞いた瞬間……すっと真顔になったのだった。

 それは強い衝撃と悲哀に満ちていた。


 あぁ、なるほど……。


 その顔を見て、私は一瞬にして彼の気持ちを理解した。

 この神秘的な輝きを放つ年上の美女に、佐原は恋心を抱いていたのだと。

 彼の年齢を考えると、恐らくそれは初恋だろう。

 母親の友人に恋をして、出征し命を落とすことなくやっと大人になり、これからという時に……愛した女が誰かのものになってしまう。

 この若者の心の亀裂は、もしかしたら私が想像している以上に深いものかもしれない。

 しかし佐原は、場の空気を乱すことなくすぐいつもの人懐こい笑みを浮かべて明るい声を上げた。


「紅英さん、結婚するんですか?おめでとうございます!いやあ、なんだかめでたいなあ。及川さん、ここは便乗して。ね?やっちゃいましょうよ、お見合い」

「おいおい、佐原くん。簡単に言ってくれるなよ。そんな簡単には決められないよ。私はまだ家庭を持つ覚悟なんて持っちゃいないんだから」

「んなもん、最初(ハナ)から持ってる方がおかしいってなもんだ。家庭を持つ覚悟なんざ、だんだんと出来上がっていくもんだからね」

「そうね、万智の言う通りだわ。私だって結婚するというのに覚悟はまだまだよ。だからこうして、横浜から東京までやって来て、友人と昼間から酒を飲んでいるのだから」


 細い煙草を灰皿に押し付け、酒の入った湯呑みを掲げる紅英さんの姿は、庶民的な道具を持っているのに何故か優雅なものだった。


「もうこれからは、こんなこと出来なくなるんだから、今日は楽しまなくちゃ」

「おうおう、そうしな。こうやって羽目を外すのも大事なもんだ。人生ってもんは娯楽という潤いが必要だ。それがなくなったら、人間はおしまいなのさ。砂漠になっちまう」


 炙られて軟らかくなったスルメを千切り、万智さんは口の中に放り込んだ。


「なるほど。では今日は、紅英さんは万智さんと飲むためにわざわざ東京まで来たんですね」

「お酒だけが目的じゃあないわ。以前から万智に貸そうと思っていた本を持って来たのよ」


 そう言いながら、彼女は机の下に置かれた鞄から三冊の本を取り出した。


 渋い赤茶色の表紙には『封神演義』という題名が書かれていた。

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