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プロローグ 上野の神隠し

 幼い頃に嗅いだ朝の匂いは、どんな季節でも爽やかな心地好いものだった。布団から漂う石鹸と太陽の匂い。枕に染みた自分の頭皮の匂いすら、気持ちの良い朝を演出する素晴らしい要素の一つと化していた。

 それはきっと、すぐ隣に母がいたからだろう。いつも決まって右に体を向けて寝る母は、私がいくつになってもぴたりと体を寄せて小さな寝息を立てていた。

 朝の匂いが好きだったのは、きっと母の寝息と匂いを一緒に感じていたからだ。


 それが無くなって、もう二年は経った。


 今の私は、大好きだった朝の爽やかさも、母の寝息と匂いもはっきりと思い出すことができない。大好きだったということだけが記憶に残っている。

 目覚めた時は決まって()えた不潔な臭いと埃っぽい空気で不快な気分になる。それが自分から漂っているとなれば尚更気分が悪い。

 隣に母はいない。いるのは自分と同じような汚ならしい身なりをした子供だ。母は終戦を目前にして、空襲で焼け死んでしまった。

 それ以来、私はこうして上野の路上で生きている。硬い地面も慣れれば眠れるものだ。

 日差しの入らないこの場所は、秋になると肌寒い。ボロボロになった上着の前を合わせながら体を起こし、汚い手で顔を擦った。


「おい、起きろよ」


 隣で眠る少女の肩を叩いた。起こすためではない。生きているのか死んでいるのか確認するためだ。

 朝になったら死体になっていた仲間は数知れない。親を亡くし浮浪児になった子供の、よくある末路だ。

 幸運なことに、少女は呻くような声を漏らし体を起こした。


春子(はるこ)、もう朝?」

「そうだよ、起きろ。死んでるかと思ったじゃあないか。冷や冷やさせんなよ」

「もう、怖いなあ」

久恵(ひさえ)がいつまでも起きないのが悪いんだよ」


 私より二つ年下の久恵は、十二歳にしてはまだ子供っぽいところがある。

 普通の子供なら良いが、浮浪児でこれでは生きて行くのが辛いだろう。私が世話を焼いてやらないと、こいつは物乞いも盗みもできない。

 まだ眠そうに黒い手で顔を擦っている久恵を横目に、私はポケットに入れていた煙草を取り出し、マッチで火をつけた。以前ここらで商売をしている顔見知りのパンパンから貰ったものだ。

 子供の分際で煙草など……言われそうなものだが、食べ物をろくに口にできないご身分にとって、煙草は貴重だ。一本吸っただけで空腹を満たせる。


「私にも頂戴」


 久恵が手を伸ばした。やるわけねえだろと一蹴したかったが、この大きな瞳で見つめられると私はどうも弱い。

 一口吸って、指に挟んだそれを久恵に渡した。大人の見様見真似(みようみまね)でぎこちなく煙草を吸う久恵の姿は、愛らしい外見に似つかわしくない不自然さがあった。

 髪も肌も、垢と埃や様々なもので汚れているが、久恵は間違いなく美少女の部類に入る顔をしている。

 ふっくらとした形の良い唇に、大きな目。真っ直ぐな眉が顔全体に品を漂わせていた。

 久恵が元々どこに住んでいたのか、どんな家の子供だったのかは知らない。知ったところでどうしようもない。

 過ぎた日を懐かしみ悲しみに暮れ、どんなに涙を流したところで、腹は膨れないし喉の渇きも癒せない。

 私たちのような浮浪児には、過去も未来もない。今しかないのだ。

 今日をなんとか生き延びる……ただそれだけだ。


「お腹空いたね」

「お前はそればっかだな。また駅にでも行くか?」

「また盗むの? 財布」


 そうするしか食っていけないのだから、やるしかないだろう。久恵はこの行為にいまだ抵抗感を持っている。私だって普通に生きていたら、こんな行為をしたくはない。しかし、今の私たちは“普通”ではなくなっているのだ。

 久恵の指から煙草を奪い、大して美味くもないそれを空腹を満たすためだけに吸い込む。

 目の前を行き交う人の群れは、私たちを気にも留めない。浮浪児が私たちだけなら、きっと同情の目を集めただろう。しかし、上野は浮浪児の巣窟と化し、どこもかしこも汚い子供で溢れかえっている。

 大人たちが勝手に始め、勝手に負けて終わらせた戦争の被害者たちだ。

 彼らは私たちと目を合わせないよう顔を伏せたり前を見据えたりしながら、闇市を目指して埃っぽい朝の空気の中を足早に突き進んでいく。

 その雑踏の中から、見知った顔を二つ見つけた。穴の空いた大人用の開襟シャツを着た少年たちだ。


「春子、久恵。おはよう」

「やったよ、握り飯恵んでもらった。分けようぜ」


 栄太(えいた)幸治(こうじ)だった。十歳ほどのこの兄弟もまた、戦争で親を亡くした浮浪児だ。

 年子のせいか二人はよく似ていた。小さな唇とくっきりとした目、そして二人揃って鼻筋がすっと通っている。順調に大人になれば良い男になるだろう。

 よく似てはいるが、それでも違いはある。兄である栄太の目元には小さなほくろがあった。笑うたびにそれが筋肉の運動に従って微かに動く。


「いいねえ、お前らは恵んでもらえて。私はいいよ。お前らで食べな」


 煙草の煙を吐き出しながら言うと、兄弟と久恵は私の横に座り込んで、小さな握り飯を黒ずんだ手で分け合い貪った。


「そういや、また子供がいなくなったらしいぜ」


 幸治の言葉に、久恵はそうなの?と聞き返した。


「他の連中から聞いたんだけど、女の子が何人かいなくなったらしい」

「またなの? 多いよね、なんだか」


 浮浪児が行方不明になるのは、何も珍しいことではない。住まいを変えたか、役人に連れて行かれたか、その辺でひっそりと野垂れ死んでいるかだ。

 しかし終戦以降、私たち浮浪児の失踪には変な噂が付きまとっている。


「それまた、“赤い外套の男”かよ」


 私が聞くと、兄弟は交互に頷いた。指についた米粒を舐めながら栄太が私に顔を向けた。


「そうなんだよ。赤い外套の男が女の子たちを連れて行ったって、みんな話してたよ」


 “赤い外套の男が子供を連れて行く”……まるでおとぎ話のような話だが、現に浮浪児は姿を消している。

 女の子ばかりがいなくなるので、当初は人買いだと思われていたが、最近は男の子も姿を消している。

 その“赤い外套の男”と消えた子供がどんな会話をしたのか、男がどんな顔をしていたかは誰も知らない。


 ただ子供が消える前後に、その男は必ず誰かが目撃している。

 そして気が付いたら子供は消えている。


 上野の神隠し……浮浪児たちはそう呼んでいた。


「ねえ、警官は何も調べてくれないのかな?」

「久恵は呑気だなあ。俺たちみたいなガキが消えても、お巡りは何もしないよ」

「そうさ。どこの誰かも分からない浮浪児がいなくなっても、困る親はいないしね」


 栄太と幸治の言う通りだ。私たちの誰かが明日消えても誰も困りはしない。上野の雑踏に転がる砂粒が一つ失われるだけなのだから。

 それを憂いても仕方がない。垢にまみれ盗みと拾い食いばかりの日々で、恐怖という感情も湧かないほど私は鈍感な糞ガキに成り下がっていた。

 短くなった煙草を地面に擦り付け立ち上がる。そろそろ駅に行って財布の一つでもくすねて来なければ。


「せいぜい気を付けるしかないな。久恵、私は駅に行く。お前は栄太たちと一緒に居ろ」

「私も行くよ」

「鈍臭いお前と一緒じゃあ、盗めるもんも盗めねえよ。栄太、幸治。久恵のお守り頼む」


 二人の少年は大きく頷き、私に手を振った。


 闇市へ行く者、闇市から帰る者、東京に来た者、東京から去る者……上野の雑踏はそんな人間たちで溢れている。

 季節感も情緒もない、ただ臭気が渦巻く人の波の中を、私は物色するように目を凝らしながら歩いた。

 財布をくすねるなら男より女だ。男の方が金を持っているが、女の方が抵抗されても振り切れる。赤ん坊や子供を連れている女なら尚更良い。

 

 さて、どうしたもんか……。


 辺りを見渡して丁度良い女を探していると、擦れ違う人の群れの中に見え隠れする奇妙な色彩が、私の視界に入り込んだ。


 くすんだ赤い外套が……ひらりとちらついた。


 私は思わず立ち止まり振り返ったが、その人物はいつの間にか雑踏の中に消えていた。


 あれが“赤い外套の男”?

 いやいや、そんなはずないだろう。


 私は溜め息をついて、駅に向かって歩き出した。


 しかし昼になって財布を盗んで三人のところに戻ると、久恵たちの姿は消えていた。

 私は闇市も駅前も駆けずり回ってあいつらの姿を探したが、どこに行っても見つけることはできず、とうとう三人は私の前に再び姿を現すことはなかった。

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