プロローグ
パソコンの電源を切ると、そこに自分の顔が写っていた。腫れぼったい目の下には油性ペンで描いたようなくまができ、髪はゴミやら皮脂やらが固まって一塊になっている。
この前風呂に入ったのは一週間位前だったと思う。食事も丸二日取っていないだろうか。まぁ、その記憶も曖昧でハッキリとは断言出来ないが。
しかし、俺にはそんなことはどうだってよかった。だって、今この場所に居るのは仮の自分だから。本物の自分はパソコンの中であの広大な大地を冒険している。
だから、今は夢の中の話だ。宿屋に泊まっている時だけに来る妄想の休息所。目覚めればこちらの世界のことなんてキレイサッパリ忘れている。よって、息抜きをするだけなら、こちらの自分を手入れする必要はない。
俺はパソコンに写りこんだ自分に語りかける。
「……お前もそう思うだろう」
暗い画面の自分は、ゆっくりと頷いた。
「……うん、その通りだ」
「だよなぁ。お前もそう思うよな」
ほら、こいつも肯定してくれているだろ。なら良いじゃないか。ちゃんと許可は取ったんだから。
重たい身体を引きずって壁際のベッドにもたれこんだ。へたれてカチカチになったベッドでも、床に寝るよりはましだろう。というか、そもそも床はゴミだらけで寝られる空間なんてない。さすがの俺でもゴキブリやネズミなんかと一緒に寝るのは御免だ。
自分の体臭にまみれた掛布団を足先でひょっと取ると、それで肩までを覆った。また、起きればあの世界だ。次は、どんな強敵とやり合うことになるのやら。
そんな風に、まだ見ぬ強者に想いを馳せて眠りについた。
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食べかすだらけの床。人いきれで汚れた空気。騒がしいおっさんの笑い声に満ちる店内。そんな古ぼけた酒場の一角に俺たちはいた。
「……とまぁ、俺が覚えてるのはそこまでだ。あの後死んじまったのか、それとも俺の記憶がないだけで生きてたのかは分かんねぇんだけどな」
机を挟んだ正面に座っているのは初老の男。名前はサヴァン……何とか。年齢はよく知らない。いかつい顔に色黒の肌。肩にかかる位の黒髪に白髪が混じり始めている。
コイツと俺との関係をざっくり説明すると仕事仲間だ。相棒と呼んでも差し支えない。
「ふぅん、お前の作り話にしては変に説得力がある話だな……詩人にでも頼んで作って貰ったのか?」
傷とタコにまみれた手で木製のジョッキを傾けるサヴァン。むき出しの二の腕がむくりと膨れ上がった。
「何回も言わすなって! これは本当の話なんだって言ってるだろうが」
サヴァンは口髭についた泡を拭う。
「嘘つきは皆、そう言うんだよ」
「俺は嘘つきじゃない!」
サヴァンを睨み付け、俺は麦酒を飲む。ホップの香りが鼻から抜け、シュワシュワと喉を流れていく。
「じゃあ聞くが……この前どっかの誰かさんが飲んだくれて語ってた、ドラゴン退治の話は嘘じゃないってのか?」
サヴァンはジト目でこちらを見てきた。コイツは変に記憶力の良い所があるから油断ならない。
「それは……売り言葉に買い言葉で、つい」
気まずくなり視線をカウンターに向ける。その中には、忙しそうに作業をするババアの姿があった。いつもみたく客に暴言を浴びせている。まぁ、こんな時間に来てる客の方もろくなもんじゃないが。
「ほれみろ……そんな奴の言うこと、信じられるかよ」
「でも、これは本当なんだって!」
真剣な感情でそう訴えるが、
「問答無用。ご主人、勘定頼む!」
「……あいよ」
寡黙な親父さんとレジの方へ行く。
「おい、ちょっと待てって!」
俺の呼びかけを無視して、サヴァンはさっさと自分の代金を支払い店の外に出ていった。
俺も追いかけて店の外に出る。今まで暗がりにいたせいで、日光に目が眩んだ。
「くっ……聞いてんのか!」
「良い仕事を見つけたら教えてくれぇ!」
後ろ手を振りしっかりとした足取りで帰っていくサヴァン。その背中に、俺は声を張り上げて言い返す。
「絶対教えてやらねぇからな!!」
「信用してるぜェー!」
そう言って、サヴァンは曲がり角に消えた。
「全く、都合の良いやつだ……」
俺はため息をつく。と、
「ホント、あんた達って仲良いねぇ」
いつの間にかババアが横に立っていた。年増の割りに顔や手の皺は少ない。いつからそこにいたんだか分からないが、毎回の事なのでいちいち驚きはしない。
「……どこがだよ」
ババアに吐き捨てるように言って俺は席に戻る。茶色く変色した机の上には、少し温くなってしまった麦酒。それを一口飲んだ。
「……どうせなら、俺の分も払っていきゃあいいのに」
全く、アイツって奴は……。それから暫くの間、愚痴りながら麦酒を飲んでいた俺だった。
///
前世の俺はこういう世界を羨んでいたのだろう。だが、この世界で良いことがあった試しはない。
何をするにしても時間はかかるわ、お金はかかるわ、心身共に疲れるわ、何より生きるのが大変だわ……一体どこに羨ましがる要素があるってんだ。言ってみろよ前世の自分。住めば都なんて嘘っぱちだ。
酒場でたらふく飲んだ俺は、千鳥足で街外れにある自宅に帰る。
蔦の張りついた黄土色の壁に、血を塗りたくったような赤い屋根の家。そこの虫食いにあった木製の扉の鍵を開けて中に入る。すると直ぐに、狭っ苦しい部屋が姿を見せた。
基本的に、部屋には必要最低限の物しか置いていない。水瓶と、ベッドと、机と椅子と、それから武器と衣服を入れる箪笥。にもかかわらず、手狭に感じるのは箪笥がデカイからだろう。この箪笥には部屋の三分の一を占領されている。そのせいで窓は片方しか開けられない。
「ハァー、寝よう」
俺はパパっと服を脱ぎ捨て、ベッドに転がり込む。そして、茫然と天井を見上げた。
「……ついてねぇな、今日は」
さっき組合の方にちょこっと顔を出してきたが、良さそうな依頼はなかった。
組合というのは、大雑把に説明すると何でも屋みたいなものだろうか。家事手伝い程度の軽作業や、反対に害のある生物を駆除する重労働なんかが日々掲示板に貼り出される。で、俺らはそこの依頼を解決して日銭を稼いでいるという訳だ。
俺は体勢を変え壁の方を向く。
この生活で必要な事は楽観視する事だ。変に思考すると何でもない事に足を掬われてしまう。それで死んでいった人間を何人も見た。
弱肉強食――弱かった奴は死んで、強かった奴は生き延びる。
この絶対法則は、この世界でも適用されているらしかった。
ありがとうございました。