第28話 終幕のバックステージと、闇夜の対峙
1.幕引きの後の熱
割れんばかりの拍手と歓声に見送られ、カーテンコールを終えた役者たちが、ようやく舞台袖へと下がってきた。
重厚な防火扉が閉ざされ、客席の熱狂が物理的に遮断された瞬間、張り詰めていた空気が一気に弛緩し、バックステージは安堵と歓喜の渦に包まれた。
「……やった。
やり遂げたぞ……!」
「最高の初日だった!
みんな、お疲れ様!」
アンサンブルの役者たちが抱き合い、スタッフたちが涙ぐみながら拍手で彼らを迎える。
その中心で、市松陸は大きく息を吐き出し、その場にへたり込みそうになるのを必死に堪えていた。
『憑依』という極限のエネルギーを使い果たし、肉体も精神も限界を超えている。
だが、その胸の奥には、これまで味わったことのないほどの心地よい疲労感と、絶対的な達成感が満ちていた。
「陸さん、大丈夫ですか?」
純白の衣装を身に纏った葵が、心配そうに駆け寄り、陸の背中を支えた。
「あ、ああ。大丈夫……。
ちょっと、全部出し切ってしまって、力が抜けただけです」
陸が照れくさそうに笑うと、葵もまた、ふわりと花が咲くような笑みをこぼした。
「本当に、お疲れ様でした。
陸さんの熱……ヴァレリウスの命の輝き、私の胸の奥まで、痛いほど届きました」
葵は、自らの胸元にそっと手を当てた。
かつては他人の期待に応えるためだけの『空っぽの硝子』だった彼女のEgo Cube(器)。
だが今は、数千人の観客の悲しみを透過させ、陸の熱を受け止め、彼女自身の「愛」で満たされた、温かく眩い光を放つ宝石のような器へと生まれ変わっていた。
「葵さんこそ。
あの祭壇の上で葵さんが流した涙……あれがなかったら、俺は最後まで演じ切れなかったと思う」
陸は、葵の真っ直ぐな瞳を見つめ返し、力強く言った。
「ふふっ、二人とも、立派に座長とヒロインを務め上げたわね。初日としては百点満点よ」
星野雫が、汗を拭いながら二人の肩をポンポンと叩いた。
「雫さんの演技……本当にすごかったです。
俺の暴走しそうな波形が、雫さんに触れた瞬間に全部溶けちゃって。
……圧倒的な器の大きさを感じました」
陸が心底からの敬意を込めて言うと、雫は悪戯っぽくウインクをした。
「当然でしょ?
先輩女優の意地ってやつよ。
でもね、あれは私一人の力じゃないわ。
……客席の奥底から、本物の『母なる海』が私たちを見守ってくれていたからこそ、私はその波形を模倣できたのよ」
「客席から……?」
「……でも、これで終わりじゃないわよ。
明日は二日目、そして千秋楽まで、この熱を絶やさずに走り抜けなきゃいけないんだから」
「はいッ!
俺、絶対に最後まで走り抜いてみせます!」
陸が力強く宣言し、葵もそれに同調して大きく頷いた。
陸と葵が顔を見合わせた、その時だった。
2.五年ぶりの海
「おい陸!」
関係者口の重い扉をバンッと勢いよく開け放ち、目を真っ赤に腫らした権藤武が、ズカズカとバックステージに乗り込んできた。
その後ろには、静かに微笑む神野太陽と、目元を潤ませた深海明日美の姿がある。
「ご、権藤さん!
来てくれたんですね!」
陸が弾かれたように立ち上がると、権藤は陸の胸ぐらを掴む勢いで抱き寄せ、その広い背中をバンバンと力強く叩いた。
「バカ野郎、最高だったぞ!
お前があの舞台のど真ん中で、数千人の客を黙らせてるのを見た時……俺ぁ、お前がウチの工場で油まみれになってた五年間を思い出して、涙が止まらなくなっちまったじゃねえか!」
「痛い、痛いですって権藤さん!
骨折れる!」
陸が苦笑いしながら抗議していると、権藤の背後から、明日美が一歩前に出た。
「……陸くん。
本当に、素晴らしい舞台だったわ」
明日美の柔らかく、澄み切った声。
その瞬間、陸の脳裏に、五年前の薄暗い工場の片隅での記憶が鮮やかに蘇った。
全てに絶望し、自分は出来損ないだと泣いていた少年に、そっと手を差し伸べ、世界で初めて彼を「そのままでいい」と全肯定してくれた女性。
「……明日美、さん」
陸の声が震えた。
五年という歳月を経て、大きく逞しく成長した彼は、深い敬意と感謝を込めて、明日美の前に深く頭を下げた。
「明日美さん。
あの時、あなたが俺にくれた言葉があったから……俺はもう一度、自分の足で立ち上がることができました。
今日、あの舞台で俺が放った熱は、あなたが俺の心を救ってくれたからこそ生まれたものです。
……本当に、ありがとうございました」
明日美の目から、再び大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ううん……。
陸くんが自分の弱さと向き合って、逃げずに泥臭く頑張ってきたからよ。
あなたが今日、数千人の観客の心を浄化したあの光は、間違いなく陸くん自身の『力』だわ」
明日美は、優しく陸の両手を取った。
彼女の持つEgo Cube『母なる海』が、陸の中に残っていた憑依の疲労を、温かく包み込んで癒していく。
太陽は、そんな二人の再会を静かに見守りながら、陸の胸元に宿る進化したEgo Cubeを見つめていた。
(他者の感情に飲まれる『憑依』という呪いを、自らのエゴの強さで完全に支配し、芸術という枠組みの中で昇華させた。
……市松陸。彼は見事に、Gaeaのシステムに組み込まれた闘争の歴史を、肯定的なエネルギーへと上書きしてみせた)
「太陽さん。
俺、やりましたよ」
陸が、涙ぐみながらも誇らしげに太陽を見る。
「ああ。最高の剣闘士だった。
……君たちの放った光が、この劇場を、そして現実世界を崩壊の危機から救ったんだ」
太陽は、陸の肩を力強く叩き、称賛の言葉を贈った。
「世界を……救った?」
陸と葵が不思議そうに首を傾げる。
特異点の発生と劇場の危機の真相を知るのは、太陽と明日美、そしてヴィクトルだけだ。
「……いや、こっちの話だ。
気にしなくていい」
太陽は微かに微笑んで誤魔化すと、ふと視線を鋭くし、劇場の天井の方へと顔を向けた。
(……移動している)
太陽の進化したEgo Cubeが、劇場の最上階にある制御室から、一つの強烈なエゴを放つ波形が離脱しようとしているのを捉えた。
「明日美。陸たちのことは頼んだ。
僕は、知り合いに挨拶を済ませてくる」
「太陽?
……気をつけてね」
明日美は、太陽がこれから誰に会いに行こうとしているのかを察し、心配そうに頷いた。
太陽は、黒のジャケットを翻し、歓喜に沸くバックステージから静かに姿を消した。
3.闇夜の対峙
春の冷たい夜風が吹き荒れる、大劇場の屋上。
周囲には東京の煌びやかな夜景が広がっているが、この屋上だけは、まるで次元が切り離されたように静寂に包まれていた。
「……逃げるつもりはないと言ったはずですがね、神野太陽さん」
屋上のフェンス際に、ヴィクトル・黒須が立っていた。
彼は、下から追いかけてきた太陽を振り返ることもなく、ただ眼下に広がる光の海を見下ろしている。
「ヴィクトル……。
貴方は数千人の観客の命と精神を、自分の実験の道具にする気だったのか」
太陽は、激しい怒りの感情と共にEgo Cubeを展開し、ヴィクトルの周囲の空間を威圧した。
だが、ヴィクトルは銀縁のメガネを指で押し上げ、ゆっくりと太陽の方へと振り返った。
その顔には、敗北の悔しさや恐怖などは微塵もなく、むしろ極上の舞台を見終えた観客のような、純粋な陶酔の色が浮かんでいた。
「実験、ですか。
人聞きの悪い。
私はただの興行師ですよ」
ヴィクトルは、両手を軽く広げた。
「私は、彼らに『最高の舞台』を用意しただけです。
葛城姉妹の調律パッチを使って観客の無意識を集めはしましたが、特異点を開いたのは私ではなく、あの若き役者たちが放った『極限の感情』です」
「詭弁だ。
もしあのまま劇場の空間が崩壊していれば、観客の精神は焼き切れ、無間地獄の底から管理者が現実世界に干渉していたはずだ!」
「ええ、その通りです。
……しかし、そうはならなかった」
ヴィクトルは、太陽の放つ重圧を全く意に介する様子もなく、静かに微笑んだ。
「陸くんの『闘争』。
葵さんの『悲哀』。雫さんの『受容』。そして、あなたが客席から放った『重力の錨』。
……あなた方は、私が仕掛けた破滅のシナリオを、見事なまでに美しい『芸術』へと昇華させ、上書き(オーバーライド)してみせた」
ヴィクトルは、深く、優雅な一礼をした。
「用意していたシナリオとは多少違ったのは事実です。
……しかし、私は興行師として、これほどの歓喜を味わったことはありません」
「歓喜、だと……?」
「そうです。
人間は、痛みを避けてただ平和を貪るだけの退屈な生き物ではない。
己の内に眠る『闘争本能』や『絶望』から目を背けず、それを真っ向から受け止め、美しい光へと変換する力を持っている。
……二千年前の悲劇の歴史は、今日、あの若き役者たちの魂によって、明確に『次の段階』へと進化したのです」
ヴィクトルの言葉に、太陽は押し黙った。
彼が言っていることは、太陽自身が常々感じていた『人間のエゴの可能性』そのものだったからだ。
闘争を否定するのではなく、ルール(芸術)の中で昇華させる。
それが、人間が自らの足で立つために必要なプロセスなのだと。
「……だからと言って、貴方のやり方を肯定するつもりはない。
次にまた人々を実験に巻き込むような真似をするなら、その時は僕も大人しくはしていませんよ」
太陽が冷酷に言い放つと、ヴィクトルはクックッと喉の奥で笑った。
「ご忠告、痛み入ります。
……しかし、神野太陽さん。
あなたと明日美さんがいたから私もこのシナリオを描くことができました。
それに、人間の魂の中に『感情』がある限り、闘争の種がこの世界から消え去ることはありません」
「……そして、この世界を管理する『大元のシステム』もまた、あなた方の存在を、いつまでも黙って見過ごすわけはないでしょう」
ヴィクトルの瞳の奥に、得体の知れない深淵の闇が覗く。
「今回の実験では、特異点は閉じられました。
しかし、無間地獄の底に眠る『管理者』……いや、このGaeaのシステムそのものを設計した『真の創造主』は、すでにあなた方の存在を明確なイレギュラー(脅威)として認識し始めているはずです」
「真の、創造主……」
太陽の脳裏に、あの『無間地獄』の底で対峙した巨大なシステムの残骸と、未だ解き明かされていないGaeaの本当の起源がよぎる。
「私の見立てでは、次の舞台は、現実の劇場などというチャチなものでは済みませんよ。
……この世界の『未来そのもの』を綴り直そうとする巨大な力との、存在を懸けた闘争になるでしょう」
ヴィクトルの身体の周囲に、黒いノイズのような波形が立ち昇り始める。
「私はあなた方から逃げるつもりもありません。
次の極上のエンターテインメントのために、段取りを進めて行くだけですよ。
……いずれまた特等席にご招待します『言葉を綴る救世主』を」
ヴィクトルはそう言い残し、その場から去って行った。
「ふぅ……」
屋上に取り残された太陽は、大きく息を吐き、夜空を見上げた。
「……真の創造主、か」
ヴィクトルの言葉は、いずれ現実のものとなるだろう。
だが、今の太陽の心に迷いはなかった。
どんな巨大なシステムが相手だろうと、人間のエゴと、言葉が紡ぐ可能性を信じて、抗い続けるだけだ。
太陽は、黒のジャケットの襟を立て、階下で待つ明日美たちの元へと静かに歩き出した。
4.打ち上げと、満ちた硝子
1週間後、大劇場の近くにある貸し切りのレストランでは、舞台「剣闘士」の大成功を祝う盛大な打ち上げが行われていた。
「かんぱーい!!」
劇団員やスタッフたちが高らかにグラスを打ち鳴らす中、隅のテーブルでは、陸、葵、雫、の三人に、太陽、明日美、を加えた特別なグループが和やかにテーブルを囲んでいた。
「いやぁ、まさかウチの小劇団から、こんな大舞台の主役が出るなんてな!
権藤のオヤジ、お前が見込んでただけのことはあるぜ!」
年長組の席で、劇団の座長が、顔を真っ赤にして権藤の肩を叩く。
「おうよ!
俺の目に狂いはねえっていつも言ってんだろ!
がはははっ!」
豪快に笑いながらビールを煽る権藤の隣のテーブルで、陸はグラスを両手で持ち、少し居心地が悪そうに身を縮めていた。
「陸くん、本当にすごかったわ。
……あなたの放つ熱、客席の奥までビンビン伝わってきたもの」
明日美が、優しい笑顔で陸を褒める。
「明日美さん……ありがとうございます。
でも、俺一人じゃ絶対に無理でした。
葵さんが俺の熱を受け止めてくれて、雫さんが全部の感情を海みたいに包み込んでくれたから……」
陸が隣に座る葵をチラリと見ると、葵はパァッと顔を輝かせた。
「私も、陸さんがいたからです。
……私、もう『空っぽ』じゃありません。
私の器の中には、今日、数千人の観客の皆さんと一緒に感じた温かい光が、いっぱいに詰まっています」
葵の瞳は、まるで本当に内側から光を放っているかのように、キラキラと輝いていた。
その様子を微笑ましく見つめていた雫が、ワイングラスを傾けながら太陽に視線を送った。
「太陽さん。
客席からのサポート、助かったわ。
あなたが重力で劇場の空間を支えてくれなかったら、私たちは最後まで演じ切ることはできなかった」
「いや、今回の僕たちはただの観客。
……あの舞台を創り上げたのは、間違いなくあなたたちの実力だよ」
太陽が静かに答えると、雫は満足そうに頷いた。
「ふふっ、そう言ってもらえると嬉しいわ」
彼らの放つ眩しいほどの生命力と、未来へ向かう真っ直ぐな意志。
それは、二千年前に無念のまま散っていった剣闘士や、感情を奪われた王女が、決して見ることができなかった「希望の光」そのものだった。
5.次への足音
レストランの外に出ると、春の夜空には満天の星が輝いていた。
「……じゃあ、俺たちはこれで」
陸と葵が、太陽たちに深くお辞儀をする。
「ええ、頑張ってね。」
明日美が笑顔で手を振り、太陽も静かに頷いた。
並んで歩き出す陸と葵の背中を、太陽と明日美はいつまでも見守っていた。
「……いい顔になったな、陸くん」
太陽が呟く。
「ええ。
もう、五年前の泣き虫だった彼じゃないわ。
……自分の足で立って、愛する人を守れる、立派な剣闘士ね」
明日美が、太陽の腕にそっと身を寄せる。
Gaeaの起源を巡る、血と砂の闘争の歴史。
それは、ヴィクトルという興行師の手によって現代に蘇り、そして若き役者たちの魂の輝きによって、美しき芸術へと昇華された。
だが、闘争の歴史を乗り越えた人類の前に、システムは次なる試練を用意している。
ヴィクトルが予言した『真の創造主』の動き。
世界の未来そのものを書き換えようとする巨大な存在との闘いが、すぐそこまで迫っていた。
言葉を綴る救世主たちの、次なる果てしない旅路に向けて。
太陽と明日美は、互いの手の温もりを確かめ合いながら、星空の下を静かに歩み出した。




