プロローグ――海獣マカラ
私は
浄化するものの中では風であり
武器を振り回す者の中ではラーマであり
魚類の中ではサメであり
流れる河川の中ではガンジスである
『バガヴァッド・ギーター』
第10章 神聖なる顕現のヨーガ 第31節
宇宙の深淵には、幾千もの光が瞬いている。その光の一つ一つに神が座している。人間が思い描くような、祈りに応えて奇跡を授ける存在ではない。星を支配し文明を従え、時に銀河そのものを戦場へと変える者たち。神々にとって星とは、国であり、兵器だった。
鉱物資源を絞り取るためだけに存在する採掘惑星。
百万の兵士を眠らせたまま浮かぶ、灰色の要塞星。
神そのものへ祈りを捧げる生命体で埋め尽くされた、信仰の星。
それらをどれだけ束ねているか――その総量こそが、神の力の証明だった。
強き神ほど、支配する星は多い。
そして神々には、絶対の階級が存在する。
第一位。
第二位。
第三位。
――そうして、最も光の届かぬ底辺まで。階級が上がるほど、支配下の星は膨れ上がり、率いる軍勢も肥大していく。
だからこそ。神々は、ある一つの名を耳にするたび、口の端を歪めた。
「マカラか」
水を司る海獣。
または異形の怪物の姿を持つ神。
そして――神々の中でも弱いとされる神。
当時のマカラは、下から数えて三番目の座にいた。
「マカラは戦力を持たぬ。奴は何にして強い。支配する星はない。率いる軍もない。従える属国もない。そんな奴が神に相応しいものか」
彼を崇める信徒すら、片手で数えられるほどしかいない。
「軍事力を持たぬ奴は神の戦争に出るべきではない」
マカラが戦場に出たことはない。神々の間で共有されたマカラの評価だった。
「なぜ神の座にしがみついている」
「お前に、何ができる」
「星ひとつ支配できぬ神に、何の価値がある」
序列一位のヴィシュヌの星、ヴァイクンタ。霧に包まれている中、声が飛ぶたびマカラは黙って俯いた。
拳を握ることも、顔を上げることもしない。
反論する言葉を、まだ持っていなかった。
――少なくとも、その頃は。
◇
それから月日は流れた。
マカラは変わった。
神々は、一柱、また一柱と、マカラの前から姿を消していった。
第九位。
第八位。
神に勝負を挑み序列を上げていく。
そして第七位の序列を決める戦争を起こした。
第七位序列戦
――マカラVSアレス
宣戦布告から三日。戦争の星エニュオの空を、数十万の戦闘艦が埋め尽くした。地下格納庫には巨大兵器がひしめき、大地には魔導砲が林立する。動員された兵の数は、もはや誰も数えていない。
旗艦の甲板に立つのは、この星の主にして戦争を司る神、アレス。手にした神槍アレス・ファランクスは全長数十メートル、その穂先の輝きだけで大地を穿つと言われる兵器だった。
地平線の彼方から、一人の男が歩いてくる。武器も鎧も、旗も兵もない。マカラだった。アレスの口元がわずかに歪む。
「本当に一人で来たか」
「第七位を、もらいに来た」
「なら見せてみろ。貴様の軍を」
アレスが槍を掲げると、背後を埋め尽くす軍勢が一斉に砲門を開いた。空が炎に染まり、大地が波打つ。爆炎の中心に立ち尽くしたマカラは、煙が晴れたあとも傷ひとつなく、肩についた灰を払っただけだった。
「なぜ当たらない」
兵士の声が震える。当たっているはずなのに、届いていない。焦れたアレスが神兵を放つ。全長三百メートルの巨兵が千、万と連なり、戦場を埋め尽くしていく。マカラは初めて足を止め、右手に紫の光をまとわせた。
「ならば俺も、数を使おう」
大地が盛り上がり、獣とも竜とも人ともつかぬ異形の群れが次々と生まれ落ちる。即興で紡がれた新たな生命が咆哮とともに敵陣へ駆け出し、戦場そのものがマカラの実験場と化していく。
マカラ自身も動いた。拳一つで戦車の群れが宙を舞い、蹴り一つで巨兵の装甲がひしゃげる。「囲め、数で押し潰せ」――叫びも虚しく、包囲する側から崩れていく。やがてマカラは空へ跳び、戦闘艦の群れを一隻ずつ、拳と衝撃波で沈黙させていった。数十万の光が、宇宙に咲いては消える。
気づけば、エニュオの空にも大地にも、動くものはほとんど残っていなかった。
「俺の軍が……」
アレスの声がかすれる。神力を総動員し、瞬時にマカラの眼前へ迫って槍を振り下ろすが、その一撃は片手一つで受け止められた。指に力が込められた瞬間、神槍に亀裂が走り、やがて粉々に砕け散る。
「お前は強い。だが、強かったのはお前の後ろにあったものだ」
一歩、また一歩と近づきながら、マカラは静かに告げた。
「俺には星もない。軍隊もない。だから――全部、俺一人でやる」
放たれた拳がアレスの身体を弾き飛ばし、静寂だけが戦場に残った。
その日、神々の記録に新たな名が刻まれる。
第七位――マカラ。星を持たず、軍を持たず、ただ一人で戦場を制した神。
誰かの喉が、小さく鳴った。
隣の神と目を見合わせる者。
額に浮いた汗を拭う者。
視線は、やがて一点に集まっていく。
玉座に座る、マカラへ。
豪奢な装飾も、傅く従者もない。
その姿だけを見れば、七位の神にはとても見えない。
沈黙を破ったのは、上位に座す神の一柱だった。
「……何を隠している」
マカラは、ゆっくりと顔を上げた。
「何も」
「嘘をつくな」
「本当だ」
「ならばなぜ、七位にいる」
マカラは、しばし黙り込んだ。
視線を自分の掌に落とし、指先をわずかに動かす。
やがて、静かに答えた。
「……知らぬ」
議場に、失笑が満ちた。
「知らぬ、だと」
「自分の力すら把握していないのか」
「所詮は偶然の産物よ」
嘲笑の声が幾重にも重なる中、マカラの表情は動かなかった。
ただ、自分の手のひらを見つめ続けていた。
――何かが、違う。
肌の内側、もっと奥の場所に、ずっと眠り続けている感覚がある。
神々が振るう力とは、質が違う。
星を従える力とも、明らかに異なる。
もっと根源的な、自分という存在そのものに刻まれた何か。
その正体を、マカラはまだ言葉にできずにいた。
そして以来、神々は彼をこう呼ぶようになった。
軍を必要としない暴虐神と。
◇
その日、マカラは一つの星へと落下した。
神々の領域から遥か遠く、名も知られていない惑星。
厚い大気の層を突き抜け、青く霞んだ海が視界いっぱいに広がる。
緑に覆われた大地。
空には、翼を持つ巨大な生物が群れを成して飛んでいる。
遠くには、石と煉瓦で組まれた城壁と、その向こうに広がる都市の輪郭が見えた。
マカラは膝をつき、乾いた土に手を突いた。
「……ここは」
見渡す限り、見たことのない生物ばかりだった。
見覚えのない植物が、風に揺れて葉音を立てている。
その時。
都市の方角から、何かが飛来した。
光。
炎。
雷。
三色の力が絡み合いながら、マカラの身体へ直撃する。
轟音が響き渡り、大地が波打つように揺れた。
立ち上る土煙。
それが晴れた場所に――
マカラは、傷ひとつなく立っていた。
「……」
肩についた土埃を、指先で軽く払う。
視線を遠くへ向けると、一人の人間が立っていた。
杖を握る手が、小刻みに震えている。
見開かれた瞳は、瞬きすら忘れたように固まっていた。
額から一筋、汗が伝い落ちる。
「ば……化け物……」
マカラは、わずかに首を傾げた。
「今のは、お前の力か」
「……っ」
人間が息を呑む音が聞こえた。
「面白い」
口元に浮かんだのは、笑みだった。
これまで神々に嘲られてきた弱者の影は、そこにはない。
純粋な興味。
未知への渇望。
そして――かすかな予感。
「この星には」
マカラは空を見上げた。
澄み渡る青。
その下にひしめく、無数の生命の気配。
神々の世界には、決して存在しなかったもの。
「魔法、というものがあるのか」
◇
その日、地球と呼ばれる星に、一柱の神が降り立った。
神々の中では最弱とされた者。
星を持たぬ神。
軍を持たぬ神。
そして――誰一人として知らない。
この弱者が、この星で何を知り、何を手に入れ、どこまで階段を上り詰めることになるのかを。
神々も。
人間も。
まだ、何も知らない。
――彼自身さえも。
自らの身体に眠る「あの力」の正体を。
これは、神々の下層から始まった一柱の神が、やがて神々の頂すら踏み越えていく物語。
『ゲノム・マカラの階段』
その第一歩が、今、始まる。




