統治直後のユーシコフ諸島について
ユーシコフ諸島は、アメリカが領有していたセラニャ礁とバボヌエボ礁に、1948年2月某日に急に盛り上がって出来た。急に島が出来た理由は不明で、急な地殻変動や火山活動の結果などの仮説が立てられたが、どの説も今一つ根拠に乏しく、現在に至るまで理由が分かっていない。
理由が分かっていないが故に、「過去に沈んだアトランティス大陸の一部が浮上した」説や「宇宙人によって創られた」説などが語られた程だった。
尤も、地質調査の結果、周辺の海域の地質と同じであり、遺跡の存在が認められなかった為、都市伝説の域を出ていない。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ユーシコフ諸島は、西のセラニャ島と東のバボヌエボ島の2島から成る。面積はそれぞれ約4,017㎢、約5,031㎢であり、合計で約9,050㎢となる。この面積はプエルトリコより僅かに小さい程度だが、カリブ海地域ではそこそこ大きい。
平地も多く、島の7割方は平地か丘陵地となっている。最高峰もバボヌエボ島のスヴォボードナヤ山(※1)の1,076mであり、他に1,000m級の山はセラニャ島とバボヌエボ島にそれぞれ1つずつしかない。
セラニャ島とバボヌエボ島を隔てるユーシコフ海峡だが、全長は約28㎞、幅は約2㎞、平均水深は30m、最も浅い所で23mと大型船舶が航行可能である。だが、島が出来て日が浅く、暗礁などが存在する可能性から、調査が完了するまでは大型船舶の航行は制限されている。
国連信託統治領ユーシコフ諸島の首都は「ユーシコフ・シティ」と命名された。建設予定地はバボヌエボ島の北西部、ユーシコフ海峡の北側の出入口近くにあるピース湾の奥となった。「ピース」の由来は、『平和的に解決した事』を記念して名付けられた。
ここは湾口が狭く、それでいて湾内は広く、水深も25mと深く、港を置くのに最適な場所だった。また、海峡出入口に近い事から海峡の管理も行い易く、後背に平地となだらかな丘陵地が広がっている事から都市の拡張も行い易いなどの利点がある。
尚、ソ連が最初に上陸した場所は、バボヌエボ島北東部のマヤーク海岸(※2)であった。ここは岩礁だが暗礁は少なく、上陸可能な場所もあった為、ここに上陸した。現地には上陸を記念した木製の看板が立てられ、後に石碑が立てられた。
また、発見から国連で議論されるまでにソ連は資材の搬入を行っており、町の建設を行おうとした。国連で議論に上がった事で建設は途中で止まったものの、信託統治領となった後に資材搬入用の港の整備と島東部の開発拠点として町が建設された。それが「マヤーク・シティ」となる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
島の植生だが、誕生してから1年程しか経っていない為、殆ど植物は生えていない。半年程経過頃にはコケ類が生え始めており、風や鳥、周辺地域の住民によって運ばれた植物の種子が目を出すなどの変化があったが、本格的な草木については暫く時間が掛かると見られている。
それ以外にも、建築資材の運搬で紛れ込んだ事で植物の種子は入ってきているが、島が海中から出てきた為、土壌の塩分濃度が高く、普通の植物では対応出来ず枯れてしまう事が多い。また、ヨーロッパとの環境の違いから育たない例も多かった。
雨による水害や土壌流出を防ぐ為、積極的な植林が行われた。植林用の苗木の多くは、環境が同じカリブ海及び中南米の沿岸地域に生えているものが選ばれた、その為、統治委員会の参事国の内、ソ連以外の7か国から多くの苗木が導入された。その過程で、下草の種子や昆虫、小動物などが紛れ込み、多様な環境の第一歩となった。
土壌は、島の標高が高い所はサンゴ礁由来の炭酸カルシウム質だが、それ以外の場所は海底の土壌由来の火山岩質となっている。火山及び海水のミネラル分が土壌に含まれている為、植物にとって良い土壌と言える。
一方で、土壌の塩分濃度は高い為、前述の通り耐塩性のある植物でないと生息が難しい。その為、暫くは耐塩性が比較的高い作物であるオオムギやトマト、ワタ、アブラナなどの栽培が奨励される事となる。後に土壌の塩分濃度が低下してくると、コムギやダイズ、トウモロコシといった穀物、ヒマワリやコーヒー、サトウキビなどの商品作物が栽培される様になる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
島が出来てから1年も経っていない為、原住民が存在しない。その為、世界各地から移民を募った。無軌道な移民による治安の悪化を防ぐ意味や、受け入れ態勢を整える為、月に5千人まで、年間で5万人までと統制した。多くは統治委員会の参事国から募る予定となっている。
だが、早くも周辺地域の漁民が漁業の拠点を築いたり、農民が自作農を行う為に不法移民する事例が多発した。数は数人から数十人と様々だが、場所や時期などがバラバラだった為、防ぐ事は事実上不可能だった。
当初は警備を強化したり、発見次第出身地域に送還するなどの措置が取られたが、短期間で多数が押し寄せて対応が出来なかった事、出身地域そのものの経済力や統治能力が不安定だった事、都市建設や農場開拓の為の労働力が必要だった事から早くも方針が転換され、アメリカを除く環カリブ海地域からの移民は事実上無制限となった。
その結果、僅か1年で約7万人が移住してきた。殆どが農民や漁民で、多くが自作農や漁業を求めてだったが、一部は建設労働者として従事した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1:島を最初に発見したソ連船舶「スヴォボードヌイ」に因む。ロシア語で「自由な」の意。
※2:ロシア語で「灯台」の意。