1‐7「弟は兄を崖から落とす」
ご機嫌のいいニイナの後ろを歩いていた俺は後ろから迫り来る気配に気がつかなかったのだ。
それはとても大きく、威圧感があった。長く生きているゆえの威厳か。背筋が凍って、足が震え出す。けれどニイナは何事もないように、それに向かって睨みをきかせていた。さすがは魔王の妹ということだろう。その威圧感に負けないほどのそれを、ニイナも放っていたのだ。
赤い瞳の大きな獣。白銀に染まった毛並みは神々しく思えてくる。体長3メートルほどの狼。赤い瞳がこちらを睨みつけてくるのだ。その視線だけで殺めることができるような冷たい目だった。
怖い。恐い。恐ろしいのだ。全身の毛が逆だってしまっている。けれどその獣の姿はどこか綺麗で、俺は見入ってしまっていた。何か既視感を感じるような気がする。会ったことはないと思うけど。
ニイナは俺を庇うように、いや、彼女自身にそういうつもりはないのだろう。でもそれで俺が助かってるのだから、何も言えない。ユリスは何をしているんだ。妹の危機だぞ?
「あんた、私に何の用っ? 生憎だけどあんたに構っている暇はないの。そこ、どいてくれる?」
気丈にニイナは言っていた。けれど銀の獣はこちらを見据えるばかりで、何もしてこない。何がしたいんだ。ニイナも負けじとギロリと睨みをきかせていた。どうなるの、これから。
その時、俺の頭に誰かの声が響いてきた。
〈ーーこの森の怖さを知っているか〉
その声は重く、低い声だった。そしてそれは何故だか俺の心に重くのしかかるのだ。
〈再度問おう。ーーこの森の怖さをお前は知っているか?〉
「聞いているのっ!? あんたこの森の大主でしょ! 私を魔王の実妹と知っていての狼藉!?」
別に乱暴なことをしているわけではないので、狼藉というのは少し違うと思う。まあそんなことをつっこむことはしないけど。今だ獣の視線は俺から離れない。なんと答えて欲しいのだろう。怖いって?
どう答えるべきかわからなくて、俺はくん、と鼻を鳴らした。
〈怖いという意味を理解しているか?〉
「ーーそこまでにしておいてくれませんか、主。俺の兄さんにちょっかい出さないでくださいね」
ーーユリス。
いつの間に現れたのか、ニイナの前にユリスが立ちはだかっていた。銀の獣を睨むように、牽制していたのだ。ニイナは自分の事を助けに来てくれたと手を胸の前で組み、顔を綻ばせていた。……見なくてもわかる。それにしてもちょっかい?
〈ちょっかい? 否。私はただ問うているだけだ〉
「それをちょっかいだというんですよ。俺の兄さんに手を出すのはやめてください。これは命令です」
ユリスは俺以外には敬語で話すらしい。それはどうかと思うけど、人付き合いが苦手な彼としては、これが一番楽なんだろう。
その命令という言葉に獣は怯えているようだった。魔王としての命令に魔獣は逆らえないということなのだろうか。けれど気丈に獣はユリスを見ていた。
「兄さん、無事? こんなことになるはずじゃなかったんだけど。ごめんね、怖い思いした?」
そんなことはないけど。なんて答えたかったけど、ニイナの前で人語を話すのはダメだと思うから。俺は心配そうにこちらを覗き込むユリスを安心させるように、頬を叩いてあげた。
ユリスは俺の行動に安心したのか、ふっと笑みを浮かべた。その様子にニイナは不満げにこちらを見、獣はやれやれと呆れたように踵を返していった。奴は一体何しにきたんだろう。俺になんと答えてほしかったのだろう。
「ユリスっ! 私を助けに来てくれたのね!」
「ああ、いたんですか。別にお前を助けに来たわけではないですから」
でもやっぱりニイナには聞こえなかったらしい。
「怪我させるつもりはなかったんだ。ただ兄さんは強くなりたいと思っているようだから、少しでも実践を、と思ったんだ」
そんなことを考えてくれていたのか。鬼畜な弟と少しだけ思っていたけど、優しい弟に変えてあげよう。なんて思っている間に俺は抱き上げられて、ユリスの腕の中に抱かれた。なんかもうこの状態になれてしまっている自分がいる。
「兄さん、結局は何も狩れなかったんだね。でも安心した。やっぱり兄さんは僕に守られているべきなんだよ」
なんでこうもユリスは俺の兄としての立場を優先させてくれないんだろうか。守るっていつもそう言う。あの時、彼が一人でいるとき、俺は頼りなく見えたのだろうか。
でも(人間の)俺はユリスよりも背が高かったし、声だって低かった。守られるより、守ってやる、みたいな男前だったはずなんだけど。
「ニイナ、その汚い犬、守ったよ!」
「汚らわしくはないと、以前に言った筈です。次言うようなら、その舌、引きちぎってあげますよ」
それに怖い男になってしまったようだ。俺の教育間違えたかなあ。過保護にしすぎたのかもしれない。一人でいさせすぎたのかもしれない。俺はユリスの腕の中で弟の教育について少し考えていた。
ーーこれは兄離れをさせなくては!
そう決心する俺であった。