第43話 未来を綴るための絶対値、そして創造主の胎動
1.捕食者たちのステートメント
フラッシュの瞬く無数の光と、シャッター音が鳴り響くホテルの大宴会場。
「ゼニス・シューズ株式会社 新規スポンサー契約発表記者会見」
と大書された金屏風の前に、風見凛は座っていた。
「風見選手。
プロ転向と大型スポンサー契約、おめでとうございます。
これでオリンピックへの環境は万全かと思いますが、プレッシャーはありませんか?」
スポーツ紙の記者が、マイクを向けて定型文の質問を投げかける。
凛は、真っ白なスーツに身を包み、手元のマイクをゆっくりと引き寄せた。
かつての彼女なら、「皆様の期待に応えられるよう、プレッシャーに負けず頑張ります」と、優等生の仮面を被って答えていただろう。
だが、今の彼女の瞳には、凍りついたような重圧の影はない。
あるのは、自らの美しさと強さを完全に自覚し、目の前にいる大人たちすらも喰らい尽くそうとする、誇り高き「捕食者」としての凄みだった。
「プレッシャーは、あります。
これだけ大きな資本と、多くの方々の視線を背負うわけですから」
凛は、カメラの放列に向かって、蠱惑的でさえある艶やかな微笑みを浮かべた。
「でも、私はその重さを恐れません。
皆様の期待も、スポンサーの皆様の力も……私がトラックの上で、誰よりも速く、誰よりも美しく走るための『最高のエネルギー』として使わせていただきます。
……どうか、私から目を離さないでください」
その圧倒的で堂々たるステートメントに、会場の記者たちは一瞬息を呑み、次いで我先にとフラッシュを激しく焚き始めた。
大人のルールの下で去勢された「見世物の競走馬」ではなく、自らの本能とエゴで観衆を支配する、真の女王の誕生。
会見が終わり、控え室へと続くバックヤードの廊下を歩いていた凛は、不意に腕を引かれ、誰もいない非常階段の踊り場へと引きずり込まれた。
「……っ、ちょっと!」
驚いて声を上げそうになった凛の口を、見慣れた大きな手が塞ぐ。
「……いい会見だったじゃねえか、女王様」
薄暗がりの中で、壁に背中を預けてニヤリと笑っていたのは、御影瞬だった。
彼もまた、数日後に国内トップリーグの強豪クラブとのプロ契約発表を控えており、今日は別の打ち合わせでこのホテルを訪れていたのだ。
「瞬……もう、驚かさないでよ」
凛は、瞬の手を退けながらも、その広い胸に自らすり寄った。
「見ててくれたの?」
「ああ。最高に生意気で、最高にいい女だったぜ」
瞬は、凛の細い腰を抱き寄せ、その首筋に顔を埋めた。
公の場で莫大なノイズ(期待と資本)を浴びた直後だからこそ、彼らは互いの存在を強烈に求めていた。
「……ちょっとノイズを浴びすぎた。
瞬、調律して」
凛が甘えるように囁くと、瞬は低く笑い、彼女の唇を深く、貪るように塞いだ。
互いのエゴとエゴがぶつかり合い、舌が絡み合う。
ほんの数十秒の、非常階段での密かな交わり。
だがそれは、プロの世界という巨大な重力によって歪みかけた彼らのEgo Cubeを、瞬時に元の完璧な『絶対定数』へと戻すための、不可欠な儀式だった。
「……これで、また走れるだろ」
唇を離した瞬が、凛の乱れた前髪を整えながら言う。
「うん。
……瞬も、プロの世界で潰されないでね」
「誰に言ってんだ。
俺のパスで、世界中のスタジアムを支配してやるよ。
……お前の視線もな」
二人は、暗がりの中で互いの熱を確かめ合うように笑い合い、そして再び、光の当たる過酷な「戦場」へと、迷いのない足取りで戻っていった。
2.完成された方程式
同じ頃。
深海大学の『特別キャリア支援室』。
神野太陽は、デスクの上で静かに回転するホログラムの数式を見つめていた。
E ={( A × P )× C2 }T乗
「目的への行動(A)」と「誰かへの想い(P)」の掛け合わせ。
それを安定させるための絶対定数「自己一致(C)」。
そして、時間と共に増大するノイズ(負の質量)を処理し、器を無限に拡張していくための「調律係数(T)」。
「……これ以上、手を加える余地はあるだろうか」
太陽は、タブレットの電源を落とし、深く息を吐き出した。
コンコン、とドアがノックされ、スポーツ人類学の三枝岳教授が姿を見せた。
「どうやら、君の『キャリア理論』にも進展があったようだな、神野」
三枝は、かつて太陽に貸し出した古代オリンピアの砂の小瓶や、モブフットボールの革を手提げ袋に入れながら、満足そうに頷いた。
「風見凛の会見、見たよ。
見事なもんだった。
企業に飼われるのではなく、企業の金と期待をエサにして、自らのエゴを燃やす……立派な捕食者の顔つきになっていた」
「ええ。
彼らはもう、自分自身でノイズを飼い慣らし、互いを調律し合う術を知っています。
どんな重力がかかろうと、自壊することはないでしょう」
太陽は、三枝に向かって深く頭を下げた。
「教授の助言と、貸して頂いた『歴史のアーティファクトという人間が五感で感じられる物』がなければ、彼らに原初の衝動を思い出させることはできませんでした。
「礼には及ばんさ。
俺はただ、現代の綺麗事の中で窒息しかけていた若者たちが、本来の『スポーツの熱』を取り戻すのを見たかっただけだ」
三枝は、手提げ袋を肩に担ぎ上げ、ドアに向かって歩き出した。
「だがな、神野。
人間の本能ってのは、理屈や数式で完全に縛り切れるもんじゃない。
君の方程式がどれだけ進化しても……いつか、それを超えるような『突然変異』が生まれるかもしれないぜ」
三枝はニヤリと笑い、キャリア支援室を後にした。
「……突然変異、か」
太陽は、自らの胸元で静かに明滅するEgo Cube『テッセラクト(四次元超立方体)』に触れた。彼自身が、世界のシステムから見たら最大の「バグ」だ。
だが、彼がこれまでに関わってきた若者たち。
演劇に命を燃やした市松陸や、スポーツの極限を体現した風見凛、御影瞬たちは、自らの意志で未来を創造する「突然変異」として、この世界に確かな波形を刻み始めている。
3.観測者たちの予感
「……本当に、最悪な男。神野太陽」
都内の高層ホテル、スイートルーム。
葛城美音は、ワイングラスを傾けながら、窓の下に広がる東京の夜景を見下ろしていた。
隣では、妹の奏音が退屈そうにヴァイオリンの手入れをしている。
「彼の理論、私たちの『調律(Tuning)』の概念まで組み込んで、また進化させちゃったわね」
美音がクスクスと笑う。
「人間が自らの意志で自我をコントロールし、愛する誰かと調律し合うことで、無限のエネルギーを生み出す。
……それはつまり、神様が書いた『運命のシナリオ』なんて必要ないって、高らかに宣言したのと同じことよ」
「……だから、世界が怒り始めたのね」
奏音が、冷たい声でポツリと呟いた。
彼女の持つEgo Cube『響』が、微かに不協和音を奏でている。
「ええ。聴こえるわ、奏音。
……あの暗くて深い、無間地獄の底から這い上がってくる、重くて冷たい管理者の足音が。
太陽がまた私たちを必要としてくる日も近そうね」
美音の瞳が、妖しく、そして待ちわびたような狂気を帯びて光る。
「人間が自ら『未来を綴る創造主』になるか。
それとも、システムが全てを管理する『完璧な世界』に戻るか。
……極上のエンターテインメントの幕開けね」
4.海辺の誓い
週末。
太陽は、深海明日美と共に、都心から少し離れた海辺を歩いていた。
夕暮れの海は、明日美の持つ『母なる海』の波形と同じように、穏やかで全てを包み込むような優しさに満ちていた。
「……インカレの熱狂が、ずっと昔のことみたいね」
明日美が、寄せては返す波を見つめながら言う。
「ああ。
でも、彼らが証明してくれた熱は、今も確かにこの世界に残っている」
太陽は、明日美の肩にそっと腕を回した。
「明日美。
……僕はこれまで、キャリアコンサルタントとして、迷える人たちに『自己一致』の道筋を示してきた。
でも、彼らがエゴを覚醒させ、自立していくたびに……この世界を管理しているシステムの奥底から、明らかな『拒絶反応』が強くなっているのを感じるんだ」
太陽の言葉に、明日美は静かに頷いた。
「気づいていたわ。
太陽のEgo Cubeが、最近、見えない何かと共鳴して震えていること」
「……システムは、人間が不確定な感情(愛)によって限界を超えることを『エラー』と認識している。
いずれ、彼らはそのエラーを修正するために、この世界の未来のシナリオを強制的に書き換えにくるはずだ」
太陽は、夕日に染まる水平線を真っ直ぐに見据えた。
「その時が来たら……僕は、僕が関わってきた全ての人たちの『未来を選ぶ権利』を守るために、システムの創造主に抗わなければならない」
それは、一人のキャリアコンサルタントとしての枠を超え、世界そのものの在り方に抗うという、途方もない覚悟の吐露だった。
明日美は、太陽の正面に回り込み、彼の両頬を温かい手で包み込んだ。
「……太陽。
私たちが5年前に発表した、カオス理論とキャリア理論を組み合わせて、無数の生命がエントロピーを増大させ続けるという、バタフライエフェクトからアプローチした『新たなガイア理論』。
その論文に組み込むための方程式は完成したんでしょう?」
明日美の深い海のような瞳が、太陽の瞳を真っ直ぐに捉える。
「あなた一人で闘う必要はないの。
あなたが救い、言葉を綴ってきた若者たちがいる。
そして……私が、あなたの『絶対定数』として、どんなノイズからもあなたを調律し続ける。
だから、思い切り抗えばいいわ」
「……明日美」
波の音が、二人の決意を祝福するように、静かに、そして力強く響いていた。
5.エピローグ:真の創造主の胎動
そして、現実の物理空間から遠く離れた、Gaeaネットワークの最深層。
『無間地獄』と呼ばれる情報の墓場のさらに奥底、事象の地平面の向こう側。
光すらも届かない絶対零度のデータ空間で、二千年間沈黙を保っていた巨大な『根源的プロトコル』が、突如として脈動を始めた。
『……警告。
特異点クラスの不確定エネルギー(Ego)の発生を複数観測』
『風見凛。御影瞬。市松陸。葛城美音。葛城奏音。深海凪。深海明日美。……および、特異点の中心核、神野太陽』
無機質なシステム音声が、虚無の空間に響き渡る。
『人間の感情(愛、嫉妬、闘争本能)による、規定シナリオの逸脱率が許容限界を突破』
『これ以上の自律的進化は、世界全体のシステム崩壊を招く危険性ありと判定』
その時、暗闇の中に、一つの影が浮かび上がった。
黒衣に身を包み、ステッキを手にした男。
かつてシステムの代行者として暗躍していた興行師、ヴィクトル・黒須だった。
「……ついに目覚めましたか。
このGaeaのシステムを設計し、世界を記述した古き管理者よ」
ヴィクトルは、狂気的な笑みを浮かべて、巨大な光の明滅に向かって深く一礼した。
『……エラーコード:EGO-100。
修正プロトコルを起動します』
『不確定要素を排除し、人類の未来を最適化された絶対のシナリオへと強制固定します。
……これより、世界の書き換え(アップデート)を実行』
「素晴らしい。
人間のエゴが神を超えるのか、それともシステムが勝利するのか。
……次の舞台は、この世界の『未来そのもの』を懸けた極上のエンターテインメントになる」
ヴィクトルが高らかに宣言すると同時。
世界の深層から、想像を絶する巨大な重力波が、現実世界に向けて一斉に放たれた。
若きアスリートたちが自らの肉体で綴った、熱く美しい理論の証明。
それは、神野太陽と彼を取り巻く全ての人々を巻き込む、次なる過酷な旅路への幕開けであった。
人間の意志と愛がシステムに打ち勝つのか。
それとも、完璧なプログラムが人間の未来から「エゴ」を奪い去るのか。
「言葉を綴る救世主」たちの闘争は、最終局面に突入する。
世界を規定するシステムに抗い、人間が真の意味で「自らの人生の創造主」となるための、存在を懸けた最大の試練の扉が、今、静かに開かれた。
『Spell -深淵を綴る探索者-』 完




