02
それからが長かった。
後日会いに行っても、彼女が姿を現すことは無かった。
俺達は、薄い木の扉越しに二言三言話しただけであった。
「またいらしてください」
最後にそう言われたのが収穫と言えば収穫か。
その次の日以降、俺は来る日も来る日も足繁く屋敷へ通った。雨の日も風の日も嵐の日も訪問を一日と欠かすことは無かった。当然である。魔王たる俺の命が関わる事なのだ、本気で挑まなければならない。
彼女とは毎回他愛のない話ばかりをした。先ずは信用を得る事が第一であるが故、焦ってはならない。
さて、そうして俺が屋敷の間取りどころか食器の位置まで覚え始めた頃の話である。
我が勇者ベアトリーチェがぽつりと言った。
「ブリリオ様は」
ブリリオとは、現界での俺が名乗っている偽名である。
「何故、私を勇者に」
釣れた。俺はそう思い、精一杯の魔王スマイルを作った。扉の先の彼女に見えているとは思わないが。
「私が魔導学院の出身であることは前に、お話ししましたよね」
「ええ、十一日前に」
よく覚えているな。頭の端でそんなことを考える。
「そこでは相手の力量、つまり魔力の総量を見抜く為の訓練をするのですが」
「ええ、七日前に仰られていました」
本当によく覚えているな。流石は我が勇者と言ったところか。そう考えながら、俺は話を続ける。
「私は少々目が良いらしくて」
「それは初めて聞きました」
「今の総量だけでなく、将来成りうる可能性、つまり潜在能力と言うものもある程度分かるのです」
俺がそう言い切った後、何時も相槌を打っていたベアトリーチェは暫く沈黙していた。恐らくは、言われた事を自分なりに分析して理解しようとしているのだろう。
彼女は田舎貴族の次女であり、箱の中の箱入り娘である。しかし、決して愚か者では無い。それはこれまでの会話の中で分かった事である。
寧ろ、殆ど外に出たことが無い所為だろうか、知識欲は人一倍有る様な気がするのだ。
数拍の沈黙が終わり、彼女は扉の奥で弱々しい声を出す。
「つまり、私にその様な才能があると」
「その通りでございます」
ベアトリーチェには魔王を倒しうる潜在能力が眠っている。それは魔王たる俺が直々に太鼓判を押す絶対の真実であった。
しかし、それを我が勇者に言える筈も無い。
「そうは、思えません」
彼女の声は弱々しかった。
「私はこれまで一度も、魔術と言うものを扱ったことがございません」
「それはそうでしょう」
俺は微笑んだ。
「いくら才能があろうとも、磨かねば光らぬ宝石と言うものもあります」
「宝石」と少女が呟く。
「ええ、私から見ればお嬢様は勇者の原石です」
魔力と言うのは根源的なエネルギーであり、ありとあらゆる物質に宿っている。何処かの派閥では、魔力が魂そのものであると言う説が囁かれているらしい。
その総量は物質の欠片一つ一つを取っても、個体差と言うものが存在するのだ。
総量を杯で例えてみよう。
普通の人間には雨粒一つ分程度の大きさの杯しかない。これでは碌な魔術は使えない。一方、一般的な魔導士となるとそれがコップ一杯程度にはなる。大魔導士となると桶にはなるだろう。因みにその基準で言えば俺は大海となる。
そして、彼女は湖だ。静かな水面は小波一つ立たせず、穏やかに月の光を映しこんでいる。海より狭いが、それは深い。この星の心臓を突き刺しそうな程深い彼女の湖は、しかし己を誇示する事無くただそこにある。見ようによっては荒れ狂うこともある海よりもよっぽど美しく映るだろう。
それが俺が彼女を選んだ理由の半分だった。
静寂の美姫は扉の奥で沈黙している。
「もし」
穏やかな湖が、僅かに揺れる。
「私がブリリオ様の仰られた様な存在だとして」
少女の声は不安に揺れていた。
「魔王を倒せる存在だとして」
そう言った後、少しだけ躊躇う様な間が空く。静まり返った屋敷は、俺達以外誰一人として存在していないかのようにも思えた。
しかし、やがて彼女は意を決して言い切った。
「魔王、と言うのはそれほどまでに打ち滅ぼされなければならない存在なのでしょうか」
「と、言いますと」
当たり前だろう。そう飛び出そうになった言葉を抑え込み、俺は努めて穏やかに聞いた。そう言った反応は想定済みだ。その筈だ。
「私が世間知らずなだけであるかもしれませんが」
少女は恐る恐ると言った様子で言葉を紡ぐ。
「その魔王、の所為でこの現界が危機に陥っている。と言う様な話は聞いたことがありません」
「それは彼の地による被害が当たり前の事となっているからです」
俺はきっぱりと言い切った。当然の事なのだから、気にする必要は無い。
「彼の地には殆どと言っていい程、資源がありません」
大地は痩せ細り、作物など育たない。肥料を撒いても栄養は地の底へと吸い取られ、地表の住人への恩恵などありはしない。大気中の毒素を持った魔力が弱い生物から駆逐してく為、家畜も同様だった。
成程、神に見捨てられた土地、と言う別称は実に的を射ている。いや、蔑称か。
「その為、彼の地の住人達は常にこちら側の資源を狙っています」
食料、魔石、何でもいい。生活の為の資源は何時だって足りない。魔王だって贅沢は出来ない。死にゆく土地だ。終わりゆく大地だ。それが遺界だった。
「資源強奪の際に、多くの民が犠牲になることもあるでしょう」
一応、強奪をする際にはスマートにやれと指示を出しているが、手際の悪い奴や野蛮な奴は余計な被害を撒き散らす事がある。魔王軍の中でもそういった傾向は非常に強い。所謂タカ派と言うべきなのだろうか。
かといって、強奪を止めればたちまち遺界の民は飢えてしまうのだから困ったものである。
「ですが」
尚も少女は反論する。
「他に、道は無いのでしょうか」
「道、と言いますと」
「例えば、丸ごと移住するとか」
俺は微笑みを作った。
「お嬢様」
「はい」
「体中から毒素を撒き散らす物を、領地に迎え入れたい者がどこにいるでしょうか」
少女はぐっと押し黙った。
例えば、遺界の魔人達がここに居る人間種と何も変わらなかったら、そう言った道もあったのだろう。
しかし、現実は違う。
魔人達は長く病んだ土地にいた影響からか、それとも元々そうだったのかは分からないが、体中から毒素の高い魔力を撒き散らす体質なのである。
更に言えば、魔人達にとっても現界の空気は毒である。俺の様な裏技を使わなければ、長時間現界で活動する事は自殺行為に等しい。
光と闇は交わらず、調和の道も無い。
「二つの地が交わる方法など、無いのです」
俺は言い切った。そんな道があれば、古の賢者たちがとっくに見つけ出している。
実際は違う。ただそれだけの話である。
「ですが」
扉の奥に居る少女は尚も口を開いた。意外に頑固な性格らしい。
「態々、魔王を切り捨てなければならない必要は」
「抑止力でございます」
「抑止力?」
「ええ」
扉の奥から唸る様な声が聞こえる。俺は何も言わず、影の様に彼女の言葉を待った。彼女は賢い、ならば俺の言いたいことに気づくだろう。
そう長くない間の後、彼女は言った。
「つまり、勇者と言う武力をちらつかせる事で、強奪を抑えると」
「流石でございます」
「魔王を倒すのは、その力を示す為、と」
「その通りです」
魔王と言うのは、大なり小なり遺界で畏怖される神のような存在である。
そんな存在を打ち倒す程の力が現界にあれば、嫌でも魔人達は慎重にならざる得ない。早る様な者は勇者に滅ぼされるだけだ。
そう言うと、扉の先の空気が少しだけ冷えた様な気がした。
「貴方は」
少女は、ベアトリーチェは僅かな険を込めて俺に問う。
「あったことも無い人を、殺したいと言うのですか」
蟀谷が引き攣った様な気がした。
魔王の勘が告げている。ここで下手なことを言えば彼女と俺の間には今迄とは比べ物にならない程の溝が出来るだろう、と。
それだけは、それだけは防がなければならない。
再び静まり返った空間の中で、俺は次の言葉を紡ぐ。痛い程の静寂を早く終わらせたかった。
「俺は」
覚悟を決めて扉を睨む。その先の言葉を、彼女は静かに待っていた。
「俺の両親と兄妹は、魔人に殺されました」
ベアトリーチェが僅かに息を呑んだ。俺は畳みかける。
「復讐心が無いと言えば、嘘になります」
そう言い放ち、俺は口を噤んだ。それ以上は何を言っても嘘になる。だから俺は彼女の言葉を待った。
長い、長い沈黙の後、彼女は言った。
「……今日は、お引き取りください」
俺はまだ、彼女との間にある糸が切れていないことを確信した。
「明日、お伺いします」
俺は頭を下げたあと、踵を返した。
因みに言っておくが、俺は今、何一つとして嘘は言っていない。