whale of fortune
朝、目を覚ますと僕の部屋に本物の鯨が浮かんでいた。体長一メートル程度の彼は悠々と僕の部屋の天井付近をおおきな風船みたいに泳いでいた。
「ねえ」と僕は鯨に声をかけた。
「なんだい、お前」と彼はふてぶてしく言った。
「ここで何してるんですか」
「見てわからんのか、泳いでいるんだよ」と鯨はそれがさも当たり前の事だといわんばかりに悠然と言った。
「ここは僕の部屋だ」と僕は出来る限り語気強く主張した。
「だからどうした」と鯨は言った。「お前みたいな人間に我らの泳ぎを妨げる権利も資格も主張もない。たとえここがお前の部屋だろうがなんだろうがだ」
「とにかく早く出て行ってください」と僕は弱弱しく主張した。
「その時がくれば出てゆくわ、お前なんぞに言われずとも」と鯨は潮を少し噴いて言った。
「その時っていつですか」
「わしにはわからん。だからお前にもわかるはずはない。それは神の意思だ」と鯨は言った。「二分後かもしれんし、五年後かもしれん。そんなことはわしにはわからん。わしはただ時が来るまでこうして泳ぐ事しか知らんのだ」
「そんな身勝手な」と僕は嘆いた。「僕には僕の生活がある、悠長にいつまでも他人にいられては困る」
「うるさい」と鯨は低い声で言った。「それにわしがいて困る事も無かろう、お前はわしがいる事で何も不自由はしないだろう?わしは上、お前は下だ。なんの心配もない」
「だからといって鯨が部屋にいるのは困る」と僕は両手を広げて言った。「これじゃプライバシーの侵害だ。もしメディアが嗅ぎつければどうする。僕の生活はめちゃくちゃになる」僕はソファーを殴った。
「プライバシーの意味はわからんが」と鯨は首を傾げて言った。「とにかくわしは時が来るまでここを出るわけにはいかん」
僕はため息をついてベッドに転がった。いつだって鯨はこうだ。自分以外のことなんて考えちゃいない。こんな風にして強制的に僕と鯨の共同生活が始まった。
毎日鯨は僕の事なんて一向に気にせず、悠々とその身を空間に漂わせていた。たまに彼は逆さまになって僕に潮を噴きかけたりした。おかげで僕の部屋のカーテンやシーツや雑誌はことごとくゴミ捨て場に直行する事になった。鯨がやってきてから僕の給料の三十パーセントは汚れた生活用品を買い換えることに使われるようになった。僕はある日その事に耐えられなくなって鯨に猛抗議したが、鯨は聞く耳を全く持たなかった。一時間くらい僕が怒鳴っていると鯨は尾びれで僕を思い切りはたいた。僕は壁に思い切り叩き付けられた。
「うるさい」
それだけ言うと鯨はまた潮を噴いて寝てしまった。僕は何も言わずに濡れたシーツをゴミ箱に入れ、ソファーを拭いてその上で寝た。
ある時僕が仕事から帰ってテレビを見ていると突然彼が騒ぎ出した。その時テレビに映っていたのは大海原だった。僕はテレビの音を消して雑誌を読みながらただ眺めていた程度だったので、彼がいきなり騒ぎ出した理由がわからなかった。
「どうしたんだ」と僕はポテトチップを齧って訊いた。
「見ろ」と鯨はテレビの画面をひれで指して言った。「ものすごいかわいこちゃんだ」
そう言って鯨は部屋の壁をびたんびたんと尾びれで叩き回った。
「どこが?」と僕は興味を持って訊いた。
「あの腰から尾びれまでの曲線、妖しい目つき。子供をたくさん生んでくれそうな下半身。たまらん」と彼は言った。
「ふうん」と僕は曖昧に言った。鯨はそれが気に食わなかったのかまた壁をびたびた叩き始めた。電灯が揺れて部屋いっぱいにほこりが舞った。
「頼むからやめてくれ、苦情が来る」と僕は耳を押さえて言った。まだ暴れたりない鯨はぶおおと言って壁に数回頭突きをし、そのまま気を失ってしまった。僕はため息をついてテレビを消し、風呂に入ってビールを二本飲んで寝た。
鯨との生活は思ったよりスムーズに、長く続いていた。彼の言う、その時が来るのはいつなのか、僕はあまり気にしなくなった。僕には友達もあまりいないし、彼女だっていない。部屋に来る人間はせいぜい新聞の勧誘と鯨が暴れたときの苦情おばさんくらいだ。僕は鯨との共同生活をだんだん当たり前に感じるようになっていった。鯨も僕の部屋に来た当初からは大分僕に慣れたようだった。僕が生のいかを買ってきて空中に放り投げると、鯨は狭い部屋の中で器用に体を動かして移動し、素早い動きでいかを食べた。周りの人に気付かれないようにカーテンを締め切った生活にも僕は慣れていった。鯨もそういう僕の行為を快く感じたのか、ぽつりぽつりではあるが自分の昔話をする時があった。
「のう」
「どうした?」僕はベッドに寝転んで雑誌をめくっていた。
「わしには嫁さんと、それに子供が二人おるんだ」と鯨は言った。
「お前大人の鯨だったのか」と僕は訊いた。
「そうだ。海に帰ればわしは今の五十倍ほどの大きさだ」と鯨は言った。「なぜか陸に上がると小さくなる。鯨の七不思議のひとつだ」
「それで、奥さんと子供はどうしてるの?」
「わからん。大方他の男でも見つけてのうのうと暮らしておるかもしれんな。子供たちももう独立して孫がおるかもしれん」と鯨は悲しそうにため息をついた。
「早く戻りたくないのか?」
「わしだって海に戻りたい。こんなに狭いのは辛い。しかし、時が来るまではわしはここにおらにゃならん。それが決まりだ」
「前から気になっていたんだけど、それはどういう決まりごとなんだ?法律みたいなものか?」
「いや、違う。法律はもちろんわしらにもある。餌の魚を食べ過ぎるなとか、他の海域に出張するときには役所に届けるとかな。そういうのは鯨にだってもちろんある。しかし、これは法律みたいな種族ごとに決まっている小さなものではないのだ。なんというか、お前たち人間が生まれるはるか以前から、地球に生物が生まれて生存競争を始めた頃からの流れのようなものなのだ。地球に息づくとても大きな決まりごとなんだ。わしらはこれに逆らう事は出来ん。遺伝子にそう組み込んであるのだ。わしらはいつだって自然に身を寄せて暮らしておるのだからな」と鯨は言った。
「鯨もなかなか大変だ」と僕は同情した。
「そうとも、お前たち人間よりよほど大変だ」と鯨は言った。久しぶりに長々と喋って疲れたのか、鯨は潮を窓の外に向かって勢いよく噴くとそのまま気持ち良さそうに眠ってしまった。
「身勝手な」と僕はため息と一緒に呟いて寝た。
ある日の真夜中、僕がビールを飲んでそろそろ寝ようとベッドに入ると突然鯨は言った。それは慣れきっていた日々の中で唐突に起こったことだ。
「わしはもうすぐ死ぬのかもしれん」
「どうしてそう思う?」と僕はびっくりして訊いた。
「何かが告げておる。わしはとても怖い」と鯨は言って潮をほんの少し噴いた。
「大丈夫だよ、そのなりしてかわいいこというんじゃない」と僕は茶化した。
「お前にはわからんだろうな、この感覚と言うか、直感と言うものは。お前たちは道を外しすぎている」
「そうかもしれない」と僕は同意した。「鯨の意見に賛成を表明する」
「とにかく、わしが死んだらあとはよろしく頼む」
「ちょっと待ってくれ」と僕は言った。「お前が死んだらどうするんだ」
「なに、海に返してくれればいい」と鯨は簡単に言った。
「冗談じゃない」と僕は嘆いた。「誰がそんなことできる。お前を運べるとでも思うのか、この僕が」
「とにかく、頼む」と言って、鯨は上半身を器用に折り曲げた。
「できるかどうかわからない。約束は出来ない」と僕は精一杯のイエスを言った。
「悲しいな」と鯨は言った。
「なにがだ?」
「わしも、お前もだ」
「そうかもしれない」
「そうだよ」と鯨は悲しそうに言った。そして寝入った。
「身勝手だ」と僕は嘆いた。そして僕も寝入った。
次の日鯨はアパートの壁一面に潮の書置きを残して消えた。
「わしは帰れることになった。世話になった。カルロス」
「カルロスとは、西洋かぶれが」と僕は言った。もちろん、書置きを呆然と眺めていた僕の近くに大家が来て、散々しかられて休日返上で僕は壁の掃除をした。潮は思いのほかこびり付いていて土日を全部使って綺麗にした。鯨はいつだって身勝手だ。こっちのことなんかちっとも考えちゃいない。掃除を終えた日曜日の午後、僕はアパートの屋根に上って海の方向を向いた。太陽が山に沈んでいくところだった。僕は笑顔で言った。
「カルロス、お前は身勝手だ」
その後僕は屋根にビールを半ダース持って上がり、三時間ばかりかけてゆっくりそれを飲んだ。そのうち冷えてきてくしゃみが出たので部屋に戻って寝た。
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