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開発と選挙

 ユーシコフ諸島が国連信託統治領となった後、統治委員会によって島の開発が行われる事となった。その第一段階として、首都であるユーシコフ・シティの建設が始まった。

 尤も、島全体の開発も同時に行う必要があり、政府庁舎や各参事国の領事館は仮設となった。9年後の選挙までには計画の建物を建てる予定となっているものの、利便性や居住性の問題があった。


 島の開発に当たって、資材・資金の殆どはアメリカから出た。この頃はまだ第二次世界大戦から復興中であり、特にヨーロッパ諸国及びソ連は被害が酷かった。自国の復興に注力しなければならず、その上製造設備なども被害を受けている為、西側諸国はアメリカから支援が無ければ立ち行かない状況だった。

 その為、参事国の内、英仏蘭ソは参事とそのスタッフを出すだけで精一杯の状況だった。そして、ニカラグア・ホンジュラス・コロンビアは製造業が自国で賄う分も無かったので、必然的にアメリカに頼る他は無かった。

 アメリカが新たな特需及び恒久的な市場の獲得の為、大量の資材・資金・機材を投入した。そして、トラックや重機などの機材の運用には技術が必要であり、その技術を持った人というのは先進国以外では非常に少なかった為、「建設労働者」名義でアメリカは多くの人を送った。建設が完了したら本国に戻る事になっている事から移民では無いとされ、僅か1年で数千人を送り込んだ。


 また、アメリカ本国や日本、ドイツで行えなかった政策を行う為に、多くの官僚が統治委員会の下に入った。彼らの多くはニューディーラー(※1)であった。

 アメリカの動きにソ連は不満があったが、自国の復興や新たな勢力圏とした東ヨーロッパや北東アジアの足場固めが最優先であり、周辺に拠点も無い事から何か出来る訳でも無かった。また、海運力や海軍力がアメリカに及ばない事もあり、不満はありながらも特に行動を起こす事は無かった。

 そして、ニューディーラーの政策は社会主義的・社会民主主義的政策であり、ニューディーラーの中には親ソ的な発言を公言する者もいた。それはソ連にとってはマイナスでは無かった事も、行動を起こさなかった一因だった。


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 資材や労働者の集まりが早かったので、統治が始まって1か月後には第一期計画の工事が始まった。ユーシコフ・シティの建設に始まり、他にユーシコフ海峡の浚渫やユーシコフ・シティの対岸にセラニャ島の開発拠点であるニューコム(※2)の建設、各地の綿密な調査が行われた。豊富な機材の活用によって首都の道路工事と基礎工事は数ヵ月で完了し、航空機によって島の正確な形や地形、何処に移民の集落が存在するかが把握された。

 その後、1949年6月から行われた第二期計画では、ユーシコフ・シティとニューコムを結ぶ橋、ユーシコフ・シティとバボヌエボ島内の各集落を結ぶ道路、ニューコムとセラニャ島の各集落を結ぶ道路の建設がそれぞれ行われた。


 第一期計画関係の工事は1949年の末に終わり、ユーシコフ・シティの政府庁舎及び各種行政機関の合同庁舎、各国の総領事館、国連の連絡事務所などの建設が完了した。また、ニューコムの基礎工事も完了し、一部の庁舎も完成した。

 尤も、この時立てられたのはプレハブであり、建てられた場所も本来の地域の隣だった。数年以内に本来の場所に本庁舎を建設する予定だが、暫くは仮住まいとなった。

 尚、この時建設されたプレハブ庁舎だが、日本で設計されたコンクリート製のプレハブ住宅が基となっている。その為、技術指導や設計の為にユーシコフ諸島及びアメリカに日本人技術者が派遣された。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 第二期計画の目玉はユーシコフ・シティとニューコムを結ぶ橋の建設となった。ユーシコフ海峡は国際海峡として開放される事になっている為、桁下高(※3)は最低60m、橋脚は3つで感染が通る中央付近の支間長(※4)は900m程度、将来的に鉄道を通せる設計である事が条件とされた。

 橋は2つを予定しており、北側はソ連が、南側はアメリカが建設を担当する事となった。提出された設計図では、ソ連側はブルックリン橋と武漢長江大橋(※5)ノウハウはあったものの、長大吊り橋のノウハウが少なかった為、自国外の吊り橋をモデルにせざるを得なかった。その為、アメリカの設計案では


 本来の予定では1951年に設計が完了し、1953年に建設開始、1956年に完成となっていた。それが、1950年の朝鮮戦争の影響で保留となり、同戦争中に発生した限定的核戦争(※6)もあり、米ソ関係が急速に悪化した。その為、工事どころでは無くなり、ソ連が統治委員会からの脱退未遂事件も起こるなど、不安定な状況だった。

 だが、米ソ関係は朝鮮戦争停戦後にある程度の改善が見られ、ソ連も統治委員会から脱退する事は無かった。関係改善後に橋の設計が進められ、1953年の上記の設計案が提出された。委員会で両案が認可され、1955年2月に着工し、漸く1958年8月に北側の橋が完成し、同年10月に南側の橋も完成した。当初予定より2年半遅れての完成だった。


 橋の建設だが両国の威信を賭けた競争も見られ、アメリカが豊富な機材を導入して建設すれば、ソ連は人海戦術で工事を行った。また、共に橋梁用の鋼材の製造用に製鉄所の設備強化や運搬用の船舶の建造などが行われた。ソ連側では別個に高強度のコンクリートの開発も行われた。

 一方で、競争となった事から無理して建設が行われた面もあり、何度も事故が発生している。アメリカは工事完了までに17人の死者を出しており、ソ連に至っては87人の死者を出している。ソ連側の方がはるかに多い理由として、人海戦術で工事を行った事、カリブ海地域の暑さとコンクリートが固まる際の高熱による熱射病が挙げられる。


 尚、米ソは橋の方に注力していた為、都市や道路の建設は英仏蘭などが中心になって行われた。


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 朝鮮戦争やハンガリー動乱、第二次中東戦争などのアクシデントはあったものの、ユーシコフ諸島の開発は進んだ。統治から8年が経過した1956年時点では、首都ユーシコフ・シティとその対岸のニューコムは9割方完成しており、政府庁舎や総領事館も本来の位置に置かれた。各地を結ぶ幹線道路の建設も完了し、農業や漁業、サービス業といった産業の発展も見られた。

 また、統治3年目から学校が稼働し、植民地や周辺地域からの移民向けの初等教育が整備された。欧米からの移民用及び初等教育が完了した人用に高等教育も整備され、識字率の向上も見られている。官僚の育成については欧米への留学となっているが、一部の公務員は現地人を採用するなど、徐々にではあるが行政機関の現地化が進んでいる。

 他にも、石炭火力発電所が建設されたり、ユーシコフ・シティでバスが運行されるなどしているが、電力・交通・水道などのインフラ関係については統治委員会傘下の公社によって運営されている。そして、運営の為の技術者の殆どは参事国からの出向者であった。

 懸念材料としては、第二次産業である建設業が伸びていなかった事である。一応、外資系で繊維業や製粉業などが興っているが、民族資本については貧弱で育成が課題となっている。


 統治9年目の1957年、この年は翌年に独立するか信託統治を続けるかの選挙が行われる都市である。選挙前最後の調査では総人口は672,712人であり、この内選挙権を持つのは満20歳以上かつ統治委員会とその傘下組織の職員とその親族以外の全員とされ、その場合は約58万人が対象とされた。

 投票の焦点は「独立するか否か」であった。この時までに多くの政治団体が設立されたが、その主張は様々だった。独立派は「時代の潮流に乗って兎に角独立」という主張が多く、現状維持派は「官僚の育成が終わっていない事」と「開発が完了していない事」を理由に信託統治の継続を望んだ。

 そして、政治団体の背後には大国が存在しており、独立派には勢力圏拡大を望む米ソが、現状維持派はこれを切欠に植民地独立運動が急速に拡大する事を懸念する英仏がそれぞれ存在した。

 一方で、独立派は親米派と親ソ派で分かれていたり、アメリカが支援している政治団体の中には現状維持派が存在したりなど一枚岩では無かった。

 

 投票の結果、独立賛成が53%、信託統治継続が47%となり、僅差で独立が多数派となった。選挙結果から独立する事が決定したが、信託統治継続派との差は僅かであり、独立は時期尚早と考えている人が多いのも事実だった。そして、独立派の中でも即時独立派もいれば、3年間は統治委員会の下に自治政府を樹立して独立の準備をする段階的独立派もおり、独立派内部だと段階的独立派の方が多かった。

 それらを勘案し、独立は2年後に先延ばしし、翌年に自治政府を樹立するという案が提案された。足場を固めて安定した国家づくりを狙っての考えだった。

 即時独立派はこの意見に猛反発したが、段階的独立派は賛成し、信託統治継続派も消極的ながら賛成した。統治委員会の参事国もソ連は反対したものの、多くがこの意見に賛成した為、この案が採用された。


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※1:世界恐慌後にアメリカが行ったニューディール政策を経験した人物や実際に関わった人物。ニューディール政策そのものがや時勢的に共産主義に対する好意的風潮があった事などから、ソ連のスパイだったのではという人物がいた。史実でも、GHQの民政局で憲法草案の作成などで大きな影響力を持っていたが、民政局のスキャンダルや日本の反共への転換、アメリカでの赤狩りで衰退した。

※2:「新しい(New)」と「共同体(Community)」を合わせた造語。国連と東西両大国が共同して建設する事から名付けられた。

※3:水面から道路・線路などが敷かれている橋桁までの高さ。艦船が橋の下を通る場合、当然これより低い必要がある。

※4:橋脚と橋脚の間の距離。

※5:1957年10月に中国の武漢に架けられた長江を渡る橋。建設は中国だが、ソ連の技術支援があった。

※6:この戦争で、日本とソ連に核が落ちた。詳しくは、本編の『番外編:この世界の日本』参照。

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