第02話 『産声は言の葉』
エル・ソナス・ディ・エスウーラ。古の言葉で福音鳴り響く神の庭と呼ばれる、大陸の中央から分けて南東側。大森林を抜けた先に拡がる、大陸の二十分の一を占める広大な平野。その中央に位置する場所に大国、グランディアマンダ国は存在する。
この国に住まう者たちは一見すると人ではあるが、その外見は普遍的ではない。ある者は獣のような耳や尾を生やしており、またある者は鱗のようなものが両肘から肩を通り首元まで覆われている。体長が一軒家の煙突ほどもある大男がいれば、少児と変わらない背丈の成人もおり、それぞれを同じ人型でありながら種族として大別している。
衣食住に言葉、習慣習性、宗教、価値観等の、それぞれが互いに異なる文化の垣根を越えて、彼らが同じ土地で共存することが出来るのには理由がある。それは象徴であり、敬服すべき存在であり、平和の拠所でもある特別な種族がこの国を、この大平野を支配しているからだ。
彼らは、“魔人族”と呼ばれた。紅蓮に逆巻く劫火の様に赤く、怒りに波打つ溶岩の様に熱く、生命の歴史と連なりを凝縮した鮮血の様に濃く、強烈でいながら、しかし宝石の様に美しく煌びやかな髪と瞳を持つ種族。魔人族は他種族とは一線を画す力があり、それこそがこの国の長きに渡る安寧の礎だった。
その力は扱う者の意思で変幻自在に形を変えて顕現する。ある時は火と成り万物を燃やし、ある時は死に至る傷を消し去り、またある時は沼を花畑に見せる。彼らはそれを“魔法”と呼び、神から与えられた特別な力と重宝した。だから神は魔人族を愛しているのだと誰かが言う。いや、彼らは神そのものだとも。魔人族の扱う魔法は天まで届き、地の底深くまで響き渡る。戦争になれば凶悪な兵器と化す魔人族の魔法を、誰もが畏怖した。
故に、魔人族が一人、それも長、王子が生まれるというこの上ない吉報に、神の愛子の生誕だと喜ぶ者達がいる。グランディアマンダ国の戦力が大幅に強化されると恐れる国がある。それぞれに思うところあれど、多くの者が喜ばしきことだと、少なくともグランディアマンダ国国民の全てが、王家の新たな生命の誕生に首を長くさせていた。
第02話 『産声は言の葉』
「もっと布寄越して! 煮沸消毒も忘れないで! どんどん持ってきなさい! 全然足んないよ!」
「もう日が昇りそうよ、レティシア様の体力も限界だわ」
「弱音を吐くのはお止めなさい。レティシア様、もう頭が見えています。ここからが正念場ですよ」
城の一室では陣痛に呻く王妃の声が一晩中こだまし、使用人達が幾度も出入りし、掛け声と罵声が飛び交い、目を瞑り声だけ聞くと、野戦病棟のような慌ただしさだった。
部屋の前では愛する妻の激痛に耐える叫びに、焦燥と無力感に苛まれ、落ち着きなく長い廊下を何度も何度も往復する男がいた。名を、グラウィス・サフィアイナ・グランディアマンドという。魔人族の長であり、グランディアマンダ国現国王その人だった。
この世界で力と呼べるもののほぼ全てを手中に収める彼だが、しかし男である故に女性だけに許された神秘の前は形無し。優秀な叔母と皆が付いているのだから何も恐れることは無いと、グラウィスは全幅の信頼を寄せる彼女、そして使用人らに全てを任せ、ひたすら妻と我が子の無事を祈り続けた。
やがてグラウィスの目を陽光が焼き、夜が明けたことを知らせる。まだ生まれないのか。このままでは母子の命に関わると、グラウィスの心に恐怖がよぎったその時、扉が静かに開いた。
「グラウィス様、おめでとう御座います。健康な男児ですよ」
使用人長、叔母でもあるアローネの言葉に、グラウィスは高く跳躍し彼女の頭上を飛び越え部屋に飛び込み、妻の隣で急静止した。グラウィスの突入を感知していた使用人達は既に五歩離れて待機している。愛する妻に抱えられ、すやすやと眠る赤子にグラウィスは目を輝かせた。
「生まれた……生まれたんだなっ! 男の子だってな! 私とレティの子だ!」
「ふふ、ええそうよ。正真正銘、私とグラスの子。おめでとう、グラス」
「「「「「おめでとう御座います、グラウィス様」」」」」
「ありがとうレティ。よく頑張ってくれた。それから皆の砕身に感謝する。我が妻を、息子をよく支え続けてくれた。本当にありがとう」
「「「「「勿体なきお言葉で御座います」」」」」
何度も感謝の言葉を述べ、感無量といったグラウィスだったが、一つの気がかりが頭を過ぎる。そう、赤子が生まれたのなら、必ずあると言っていいほどの反応。
「……産声が聞こえなかったような気がするのだが。おかしいな、聞き逃したのだろうか」
「いいえ。この子ったら、あれだけ私の中に引き篭っておきながら、ごめんなさいも無しに黙って生まれてきたの。いきなり皆を困らせるなんて悪い子だわ」
「産声を上げない赤子はごく少数ですが存在します。念のため“調べさせて”戴いたところ、障害や欠損を抱えている様子は認められません。むしろ……」
いつの間にかレティシアを挟みグラウィスの向かい側に立っていたアローネが説明し、意味有り気に言葉を留め、王子を見つめた。含みのある言い方にグラウィスは首を傾げ、レティシアが悪戯っぽく微笑んだ。
「グラス、ほら。抱っこしてあげて。直ぐに分かるわ」
「う、うむ。しかし、赤子など抱いたことはないからどう抱けば……こう、か? こうでいいのか?」
グラウィスの人生でこれ程恐々としたことはないだろう。自身の何もかもが強大な力が、赤子を傷つけやしないかと体中がこわばっていた。硝子細工を扱うよりも丁寧に胸に抱え、自らの子の顔を瞳に収めた。
「この子が、私の子。私が、父親か。不思議な感覚だ。父や祖父も、私と同じ感覚だったのだろうか……っ!?」
「ね? 凄いわ。多分、アーク御爺様に匹敵するんじゃないかしら」
グラウィスの胸元で無邪気に眠る赤子は、その小さな体に途轍もなく膨大な可能性を秘めていたのだった。不安と恐怖から幸福と歓喜へ、そして驚愕へ至りと自身の心を慌ただしく騒がせる息子を食い入るように見つめ、グラウィスは深い感慨と共に、将来への大きな期待に胸を躍らせるのだった。
「グラス。名前を呼んであげて」
「ああ、そうだったそうだった。だが、この子の名を最初に呼ぶのが私でいいのか? こういった時は母親の方が先じゃなかったか? いや神に祈りを捧げてから、そうなると祖父に伺いを立てて」
「グラス落ち着いて。何か他の迷信と混ざってるわよ。それに、こういうのに後とか先とかは無いの。さあ、玲瓏たる魂を。剛毅たる精神を。金剛の肉体を。我等が愛子へと、福音と共に授け給え」
レティシアの述べた言葉は、この国の初代国王の力にあやかれるようにと、大昔に何者かが作った祝言である。いつの間にか国民の間で広く浸透し、今では子が生まれ名を付ける際に必ず述べられる言葉となった。グラウィスは少々緊張した面持ちで喉を鳴らし、息子の存在を言葉として、はっきりと告げた。
「……リオスクンドゥム。今日からお前の名は、リオスクンドゥムだ。古い言葉で、“新たな太陽”という意味を持つ。自らの輝きを持って道を照らし、皆の導となってくれ」
魔人の王族に新しく加わったのは王子である。それも初代国王に比肩するほどの才を持っている。王、王妃に負けぬほどの喜びに溢れるグランディアマンダ国では連日祭りが行われ、暫くは熱気が止まないだろう国中が盛り上がっているのに対し、王子周辺は穏やかと言うには静かすぎる日々が続いていた。
何故なら王子、リオスクンドゥムはあまりにも大人しい、大人しすぎる赤子であったからである。誕生から数え既に七日目を迎えたが、王子は一度も声を発しっていなかった。
母のレティシアや父のグラウィスが席を外し、傍を離れてもぐずることは無い。腹が空く苦痛に泣かない。粗相をした後の不快感を訴えない。夜泣きすることすらもない。大きな物音がたった際も多少驚く姿は見せるものの、それでも無言のままだった。
普通の赤子に比べ、人や物に対する反応が明らかに薄く、王子の出自祝いに納められた数々の高価な贈り物も玩具も、リオを沸かせることは適わない。何かしらの病を患ったのではないか。そう考えた側近らは医師を手配したが、何の異常も見当たらず、一般的な赤子より体重もあり、むしろ理想の健康状態である、ということが分かっただけであった。
そんな心配を抱かせる王子でも、容姿端麗な王と王妃の素養を持ったその表情は実に愛くるしく、誰が触れても嫌がる素振りは見せないこともあり、リオの身の回りの世話を仰せつかった使用人達は惚れ込んでより一層仕事に励んでいたが、無表情な王子の様子に不安を拭えない者がいるのも確かだった。
それでも特段目立つような事件も起きず、国中の乱痴気騒ぎの余韻も鎮静し、変わらない何時もの日常が戻って一月がたった頃。王子に秘められた才能が周囲を大きく震撼させることになる。
事の発端は王族に仕える使用人の一人であるミランダ・ヘンドリクスにあった。彼女は五年程前より城で従事する若い獣人女性であるが、能力の高さを買われて王家の御下を許され、新米ながらも現在リオの専属使用人として働いている。
彼女もまたリオの可愛らしさに深く魅了されて誰よりも積極的に世話をし、いつしか母親であるレティシアよりも共にいる時間が長くなり、そのせいかリオが見せる僅かな機微に気付き始めていた。
「リオ様ったら何の意志表現もなさらないものだから、違った意味でお世話が大変よ。ミランダはよく見抜けるものだわ」
「そうですか? 顔を見れば分かりますよ?」
両親ですら感情が乏しいようにしか見えないリオだが、楽しげあったり空腹を訴えていたりする細かな表情が、ミランダには見て取れるようになっていた。
やがて世話をする過程でリオが最も興味を抱いたものが本であると知ったミランダは、リオの好奇心を満たす為、彼を膝に乗せて字を見せながら毎日朗読を行った。
字というものが何なのか、どころか疑問にすら思わないであろう赤子にとっては、唯の汚れにしか見えないだろう。知らぬ者からすれば無表情のリオも、字の一つ一つ見つめるその瞳はは普段より真剣みを帯びている。これが魔人族の頂点に立つ王家嫡男なのか、と魔人に憧れるミランダはより魔人族への関心を抱いた。
最強の魔人族の血を引く国王と、歴代で最も強い魔力を秘めた森人族の王妃という、最高の両親より生まれたリオが、どれだけの才能を秘めているのか。ちょっとした興味本位で彼女はリオに書いてある単語を読ませようとした。
「リオ様。これは何と読みますか?」
ミランダが指さす文字はリオの名前の元にもなった“太陽”。彼女が現在抱えている本は“太陽と踊る獣達”という童話であり、作中にはあちこちに太陽という文字が出てきている。
確かに文章を指でなぞりながら朗読しているので、もしかしたならば発声音を記憶している可能性はある。だがミランダの意図を解するに必要な経験が無きにも等しい。そう、リオはまだ赤子なのだ。生後一月強の赤子にそこまで理解させ字を読ませるなど、土台無理な話である。無言のままミランダが指す文字を見つめるリオの様子に、いくら何でも早すぎるかと思ったその矢先だった。
「…………。た……い、よ……お……」
小さいが、確かに聞こえた王子の答え。ミランダは内から鳴り響く興奮という感情に呑まれる。
「え、ええ! そうですよ流石ですリオ様! これは“太陽”です! “たいよう”と読むんですよ! もう一度、読んで頂けますかっ!?」
「……たいよ、う」
ミランダの聞き間違いでは無かった。今の今までずっと沈黙を保ったままだった王子が声を、どころかミランダの意図を理解し文字を見て、間違いなく読んだのだ。ミランダは狂喜乱舞し、このことをいち早くお知らせしなければと、リオと本を抱えてグラウィスの居る執務室へと全力で駆けた。勿論そのことは後に使用人長から厳しく叱責されることになったが、グラウィスとレティシアは稀代の天才息子に大層喜び、城中が王子誕生の日の熱気が再燃し沸いたのだった。
「リオ、これは読める? これは? これとこれは?」
「おおか、み……へび……し、か……りゅー………よう、せい」
「きゃあああ凄い凄い! グラス聞いた!? 聞いたわよね! 天才だとは思ってたけど、まさか頭も抜群に良いなんて! どうしようかしらグラス! 私達の子は神に溺愛されているみたいよ!」
「まあ待て待て落ち着けレティ。まさに神速の物覚えの早さではあるが、なれば直ぐにでも正しい教育を施さねばならんだろう。だからな、まずは私をどう呼ばせようか考えているのだ。お父さんでもいいのだが、やはり威厳を持たせて父上が当然、いや柔らかくお父様だろうか。しかしパパという響きも捨てがたくてな。立派に育ったリオに酒を注がれながら、ぶっきらぼうに親父と言われるのがな……」
次第に妄想の世界へ引きずり込まれるグラウィスを無視し、レティシアは愛しい息子を胸に抱き締め愛でに愛でた。豊満な乳房に鼻と口を塞がれて呼吸が出来ないリオは、ぺしぺしと胸を叩いて開放を求めていたが、側近たちが引き剥すまで二人は気づかなかった。
リオの天才性は留まることを知らず、乾いた砂が水を吸うかのようにあらゆる知識を吸収し、生後半年経つ頃には簡単な会話が出来る程までに成長していた。四足移動も覚えたリオは教育の為にと設置された本棚へ自ら移動し、ほぼ毎日本を読んで過ごしていた。
リオの読む本は分野種類に偏りが無い。算学書が置かれていたのを見つけたミランダが、またもや試しと筆と紙を用意して簡単な足し算引き算をやらせればあっさりと解いた。芸術書があるのならと絵具を用意すれば、三日掛けて王と王妃が並ぶ絵を描いた。専門とする芸術家達と比べれば当然見劣りするものの、それでも幼児が描いた絵とは到底思えないほどの出来栄えであった。その絵をどこに飾るかで大騒ぎがあったのは、別の話である。
この年の子といえば活発になりあれやこれやと大騒ぎするのが常だが、リオは対照的で、産まれ落ちた頃から変わることは無かった。誰も困らせない。手間を掛けさせない。大人の期待に必ず答える理想の子。誰もがそう信じて疑わなかった。
更に月日は流れ、リオが二歳と九ヶ月を迎える頃。成長の早いリオは成人と変わらぬ会話力を身に着け、既に幼少とはとても思えないような空気を漂わせている。
何時ものように朝食後の日課の読書をしようと棚の本を抜くリオ。だが本は鉛の様に重く、彼の手を滑りぬけて足元に落ちてしまう。リオは怪訝そうな顔をし、拾いなおそうと腰を屈めた瞬間、足が、腕が、頭が、全身が急速に力を失い床に突っ伏してしまった。
自分の身に一体何が起こったのか。考えようとするも激しい発汗と共に発熱と頭痛が彼の思考を奪い、意識が朦朧とし始める。駆け寄るミランダが見えたところでリオの視界は途絶え、暗闇に落ちた。
ぐったりと、明らかに異常な様子を見せるリオの姿に、ミランダが、使用人達が微笑んでいた。