1刺青の花
世は徳川様の治世を三十代数えまして、世も末、世も末とは遠く鎌倉の昔から言われていることでは御座いますけれども、いよいよ乱れてくる世の中に世間の人は皆口を揃えて世も末と言うことで御座います。
さてもその後、「とかく茶なことでなければ世の中面白くないよ」と去る人も言われたことでありまして、巷ではこんな端唄がよく流行ったもので御座います。
柳、やなぎで世も面白う
梅にしたがひ桜になびく
其の日、そのひの風次第
虚言も実も義理もなし
「古い唄流すなぁ、このラジオ」
小間使いの少年はつぶやき、ラジオの電源を落とす。今しがた二階へ登っていった女客の線香が、そのまえで淡く燻っていた。
***
この世ならぬほど美しいものを見たらどうなるか。
香倶耶を前にした人間は、たいていが皆同じ表情になる。
ここは江戸が浅草、夜の花街吉原町。華々しい遊郭が立ち並ぶ、その少し脇へ引っ込んだところの娼館、遊馬茶屋である。
茶屋と言ってもお茶お菓子を出すところではない。その昔は茶屋に飯盛女と呼ばれる下女がいて、そのうちそれらが春をひさぐようになり、いくつかの茶屋は遊郭へと変化していった。その名残で今も看板へ茶屋の名を出すところは多い。
遊馬茶屋はそれほど派手な外装を施さない。場所も通りに面しておらず、客引きもない。それと言うのも、目当ての客しか訪れないからだ。ここは陰間専門の娼館なのである。
陰間とはいわゆる男娼、遊女の男版である。
精通前の少年から二十歳過ぎまでを集め、鍛錬を施した後、主に男客へ売るのだ。だいたい十五くらいまでを『蕾花』、十八くらいまでを『盛花』、そこから二十台前半くらいを『散花』と呼び、その寿命は娼婦よりも短い。
歳が行くと今度は女性の客が多くなってくる。それは女性相手の方が色々と気難しい問題が多いためで、それらをこなせるなら若くして女客を取ることもある。
『盛花』の香倶耶もそんなひとりである。
陰間の値段は高い。一晩泊まりで一両、線香一本一切りの時間で銀二十匁。自然とその客は上流階級が主になる。特に香倶耶は遊馬茶屋の最上級な陰間。扱いは太夫なみの香倶耶の客になるには、それこそ山と金を積まなければならない。
ただし――。
遊馬茶屋は異色である。十分の一の金も払わずに、香倶耶の客となれる方法があるのだ。それを知る者は少なく、また紹介も要り、なおかつ客自身にある“資格”が必要だが、事実、とある町医者の紹介と暖簾をくぐったこの女は、規定の料金よりもずいぶん安い値段で線香一本を買い、遊馬茶屋の二階、香倶耶の部屋へと通されていた。
そして現在、ぽかんとしたまま畳に座り、自失している。
「症状をお聞きしましょうか――」
脇息に肘をついた香倶耶は、艶やかに微笑みながら問いかける。この笑みが余計にいけない。女は質問に答えるどころではなく、ため息ばかりをついている。
長く伸ばし結い上げた髪。滑り落ちるようなこめかみの線。大きくきらきらと光る瞳は歳よりも幼く見せ、それでいてしっかりと結ばれた唇は大人を感じさせる。唇にはすっと紅を引いている。それ以外に化粧らしい化粧はせず、着ている物も落ち着いた藍色の浴衣に着物用の帯を巻くという、最近流行の涼しげないでたちだ。
それでも女と見まごうばかり、いやそこらで気取っている花魁の類などが芋にしか見えぬほどの美しさだ。まなざしが当てられたその場所に春が訪れるような、香倶耶の美貌であった。
「……あ、そ、そうです」
間と言うには長すぎる間をおいて、女は我に返る。上等な着物を着ていた。どこか裕福なところの女中でもしているのだろう、最近は使用人にも贅沢をさせる店が多いと聞く。つい癖で香倶耶は客の値踏みをし、今日は違うのだったと意識を改めた。
香倶耶よりもだいぶ年上の女は、ひどく緊張しながらつかえつつ言葉を続けた。
「わたし、あるお屋敷の女中をしておりまして。いえ、元はこの吉原の遊女でございましたが、お館様に引き抜かれて、まぁ囲われたようなものなんです――」
身の上話から切り出す女に、香倶耶は興味深げにうなずく。この辺も癖だ。
「お館様はその、女性なんでございますが、なんと申しますか男よりも女色を好みなさるお方でして。わたしもよく、夜伽のお相手をいたしますが、どうにも妙なことが最近……」
「つまり、うつされたとお考えですね」
一向に核心へ入らない女の話を、一気にそこへ持っていく。女は目をパチパチさせながら、ひとつうなずいた。
「――そうです」
「お見せ願えますか?」
女は躊躇なく片方の着物の合わせ目をはずし、裸の肩を晒した。白い肌にはあざやかに、花の刺青を施してある。肩から背中へと、まるで生け花をそこへ写し取ったようだ。
見たことのない花だ。蘭のようでもあるし、朝顔のようでもある。茎から葉にかけては肉厚の葉肉植物のようにも思われた。花は黄、赤、橙、紫と、色も豊富である。生き生きと女の肌に咲き誇っている。
「わたし、刺青など入れた覚えはございません」
女は不思議なことを言う。
「いつの間にかわたしの肌にも、この花が咲き始めたのです。見ていると、喰われてしまいそうなほど綺麗なこの花が――」
「なるほどなるほど」
香倶耶はがぜん興味を覚え、身を乗り出した。このような症例は初めて見る。手元の機械を取り、その端末を耳にはめ込んだ。耳栓のようなものから細い線が延び、先端にはなにやら餅のような質感の白い突起が付いている。女はいぶかしむ。
「それは……」
「当代平賀源内様の作です。怪しいもんじゃありません」
「げ、源内様の?」
「ちょいと失礼しますよ。痛くはありません」
香倶耶は立ち上がって女の背に回ると、花の刺青の上へ白い突起をずぶりと差し込んだ。半寸ほども異物が刺さったというのに、女はなにも気づかずに目をしばたいているだけだ。
「ふむ……」
つながった突起から線を通し、耳の端末へ音と情報が届く。聞いたことのない音。やはり初見の存在だった。
これはきちんと情報を取らねばなるまい。突起を引き抜き、香倶耶は備え付けの棚へ向かう。
「ご説明しましょう」
先ほどの端末を仕舞って棚の中から別の小さな機械を取り出し、香倶耶は再び女の前に腰を降ろす。
「まずその刺青、正体は妖物と言う存在です。簡単に言うと一種の病気ですが、その元となるものが普通の風邪なんかとはまるで違う」
「はあ……」
香倶耶は部屋の片隅にしつらえてある、中型の液晶画面と木箱を指す。
「そこのあれ、PCですがね。いまや長屋にも一台と言う時代です、ご存知でしょうが――」
「はあ、わたしも触るくらいは」
「あの中身と同じもの、それが妖物です。二代前の平賀源内が開発した『エレキテル・ネットワーク』、それは奇しくも情報化社会をもたらしたのみならず、古来より不可思議とされてきたもの共をも光の下へひきずりだしたのです」
返事もせずに理解しようと務める女に、香倶耶はここからが肝要、と指を立てる。
「パソコンの中では、どのようなものが動いていると思います?」
「はて……考えたことも」
「僕も原理は理解しませんが、そこでは『言霊』が多様な処理をするそうです。本来言葉として音として用いられたものを、より純粋に高度に機械の中へ閉じ込める――すると言葉では薄い効果しかなかった言霊に、強力な呪力を持たせることが出来るのだそうです」
「それが、言霊式ってものですか?」
「そうその通り。そして最近の研究では、人体の根幹も同じ言霊であることがわかってきています。人がこう、おなかの中で赤ん坊になっていく、その設計図のようなものから始まってね。どう言う病気にかかりやすいとか、果ては性格なんかも言霊式によって定まっているらしい――」
ぞっとしたように女は肩をすくめた。香倶耶は手の中の機械をくるくる回しつつ、続ける。
「その人間の言霊へ寄生する存在、それが妖物です。連中は言霊で出来ている。プログラムの塊なのです。しかし人へ寄生する――まぁ我々は古い言い方に従って、『取り憑かれる』と表現しますが――そうなると人の言霊を狂わし、利用してさまざまな症状を引き起こすことになります。あなたのその花も一例」
「そんな……」
恐怖に凍りついた女の顔へ、香倶耶はまた艶やかな笑みを向けた。光に照らされたように、それだけで女の表情はやわらぐ。手元の機械をよく見えるように差し出した。
「ご心配なく。それを治すために我々のような人間が居るのです。言霊士がね。ようやく妖物も、言霊士も世間に認知され始めた。僕たちは積極的に治療を進めて、その認知を広げたいのですよ――」
だから治療費も格安なのです、と結ぶ。
至高な香倶耶の目標に、女の目は感動で見開かれている。。純粋な性質らしい。よくよく見れば女色の女性が認めただけあって、女の顔も肢体もかわいらしかった。香倶耶はすっとその隣へ身を寄せる。
「少し、試料をいただきますよ」
「はい――」
小さな機械の先端、そこも白い餅のような物体で出来ている。それを女の胸元へ差し込むと、驚いた女は小さく声をあげた。
「あっ……」
「これは言霊を吸い出す機械です。接続部分は妖物の一種から摂ったもので出来ています。害はありません――」
香倶耶の吐息が女の首筋をくすぐる。女は身を震わせる。しばらく待ってからその機械を引き抜き、目の前で振って見せた。
「ほら、入った」
「あ、あの――」
「お館様にお伝えください。あなたのそれは治る、と。その気があるなら遊馬茶屋の香倶耶をお呼びつけくださいと。本日の治療はここまで。元を断たねば治しても同じなのです――」
「は、はい」
密着されてくらくらと眩暈のする風な女は、かろうじて返事をする。香倶耶は、つい、と女のもう片方の肩口から着物をはずした。
「それではお買いになった線香が尽きるまで、お楽しみくださいませ……」
冬の氷を思わせる繊手が、刺青の花をなぞった。