プロローグ
「え?」
トスッという音が、俺――玄道晋一の胸から聞こえた。
「なっ!」
左の方から女性の驚きが聞こえる。
『き、貴様っ!』
低く、怒りに満ちた声が、俺の後ろに向かって投げつけられる。
両手を後ろ手に縛られ、正座させられた格好のまま、視線を胸に落とす。
不思議な光景だった。
胸から、細く銀色に光る剣が、床に向けて生えるように伸びていた。
そして徐々に、赤い液体が剣をつたい滴り始める。
「クックック……」
後ろからはおかしくてたまらないといった、しわがれた笑い声が聞こえ、剣が抜き去られる。同時に力まで吸い取られる感覚に陥り、床にできた朱の水たまりに倒れこんだ。
「アーヒャッヒャッヒャッヒャッ!」
後ろにいた初老の男は、狂ったように嗤っていた。
「きさまっ!」
女性の澄んだきれいな声色が怒り一色に染められている。
『正気の沙汰とは思えぬ!』
強烈な怒声が、この場の空気を震わせる。
「正気~? 正気って何? 私が正気じゃないとでも?! じょ~だんじゃない! 私は正気だ! まったくの正気ですよ、レイ王様! アッヒャッヒャッヒャッ!」
男は両手を広げ、悦に浸ったように声を上げる。
「さあ! さあさあさあさあっ! 私の本気がわかっていただけたかな?」
顔や制服に糊のようにべったりとついた赤い液体に、今頃になって俺の血だと認識する。
「さあ、早く! 早く早く早く! 私によこしなさい!」
みるみる広がる赤黒い血はいったいどこまで広がるんだろう――なんて人ごとのように思う。
「――じゃないと、今度は、こっちのレジーナ隊長に死んでもらうことになりますよ?」
茶化すような声が俺の耳にも聞こえたが、頭にまで入ってこない。
「ぐっ!」
髪をつかまれ、剣をのど元に突き付けられた銀髪のきれいな女性が目に入ったが、これも脳はシャットアウトした。
『やめろっ!』
焦燥に満ちた声も、どこか遠い世界のできごとのように感じる。
「ならばっ! さあっ! ”世界の法”を早く!」
やばい、だんだん、意識が、遠のいて……。
「ワタシによこせえええええぇぇぇええぇえぇぇぇっ!」
狂気に満ちた声が広い空間にこだまする。
俺、どうしてこんなことになったんだっけ……。
確か、今日は――――。
「ハッ――はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
目が覚める。
窓から漏れるかすかな明かりを手掛かりに、いつもの見知った丸い蛍光灯が飾ってある天井が見えた。
自分の部屋の天井をしばらく見つめたあと、目線だけぐるっと動かす。
ここはベッドの上。仰向けになった俺の上に見える壁は無視して、左には鍵付きの扉がある。下の方には小さいながらもぎっしり入った本棚と、横に立てかけられた竹刀に木刀。右には俺の勉強机があった。
その机の角にこちらを向いて置いてあるデジタル時計に目をやる。
時刻はまだ早朝五時半。
俺は一息ついて、ゆっくりと起き上がる。
「夢か……」
嫌な夢を――見ていたんじゃないかと思う。
はっきりとは覚えていない。思い出せない……でもきっと、あの夢だ。
「……ふぅ」
ため息と共に頬を一筋の汗が流れる感覚に気づき、袖で拭う。
その動きで、触れた首元の冷たい感触に驚く。全身が冷汗でびっしょりだった。
予測が確信に変わる。
「……着替えよう」
その間にも無機質に時は刻まれ、時刻は五時三十六分。
日課の朝練の時間より三十分以上も早いが、夢見も悪く、こんな汗をかいた状態で、もう一度眠りにつくなんてとてもじゃないができそうにない。
胸の中にもやっとした、嫌な感じがまとわりついている。
「こういうときは、体を動かして振り払うのが一番、だよな……」
「997……998……999……1000!」
道着に着替え、木刀をもって庭先にて行う素振り千本。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
嫌なことを断ち切るように、いつもより力を入れて振り切った。
「はぁ、はぁ……ふ~」
呼吸が落ち着く。
先ほどとは違い、流れる汗が心地良い。
「ふう……」
しかし、胸の中のもやっとした感覚は、なくなりはしない。
空を見る。
薄暗かった空は太陽が昇り、今日一日の始まりを告げている。
その光が俺を照らし出すが、まぶしくて手で防ぐ。
視線を戻す。目の前にある一本の木を見る。
そこには、一枚の半紙が画鋲で張られている。
そしてその中心に張り付けられた、一枚の葉。
「……」
俺は、縁側に置いといた、真剣に持ち替える。
「……ふぅ……」
柄に手をかけて力を込め、キンッという高い金属音の後に、そっと抜き放つ。
艶のある黒の漆が塗られた鞘から現れる、鏡のような鋼の刃。丁子乱れの波紋も美しい。
鞘を置き、木との間合いをはかり、上段に構える。
「――」
時が、止まる。
静けさの中、緑に染まる葉に全神経を集中させる。
半紙は切らず、葉一枚のみ斬る。
呼吸を整え、いざ!
「ふっ!」
息を吐き切ると同時に、全力で振り下ろす。
刃は地面に、触れるか触れないかのすれすれで止まっていた。
玄道流剣術”薄葉切り”――手ごたえは、有り。
体勢を戻し、木に近づいて確認する。
「……」
葉は、切れていた――後ろの半紙どころか、木の表皮まで一緒に。
「……はあ~」
思わずため息が漏れた。
まあ、こんな精神状態じゃ成功するわけないよな。……一度も成功したことないけど。
「はっはっは、そう簡単にはいかんわな」
後ろからのぶとい声が聞こえた。
振り返ると、父の光一が甚兵衛の袖から出した太い腕で腕組みしながら、縁側の引き戸を背もたれにして立っていた。
「親父……」
「どれ……」
縁側の下においてあったサンダルを履き、筋肉質の大きな体をのっしのっし動かしながらやってくる。
貸して、と手を出してくるので、俺は刀を渡し、一歩下がる。
すると、親父は無造作に縦に振り下ろした。
振り下ろした先――さきほど俺が切った葉っぱの右側が真っ二つに斬られていた。
もちろん半紙は、切れていない。
「基礎はできているんだ。無理に形に捉われることはない。大事なのは集中力さ。それさえあれば、どんな体勢でもきちんと切れる」
「……簡単に言ってくれるぜ」
その通りなのだろうが、当然、並大抵の集中力ではないことはわかっている。
無造作に振り下ろしたように見える親父の所作。その実、刀を持ち、俺の安全を判断した時点で、眼光が変わり、一瞬で戦闘態勢のように雰囲気が変化し、集中力が爆発的に増したのを感じた。
無造作に見えた剣の軌道も一切のブレはなく、無駄も隙もなかった。
「鍛錬あるのみだ、息子よ」
「……へいへい」
はっはっはと高笑いして家に入っていく親父の背中を見送る。
まだまだ追いつけそうにない。
まったく、ただでさえ気分悪いのに、これ以上打ちのめさないでほしいもんだ。
「ああ、そうだ晋一」
縁側に上り、部屋の奥へ行こうとした親父が振り返って伝えてくる。
「あと十五分で七時だぞ。隼人君も迎えに来るだろうし、急いだほうがいいぞ。朝食はできてるからな」
「いぃ!? もうそんな時間かよ」
俺も慌てて縁側から家に入り、急いで着替えにいく。
出張が多く家にはほとんどいない親父だが、いるときはよく朝飯などは作ってくれる。
こういう時、朝飯の準備をしなくていいのは本当に助かる。……ただ、山盛りご飯に大量の揚げ物、みそ汁にサラダに副菜も三つほど……いくら食べ盛りの高校生だからって朝から多すぎるしヘビーだ。隼人なら大喜びなんだろうけどな。
俺は二階に駆け上がり、着替えと鞄を持って一階に下りてシャワーを浴びる。制服に着替え、パジャマに道着やタオルを洗濯機に入れてスイッチオン。台所に行って鞄を隣の椅子に置き、親父が用意しておいてくれた朝飯をかきこむ。
「早いぞ晋一。ちゃんとよく噛んでだな――」
「自分の方がいつも早飯のくせに」
「ぐ……いや、だからこそお前にはきちんと……」
「あ~もう、今日は説教はいいよ!」
飯を食い終わったところで、ちょうど玄関のチャイムが鳴った。
「おはようございます!」
玄関の戸が開き、隼人の声が聞こえた。
時計を見ると七時ジャスト。相変わらず時間ぴったりだな、あいつは。
「ごちそうさま! 行ってきます!」
俺は鞄をひっつかみ、ダッシュで玄関に向かう。と、廊下に親父の声が飛んできた。
「おーい。ちゃんと挨拶してから行けよ」
「あ、そうだった」
急ブレーキをかけ、迎えに来てくれた友人を見る。
「ごめん、もうちょっと待ってて」
「おう」
俺は鞄を隼人に渡し、慌てて居間へと戻る。
そこは親父の寝室で、隅に小さな仏壇がおいてある。
仏壇の前に座り、俺はチーンと鳴らして両手を合わせる。
そこには二枚の写真が飾られている。
一つは母さん。
俺が生まれて間もなく亡くなったと親父から聞いている。
正義感あふれる気の強い人だが、同時にとても優しい女性だったらしい。
もう一つは、シロ。
俺は子供のころ、小さな子犬を飼っていた。雑種か純粋な柴犬かはわからないが、柔らかくきれいで真っ白な毛並みから、安易に”シロ”と名付けた。
シロのことは大好きで、よくかわいがっていた。俺の好意が伝わっていたのか、シロも俺によくなついてくれた。まだ友達のいなかった俺には、本当に大切な相棒で、遊び相手で、シロといると辛いことも忘れることができた。
でも、ある事件をきっかけに、俺は――。
「母さん、シロ……。行ってきます」
俺は一礼してその場を去る。
部屋を出ると玄関には親父も見送りに来ていた。
「ごめん、お待たせ」
「気にすんな。さ、行こうぜ」
「ああ。じゃあ行ってきます」
「光一さん、行ってきます」
「ああ、二人とも、気をつけてな」
見送る親父を背中に感じながら、俺たちは外に出て玄関の戸を閉める。